逃げた先に、運命

夢鴉

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二章 新しい自分

13-1 兄弟愛

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「はぁぁぁ……」

 パソコンを打ちながら、俺は大きく息を吐き出した。
 無機質なタイピング音が淡々と耳に響く。

 事務所の山になっていた書類がどんどん片付いていくのを横目に、俺はタカさんとの会話を思い出していた。

『彼には俺も妻も感謝してるんだよ』

(家族の人たちにそこまで言われるって、凄いことだよな……)
 そんな人に俺は何て失礼なことを考えていたのか。
 今思えば、相手の人にも失礼だし、蜜希さんにも失礼だったと思う。

(俺ってこんなに格好悪い奴だったのか)

「あ゛ああ゛ーー……」
「……おい。さっきからうるせぇよ」

 バンッと机が音を立てる。
 俺は顔を上げ、朝陽の顔を見た。
 心底苛立ちを隠さないまま、俺を見下げている。

「何?」
「『何?』じゃねぇよ。さっきから『はぁはぁ、はぁはぁ』うるせぇ。犬かテメェ」
「ああ……悪い」
「辛気クセェ面で謝んな。ウゼェ」

 けっと吐き捨てる朝陽。
(その嫌そうな顔も慣れて来たな)
 容赦ない彼の対応に、俺はぼうっとしながら資料を捲る。

 事務所にあった書類の山は、アルファ二人のお陰でエレベストから富士山程にまで減っていた。
 それでもまだまだ量はあるけど。

「仕方ないだろ。こっちは振られたばっかりなんだぞ。少しは労わってくれてもいいんじゃないか?」
「ハァ? 労わるわけねェだろ、バカか」
「知ってる」

 大きく息を吐いて、俺は天を仰ぐ。
 端的に言えば、『非常にやる気が出ない』。
(蜜希さんに良いところ見せる理由も、もうなくなったし)
 今までのモチベーションが全部なくなっている気がする。

 再びため息を吐けば、朝陽のため息が被さるように聞こえて来る。

「テメェ、そんなんでよく兄貴のこと狙ってたな」
「仕方ないだろ、番がいるって知らなかったんだ」
「あ? 知らなかったのかよ。ダッセェ」
「うるさい」

 俺はマウスを動かしながら、口を尖らした。
 新しい資料を引き出して、古いものはシュレッダーにかけた。

 黒い機械が、白い紙を食べていく。
 その様子にどこか既視感を覚えながら、俺は項垂れる。

「はぁ……なんで俺にだけフェロモンが効くんだよ……」
「あ゛?」

 ぽつり。
 呟いた声に、朝陽のどすの利いた声が聞こえる。

「テメェ……もしかして発情期中の兄貴の部屋に入ったのか?」
「え? ああ、まあ、昼飯を届けにな」

 それだけじゃ済まなかったけど。

 言いかけて、口を噤む。
 そんなこと知ったら、朝陽は確実に怒りに顔を真っ赤に染めるだろう。
 俺の胸倉を掴んで、ぶん殴るくらいはするかもしれない。否、絶対にする。

 俺は、抱きしめた蜜希さんの温もりを思い出す。

 ――甘美で濃厚なフェロモンの中で確かに感じた、蜜希さんの体温。
 肌の質感や柔らかさ。体の強張り。汗の匂いまで、全て思い出すことが出来る。

(……あのまま、ずっといられたら一番幸せだったのにな)
 蜜希さんにとっては、忘れたいような時間だったとしても。

「テメェ、マジで最悪だな」
「は? なんだよ、突然」

 朝陽の乱暴な言葉に、俺は眉を寄せる。
 振り返れば、軽蔑したような視線が俺を見つめていた。
(そんな顔される理由ないと思うんだけど)

 強い視線で睨み返していれば、ハッと鼻で笑われた。

「発情期中のオメガの部屋に入るなんて、痴漢かよ」
「な――ッ!?」

 ストレート過ぎる直球玉に、俺は面を食らう。
(痴漢って……!)

「何でそこまで言われなきゃいけない!」
「だってそうだろ。向こうから来たわけでもない。それなのに、中で何が起きてるのかわかってるくせに無理矢理入るなんざ、痴漢以外の何物でもねェよ」
「っ、知らなかったんだよ! 蜜希さんがオメガだって! ずっと風邪だって聞いてたからな!」
「だからって部屋に入る必要はねェだろ」

「親父に部屋の前に置いとけって言われなかったか?」と言われ、俺はぐぅっと唸った。
 彼の言う通りだ。

「……確かに言われた。でも、家の中に蜜希さんのフェロモンが充満してたんだよ」
「あ?」
「すぐに逃げないと駄目だと思った。でも、足が動かなかったんだ。気づいたら……蜜希さんの部屋の戸を開けてた」

 自分を誘うような、甘美な香りが家の中に充満していたのを思い出す。
 あの時の抗えないほどの渇きと欲は、今でも腹の底で記憶として残っている。

「……テメェ、兄貴のフェロモンがわかんのかよ」
「は? わかるだろ。むしろわからない方がおかしい――――」

 瞬間、俺は胸倉を掴まれた。
 朝陽の容赦のない手が、俺の首を絞める。突然のことに俺は咳を零した。

「な、なにし――」
「兄貴に指一本触れてねェだろうなァ!?」

 目の前から響く怒声に、俺は息を飲む。
 威嚇なんてものじゃない。完全な怒りと殺意が見えている。

 俺は堪らず身震いをした。
 しかし、こっちも負けているばかりではいられない。
 俺は朝陽の手を掴むと、強く引き下ろした。詰まっていた気道が通りやすくなる。

「ッ、お前が思ってるような触り方はしてない。蜜希さんも『大丈夫だった』って言ってたしな」
「兄貴の大丈夫は信用ならねェんだよ」

 気持ちはわかるが、それを言われたらどうしようもない。

 俺は朝陽を真っすぐ見つめた。
 視線を逸らしたら負けたことになる気がするからだ。

 静かな睨み合いが続く。
 そこに響いたのは、第三者の冷静な声だった。

「何してるのさ、二人とも」

 俺と朝陽はほぼ同時に振り返る。
 声の主は蜜希さん。
 いつの間にか事務所にやって来た彼は、呆れた顔で俺たちを見ていた。
「兄貴!」と朝陽が一番に反応する。

「兄貴、コイツに何にもされてねェだろうなッ!? こんなクソみてェな男に、兄貴がやられるわけねェし! つーかなんで発情期中に他人に飯運ばせてんだよ! よりによってこんな信用ならねェ奴に!」

 ガクガクと蜜希さんの肩を揺らす朝陽。
(言いたい放題だな)
 そう思ったが、俺は反論しなかった。
 反論したらしたで、余計に面倒になりそうだったからだ。

 蜜希さんは死んだ目で朝陽の言葉を聞いていた。
 ああだこうだと、ひとしきり喚いたのを聞くと、蜜希さんの手刀が彼の頭上に落ちる。
「イデェ!」と不格好な悲鳴が響いた。

「な、何すんだよ兄貴……」
「朝陽が変なこと言うからでしょ。ていうか、さっきの話何? 誰から聞いたの?」
「暁月」
「俺は何も言ってないよ。あとさん付けはどこいった、朝陽?」

 俺が口を挟めば、朝陽は心底嫌そうな顔で視線を逸らした。
(こいつ……)
 この前の罰ゲームのこと、もう忘れたのかよ。
 そう言いかけて、それよりも早く蜜希さんが口を開く。

「朝陽」
「!」

 凛とした声に、朝陽の肩が跳ねる。
 ギギギ、と錆びた音がしそうな動きで、彼は蜜希さんを見た。

「此処は、どこ?」
「じ、事務所」
「そうだね。此処は事務所だ。他に人がいるかもしれない、公共の場。そんなところでお前はデカい声で何を言っているのか――もちろん、自覚あるよね?」

 ひぇっとどこからか小さな悲鳴が聞こえたような気がした。

 俺はタカさんが教えてくれた蜜希さんの昔の話を思い出した。
(これが、その時の片鱗ってやつか……?)
 “ヤンチャをしていた”なんて軽い話じゃ全然ない気がするけど。
 もしこれが蜜希さんの本性なら、絶対に逆らってはいけない気がする。否、絶対その方がいい。

 朝陽は後退る。
 しかし、蜜希さんの圧のかかった笑顔が逃がそうとしない。

「わ、わる――」
「ごめんなさい、でしょ?」
「ごめんなさい」

 蜜希さんの圧力に、朝陽が屈した。
 頭を垂れ、謝罪をする朝陽。
 蜜希さんは「よろしい」と呟くと、そのオーラを引っ込めた。

(自由自在なのか、あのオーラ)
 なんかすごいものを見たな、と思う。

「まったく。朝陽は本当に後先考えないんだから」
「うっ。わり……ごめんなさい」
「はぁ。もういいよ。僕の事心配してくれたんだろう? ありがとう」

 蜜希さんの言葉に、朝陽が目に見えて元気になる。
 嬉しそうに顔を上げる彼の背後に大きな尻尾が見えたのは、俺の幻覚だろうか。

「大丈夫だよ。確かに見られはしたけど、暁月くんには何もされてない」
「本当か? 庇ったりとか――」
「朝陽、兄ちゃんの言うことが信じられない?」
「そ、そういうわけじゃねぇけど……」
「じゃあ信じられるよね?」

 蜜希さんはそう言い募ると、朝陽の頭を撫でた。
 朝陽は納得していないものの、それ以上は聞いてこなかった。
 というか、撫でられたことで、それ以外のことは頭から吹っ飛んだらしい。
(単純な奴だな)

 ――でも、不思議と嫌いになれない。
 あれだけ暴言を吐かれたり、胸倉を掴まれたりもしたけど、その行動には、必ず蜜希さんという“兄”への深い愛が見えるからだ。

(……いいな)
 俺は眩しさに目を細める。
 こんな兄弟関係が、世の中にはあるんだな。
 自分の手には一生かけても入らない世界なんだろうけど。

 ふと、蜜希さんの瞳が俺を見る。
 綺麗な月の瞳に、一瞬息が止まった。
(な、んで、急にこっち……)

 蜜希さんは何も言わない。
 ただじっと俺を見ているだけだった。
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