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第19話 白衣の悪魔と、愚かな夜襲
しおりを挟むバーンズ領の迎賓館が、深夜の静寂に包まれていた頃。
その裏手にある工業区画の闇を、数名の影が疾走していた。
彼らは、ガレリア帝国使節団に紛れ込んでいた「強硬派」の将校たちが雇った、帝国の特殊工作部隊だった。
目的は一つ。
皇女ヒルデガルドを誑(たぶら)かし、帝国を脅かす技術を持つ少年領主、マイルズの拉致。
そして、この忌まわしい工場の破壊工作である。
「……警備兵は正面に集中している。裏口は手薄だ」
隊長が手信号を送る。
彼らは音もなくフェンスを越え、巨大なボイラー室へと侵入した。
「まずはここを爆破し、混乱に乗じて少年をさらう。……たかが田舎の工場だ。我らの敵ではない」
彼らは油断していた。
ここが、ただの工場ではなく、マイルズという「異物」が作り上げた要塞であることを。
シュー……。
微かな音が響いた。
「ん? 蒸気漏れか?」
工作員の一人が配管に近づく。
その瞬間。
カッ!
配管に取り付けられた赤色灯(魔石ランプ)が点灯した。
『――侵入者検知。区画D-3。排除モードへ移行』
無機質な声(シンシアの声を録音したもの)が響き渡る。
「なっ、バレたか!?」
「構わん、強行突破だ!」
工作員たちが武器を抜いた瞬間、部屋中の配管バルブが一斉に回転した。
プシュウウウウウウウウウ!!!
「ぐわあああっ!?」
高圧かつ高温の蒸気が、四方八方から噴き出した。
視界が真っ白に染まる。
「熱っ! 熱いぃぃ!」
「退避! 退避だ!」
だが、扉は既にロックされていた。
蒸気が充満する密室。視界はゼロ。
彼らはパニックに陥り、出口を求めて彷徨うが、そこへ第二の罠が発動した。
天井のダクトから、無色無臭の気体が静かに送り込まれた。
マイルズが『創造』で精製した、高純度の吸入麻酔薬(エーテル)だ。
「……なんだ? 意識が……」
「足が、もつれ……」
屈強な工作員たちが、一人、また一人と膝をつく。
蒸気の熱さとは裏腹に、急速に意識が闇へと沈んでいく。
「毒……ガス……か……」
隊長が最後に見たのは、蒸気の霧の中から現れる、ガスマスクと白衣を纏った小さな人影だった。
◇
目が覚めると、隊長は椅子に拘束されていた。
場所は、工場の奥にある研究室のような部屋。
薬品の匂いが鼻をつく。
「……気がついたかい?」
目の前に、一人の少年が座っていた。
マイルズだ。
彼は白衣を着て、手にはカルテのようなバインダーを持っていた。
その後ろには、無表情なシンシアと、護衛の父ロッシュが控えている。
「き、貴様……!」
隊長は暴れようとしたが、体か動かない。手足の感覚がない。
「無駄だよ。脊髄神経に少し『麻酔』を打たせてもらった。数時間は指一本動かせない」
マイルズは淡々と言った。
「さて、問診を始めようか」
マイルズは工作員の顔を覗き込んだ。
「所属は? 誰の命令だ?」
「……言うものか。殺せ」
「殺さないよ。私は医者(の端くれ)だ。命を救うのが仕事だ」
マイルズは、サイドテーブルから一本の注射器を取り出した。
中には、透明な液体が入っている。
「ただ、治療のためには正確な情報が必要だ。……これは『自白剤』ではない。ただのブドウ糖液だ。だが、君の脳は恐怖でそれを毒だと認識するかもしれないね」
マイルズは、注射器の空気を抜いた。
「私のスキル『生命(ヴィータ)』は、人体のあらゆる生理機能を操作できる。……例えば、痛覚神経の感度を最大まで引き上げるとどうなると思う?」
マイルズは、男の指先にそっと触れた。
ただ触れただけだ。
「ぎゃああああああ!!!」
男が絶叫した。
「風が当たるだけで、皮を剥がれるような激痛が走る。……君たちは軍人だから拷問には耐性があるだろうが、『自分の脳が作り出す痛み』には勝てない」
マイルズは冷徹な瞳で続けた。
「ヒルデガルド殿下は、この襲撃を知らないね? 彼女は武人だが、卑劣な真似は嫌う。……これは、随行している副使節の独断か?」
「あ、ああっ……!」
男は涙と鼻水を流しながら、激痛に耐えかねて頷いた。
「そ、そうだ……! 副使節、ゲルハルト閣下の命令だ……! 『皇女は骨抜きにされた、技術を奪って国へ帰る』と……!」
「なるほど。診断完了だ」
マイルズは手を離した。男の痛みは嘘のように消えたが、恐怖で失禁していた。
「……忠誠心という名の病にかかっているようだね。処方箋を出しておこう」
マイルズはロッシュに向き直った。
「父上。証言は取れました。工作員たちは地下牢へ。……そして、この録音を皇女殿下へ」
「ああ。……まったく、敵に回したくない男だ」
ロッシュは苦笑しながら、哀れな工作員たちを運び出させた。
◇
翌朝。
迎賓館のサロンで、朝食(桃のコンポートと焼き立てパン)を楽しもうとしていたヒルデガルドの元に、マイルズが現れた。
その後ろには、後ろ手に縛られた副使節ゲルハルトと、証拠の品々。
「……これは、どういうことだ?」
ヒルデガルドがナイフを置いた。
「残念なご報告です、殿下」
マイルズは、昨夜の襲撃の全容と、ゲルハルトの自白(録音)を突きつけた。
ゲルハルトが青ざめる。「で、殿下! これは罠です! この少年は危険です! 帝国の為を思って……!」
「黙れ!!」
ヒルデガルドの怒号が響いた。
彼女が怒ったのは、マイルズに対してではない。自分の部下が、ホストであるマイルズを襲い、あまつさえ失敗して恥を晒したことに対してだ。
「私の顔に泥を塗る気か! 卑劣な夜襲など、ガレリアの恥晒しめ!」
ヒルデガルドは立ち上がり、マイルズの前に頭を下げた。
「……すまない、マイルズ卿。私の監督不行き届きだ。部下の不始末は、私の責任だ」
プライドの高い皇女が、他国の領主代行に謝罪した。
その真摯な態度は、彼女が単なる我儘な子供ではなく、上に立つ者としての器を持っていることを示していた。
「頭を上げてください、殿下」
マイルズは微笑んだ。
「幸い、工場の被害は軽微でした。……それに、これで私の工場の防犯システムのテストもできましたから」
「……皮肉か」
ヒルデガルドは苦い顔をしたが、すぐに顔を上げた。
「この落とし前はつける。……ゲルハルトは本国へ送還し、厳罰に処す。そして」
彼女は腰の大剣を抜き、マイルズの前に突き立てた。
「バーンズ領との『不可侵条約』。そして、貴殿が望んでいた『関税の撤廃』。……私の名において、これを承認する」
「関税撤廃……! よろしいのですか?」
「言っただろう、落とし前だと。……それに、これ以上貴様と揉めて、石鹸や食糧の供給を止められては困る」
彼女は少し頬を染めてそっぽを向いた。
それは、マイルズが喉から手が出るほど欲しかった外交的勝利だった。
帝国という巨大な市場が、関税なしで開かれる。石鹸も、保存食も、売り放題だ。
「感謝します、殿下。……これで、我々は本当の友人になれますね」
マイルズが手を差し出すと、ヒルデガルドはその手を強く握り返した。
「勘違いするな。……これは『手切れ金』代わりだ」
ヒルデガルドは顔を背け、耳まで赤くしながら言った。
「だが……貴様の技術と、その冷徹な手腕は認めてやる。いつか私が女帝となった暁には、貴様を……」
彼女は言葉を濁した。
「……私の『右腕』として、召し上げてやるかもしれん。精進しておけ」
こうして、帝国との緊張状態は、マイルズの完勝で幕を閉じた。
強硬派は排除され、皇女という強力なパイプができた。
マイルズは握手の手を解き、サロンの窓から外を見た。
外では、慌ただしく帰国の準備をする帝国兵たちの姿があった。
出発は明日の朝だ。
「さて……。嵐は去りましたが、これからの交易準備で忙しくなりますね」
マイルズの呟きに、控えていたシンシアが静かに頷いた。
「はい。計算上、工場の稼働率を三割上げる必要があります」
バーンズ領の春は、かつてない忙しさと繁栄を予感させていた。
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