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第18話 胃袋への侵略戦争
しおりを挟む「……ここが、迎賓館か」
蒸気機関車の旅を終えたヒルデガルドたちは、工場地帯から少し離れた、静かな森の中に佇む洋館に案内された。
赤錆山の無骨な工場とは対照的な、白亜の美しい建物だ。
「どうぞ、お入りください。旅の疲れを癒やしていただくため、最高の準備をしてあります」
マイルズが恭しく扉を開ける。
ヒルデガルドは、まだ少し足元がふわふわしていた。
あの「鉄の馬」の衝撃が抜けていないのだ。
(あんな速度で移動して、なぜ馬車酔いしない? 魔法のクッションか?)
彼女の常識は既にヒビだらけだったが、武人の意地で背筋を伸ばし、館へと足を踏み入れた。
「フン。帝国への媚びへつらいか。……だが、食事には期待していないぞ」
ヒルデガルドは、マイルズを睨んだ。
「どうせ、貴様らのような軟弱な国のご馳走は、砂糖と脂でベタベタなのだろう? 我が帝国の兵士は、堅パンと塩漬け肉こそが力の源だと教えられている」
帝国の食文化は質実剛健。
保存性を最優先し、味は二の次。硬い黒パンをスープでふやかして食べるのが一般的だ。
彼女にとって、食事とは「補給」であり、「楽しみ」ではなかった。
「なるほど。……では、まずはその『補給』を行いましょう」
マイルズは食堂へと案内した。
◇
食堂のテーブルには、湯気を立てる料理が並べられていた。
だが、豪華絢爛なフルコースではない。
「……なんだこれは?」
ヒルデガルドが眉をひそめた。
目の前に置かれたのは、透き通った琥珀色のスープと、金属製の奇妙な筒(缶)、そして白いパンだけだ。
「我が領の『野戦食(レーション)』です」
マイルズは言った。
「殿下は軍人であらせられる。ならば、戦場で我々が何を食べているかを知るのも、有意義な視察かと」
「ほう。野戦食か」
ヒルデガルドは興味を持った。
「見た目は悪くない。……だが、戦場でこんな液体(スープ)を持ち歩けるわけがなかろう」
「ええ。それは『お湯を注いで戻した』ものですから」
マイルズは、乾燥野菜と麺が入った器を示した。
「お湯さえあれば、三分で温かい食事が摂れます。……そして、こちらのパン」
マイルズは白いパンをちぎり、ヒルデガルドに差し出した。
「どうぞ」
ヒルデガルドは警戒しつつ、口に運んだ。
瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「……なっ!?」
柔らかい。
帝国の黒パンのように、石を噛むような硬さがない。
雲のようにふわふわで、噛むほどに小麦の甘みが広がる。
「こ、これがパンだと? ケーキではないのか?」
「いいえ。特製の酵母で発酵させた白パンです。……そして、メインはこちら」
マイルズは、金属の筒――「缶詰」を開けた。
パカッ、という音と共に、濃厚な肉の香りが広がる。
中には、トロトロに煮込まれた牛肉のデミグラスソース煮込みが詰まっていた。
「こ、これは……煮込み料理? なぜ鉄の筒に入っている?」
「『缶詰』です。空気を抜いて密封し、加熱殺菌してある。……この状態で、常温で三年は持ちます」
「さ、三年だと!?」
副官が椅子から転げ落ちそうになった。
「塩漬けでも干し肉でもなく、このジューシーな煮込みが……三年!?」
「召し上がれ」
ヒルデガルドは、震える手でスプーンを伸ばした。
口に入れた瞬間、ホロホロと崩れる牛肉の旨味と、野菜の甘味が舌を直撃した。
「んっ……!」
彼女の喉が鳴る。
美味い。帝国の宮廷料理人が作るものより、遥かに美味い。
それが、戦場で、いつでも食べられる?
(負けた……)
一口食べただけで、彼女は悟った。
堅パンを齧りながら行軍する帝国軍と、この温かく栄養満点な食事を摂るバーンズ軍。
士気の差は歴然だ。
「……卑怯だ」
ヒルデガルドは、悔し紛れにパンをスープに浸した。
「こんな……こんな美味いものを食べて戦うなど……卑怯だぞ、バーンズ!」
「ありがとうございます。最高の褒め言葉です」
マイルズは、さらにデザートとして「桃の缶詰」を開けた。
冬の終わりに、完熟した桃の甘露煮。
その甘さは、少女であるヒルデガルドの心(と胃袋)を完全に陥落させるのに十分だった。
◇
「ふぅ……」
食後、満腹になったヒルデガルドは、ソファに深く沈み込んでいた。
「……悪くない『補給』だった」
「それは何よりです。……では、次は汗を流しましょうか」
マイルズの案内で、彼女は館の奥へと進んだ。
そこには、湯気が立ち込める大浴場があった。
「ゆ、湯か? 桶一杯の湯で体を拭くのか?」
帝国の入浴事情は、水が貴重なこともあり、濡れタオルで拭くのが主流だ。
「いいえ。……浸かるのです」
扉が開くと、そこには岩で作られた巨大な湯船と、あふれ出る豊富な湯があった。
バーンズ領に湧く天然温泉だ。
「……なんだこの湯量は! 溺れる気か!」
「『温泉』です。大地の熱で温められた、ミネラル豊富な天然の湯。……傷や疲労回復に劇的な効果があります」
マイルズは、侍女たちに合図した。
「ごゆっくりどうぞ。洗い場には、我が領自慢の石鹸と、髪を洗う『シャンプー』を用意してあります」
「しゃんぷー……?」
マイルズは一礼して退室した。
ここから先は、侍女たち(シンシア含む)の領域だ。
◇
一時間後。
湯上がりのヒルデガルドは、休憩室で呆然としていた。
彼女の肌は、茹でたての卵のようにツヤツヤと輝き、頬は桜色に染まっている。
そして何より、あのゴワゴワだった金髪が、今は絹糸のようにサラサラと肩に流れていた。
「……信じられん」
彼女は自分の髪を指で梳(す)いた。
引っかからない。指通りが滑らかすぎる。
そして、体から漂う、薔薇の石鹸の香り。
「これが……私なのか?」
鏡に映る自分は、戦場を駆ける「戦乙女」ではなく、ただの可愛らしい「少女」に見えた。
「いかがでしたか、殿下」
マイルズが、冷えたフルーツ牛乳(これも発明品)を持って現れた。
ヒルデガルドは、ビクッと肩を震わせた。
今の自分は、あまりにも無防備だ。軍服ではなく、用意された柔らかなローブを纏っているだけ。
「……貴様」
ヒルデガルドは、牛乳を一気に飲み干した(これも衝撃的な美味さだった)。
「貴様は、悪魔か」
「衛生改革官です」
「嘘をつけ! ……こんな、こんな骨抜きにするような真似をして!」
ヒルデガルドは睨んだが、その目には以前のような殺気はなかった。
あるのは、未知の快楽を知ってしまった戸惑いと、それを与えた少年への、複雑な熱視線だった。
「帝国には、ないだろう。……この食事も、この湯も」
「……ない。あるわけがない」
「なら、仲良くしましょう」
マイルズは、悪魔的に微笑んだ。
「私の領地と手を組めば、これらは貴国のものになります。……輸入という形でね」
ヒルデガルドは唇を噛んだ。
軍事力では脅せない。
そして文化力(ソフトパワー)では、完敗した。
この少年の掌の上で、踊らされている屈辱。
だが、その屈辱が、不思議と嫌ではなかった。
(……強い)
彼女は認めた。
この少年は、剣を持たずとも、私より強い。
私の心臓(胃袋)と、首(肌)を、完全に掴んでいる。
「……分かった」
ヒルデガルドは、ローブの裾をギュッと握った。
「交渉のテーブルについてやる。……ただし! 明日の朝も、あの『桃』と『湯』を用意しろ! これは命令だ!」
「仰せのままに、殿下」
胃袋と清潔さによる文化侵略は成功した。
だが、マイルズの完全勝利と思われたこの会談に、水を差す者がいた。
帝国の使節団に紛れ込んでいた、軍部の「強硬派」。
彼らは、皇女が懐柔されたことを察知し、独断で動き出そうとしていた。
「皇女殿下は騙されている……」
「あの少年を攫い、技術を吐かせるしかない……」
深夜。
マイルズの寝室に、忍び寄る影があった。
だが彼らは知らない。
この館の主人が、白衣を着た時こそ、最も恐ろしい存在になることを。
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