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三章 感情に蓋をして
16-2 悪魔からの電話
しおりを挟む――遡るのは、昨日の出来事。
鳴り響いた電話の向こうから聞こえたのは、覚えのある声だった。
「はい、宵月旅館です」
『凛か』
静かに聞こえた声に、俺は受話器を落としてしまった。
派手な音が相手側に響いたはずだ。
しかし、俺はそれを心配するよりも先に、言い訳を考えていた。
もちろん、すぐに纏まるわけもなく。
かといってこのまま放置するわけにもいかず、俺は受話器を広い上げた。
「……兄さん」
『そんなところで何をしている?』
再び聞こえる、悪魔の声。
返事が出来ずにいれば、『なんだ。ぬるま湯に浸かり過ぎて、兄の声まで忘れたか』と嘲笑するような声が聞こえた。
「……忘れるわけ、ないだろ」
震える声でそう答えれば『そうか』と短い返事が返ってくる。
その間も、俺の心臓は忙しなく鼓動を叩きつけていた。
――兄。暁月 一(あかつき はじめ)。
俺の五個上の、アルファだった。
彼を一言で表現するなら、“完璧超人”。
何でも出来る人。出来ないことは一つもない人。
見た目もよく、頭もいい。これで人当たりが悪ければ面白いが、そんなこともない。
ただただ、“すごい人”。
それが俺の兄だった。
『忘れたと言われたらどうしよかと思ったぞ』
「……よく言うよ。実の兄でもないくせに」
拳を握りしめる。
電話の向こうで、『そんなこと言うな。互いにたった一人の兄弟だろ?』と言われる。
(兄弟だなんて、思ってないくせに)
俺は舌打ちでもしたい気分だった。
――俺と一は、実の兄弟ではない。
はじめは俺の父親の姉にあたる人間で、今から八年前に交通事故で他界している。
当時中学生だった俺の元に、一は“優秀過ぎる兄”としてやって来たのだ。
(中学高校は、とにかく兄さんと比べられたな)
顔が似ていたのも、あるかもしれない。
「一くんはもっとすごかったのにね」と言われた回数は、片手じゃ足りないくらいだ。
「凛君もすごいけどね」とフォローを入れられるのも、同じ回数だけあった。
その度に俺は、自分が劣等種なのだと言われているようだった。
「……なんでここがわかったんだよ」
『可愛い弟の事は誰だって調べるだろう』
「茶化すなよ」
『SNSで見たんだよ。お前が田舎の観光地で働いてるって』
『撮られてること、気づかなかったのか?』と言われる。
(ああ、気付かなかったよ)
内心で吐き捨て、俺は眉を寄せる。
旅館内での写真には気を付けていたつもりだったが、まさか撮られていたなんて。
「場所は? どうやって分かった?」
『作務衣服を着ていたからな。そんな特徴的な服を着る職種は、そうない。すぐにわかった。方法も聞くか?』
「……いや、いい」
俺は首を振る。
話を聞いているだけなのに、どんどん頭が痛くなってきた。
(もしかしたら、もっと前にわかっていたのかもしれないな……)
わかっていて、泳がされたのだろう。
俺がその場を動かないと確信して。
でないと、電話をしてこない。彼はそういう男だ。
『それで。お前はいつこっちに返ってくるつもりだ? まさかそのままそっちにいるつもりじゃないんだろう?』
兄の冷たい声に、俺は言葉を返さなかった。
――否、返せなかった。
自分が一瞬でもそうしようと思っていたことが頭を過ったからだ。
「……そんなわけないだろ」
『そうか。ならいいんだ』
俺の返答に満足したのか、兄は静かに告げる。
内臓の奥がきゅうっと締め付けられた気がした。
息が浅くなっていく。
どうしたらこの苦しい時間から脱却できるのか。
(そりゃあ、いつかはって思ってたけど……)
――でもまさか、こんなすぐにくるなんて。
『凛』
「っ……!」
『お前が何を想ってそんなところに行ったのかはわからないが、お前が逃げたせいで、どれだけの損害を家が被ったのか。考えられないほど、お前は馬鹿じゃないはずだ』
「……」
『次男とはいえ、お前は暁月家の人間。勝手な真似は控えるべきだ。そうだろう?』
淡々とした声は、まるで俺を氷の部屋に連れ立っていくようだった。
四肢が冷え、指先が氷のように冷たくなっていく。
「……そんな、こと……」
『わかっている? 本当にそうか?』
兄の冷たい言葉は俺の心臓を的確に刺した。
『凛はいつもそうだ。行きたい学校があるとか言って、俺の進めた大学を勝手に蹴るし、かと思えば入ったのは三流もいい所の大学じゃないか。本当に入りたいわけでもなかったくせに』
間髪入れずに次々と言葉の刃が飛んでくる。
兄の、こういうところが俺は昔から苦手だった。
『意地を張ったのだとすぐにわかったよ。まあ、友人は選んでいたようだけど、まさか大学を放り投げてまで会いに行く人がいるなんて……おじい様が知ったらどうなるか』
「っ、蜜希さんは関係ないだろ!」
無意識に叫んでいた。
事務所に来ていたパートの佐藤さんが、驚いたように目を見開いている。
俺は慌てて頭を下げると、大丈夫ですと口だけで彼女に伝えた。
狼狽えている彼女にすぐにでもフォローを入れたかったが、今はそんな余裕はなかった。
(違う。蜜希さんは関係ない。お前たちの世界に居ていい人じゃない)
『関係がない? お前が関係を持ったんじゃないか』
「っ」
鋭い言葉の刃が深く刺さる。
……そうだ。そもそも関係を持ったのは俺の方だ。
(でも、おじい様は、駄目だ)
一番、知られてはいけない人。
蜜希さんの存在を知ったら、あの人は絶対に俺を二度とここへ来れなくさせるだろう。
もしかしたら、この宵月旅館もただでは済まないかもしれない。
祖父はそういう人なのだ。
焦燥が背中を這う。
冷や汗が流れ落ち、全身の毛が逆立つ。
蜜希さんを、この家を守らなくては。
――でも、どうやって?
『まあ、なんだ。いろいろ言ったけど、好きにできるのも学生の内だけだ。後悔のないよう、今のうちに反発し尽くしなさい。どうせ社会に出れば、俺たちアルファに選べる道なんてないんだから』
兄はそういうと電話を切った。
『俺たちアルファには、選べる道はない』。
それは昔から兄が良く言う、呪いの言葉だった。
長い、長い、地獄だった。
俺は受話器を置く。表示された時間は、電話を取る前から五分程度しか進んでいない。
「凛くん、何かあった?」
女将さんが顔を出す。
受付の電話にしては、何も言わない俺に疑問に思ったのだろう。
「いえ、間違い電話だったみたいで。でも大丈夫です」
「あら、そうだったの?」
「大変だったわねぇ」と女将さんは呟き、静かに去って行く。
俺は張り付けた笑顔を下ろし、椅子に腰かけた。
息を吐くのにも、気力はいる。
その気力を全て持っていかれたかのように、俺はぐったりとしていた。
ぼうっと天井を見る。
いつしか、と思っていたものが一気に目の前に引きずり出されたのだ。
ここから挽回しよう、なんて気は失せている。
「……蜜希さんに会いたいな」
無意識に零れ落ちた声。
聞こえた自分の声の力のなさに、乾いた笑いが零れた。
――あの時口にしてしまったから、俺は蜜希さんにあんなことを言ってしまったのだろうか。
広い食堂には、誰もいない。
蜜希さんの飲んでいたグラスはいつの間にか氷が無くなり、温いメロンソーダが残っているだけだった。
若干アイスの塊が浮いている。
俺はまかないを食べ終えると、グラスの中身を飲み干した。
温く、放置されて炭酸も抜けている、甘いだけのメロンソーダ。
まるで外側だけ取り繕った自分のようで、俺はちょっとだけ親近感を覚えた。
「……嫌だなぁ」
蜜希さんから離れるのは。
拠り所を失くしてしまうのは、嫌だ。
ぬるま湯なんて言葉じゃ足りない。
此処は俺にとって天国のような場所だった。
だからこそ、此処にはいられない。……居ては、いけない。
「蜜希さんは、応援してくれるかな」
さっきの彼の言葉を思い出す。
大人の顔をして言われた言葉は優しくて、でも、残酷だった。
だからこそ、嘘偽りないと思わせてくれる。
俺はグラスをトレーに乗せ、まかないと一緒に返却口に戻した。
いつもは「ごちそうさまです」と叫ぶだけだが、その日俺はタカさんの名前を呼んだ。
タカさんは「なんだい?」と朗らかな笑顔で応えてくれる。
「タカさんの作った天ぷら、世界一美味しかったです」
「おぉ? なんだなんだ、急にどうしたんだい?」
「いえ。伝えたかったので」
ごちそうさまでした。
最後にいつも通りの言葉を告げ、深々とお辞儀をする。
タカさんは「よくわからないけど、満足してくれたならよかったよ。また食べに来てくれ」と笑ってくれた。
俺は頷き、食堂を後にする。
戦の前の腹ごしらえは済んだ。
――さあ。踏ん張り時だぞ。暁月凛。
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