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第11話 噂と誤解
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春の終わりが近づくころ、村の空気がどこかざわつき始めていた。
きっかけは、旅の商人が持ち込んだ一つの噂だった。
「王都で、“元伯爵令嬢レティシア・アーベルグ”が行方不明になっているらしいぞ。」
その言葉が焚き火のように瞬く間に広がった。
辺境の村まで新聞が届くことはほとんどないが、噂話の速さに距離は関係ない。
最初にその噂を耳にしたのは、風見亭の若い使用人だった。
「ねえ、女将さん、レティシアさんって、ひょっとして……」
言葉を濁すようにして言ったのを、マーサ女将は厳しい表情で制した。
「誰が何を言っとるか知らんけど、あの子はここで真面目に働いとる。それ以外のことを詮索する必要はないよ。」
しかし、人の噂というものは止めようとすればするほど燃え広がる。
その日の夕方、レティシアが市場で野菜を買おうとしたとき、背後でひそひそ声が聞こえた。
「本当に貴族だったんだって。どうりで言葉づかいが綺麗なわけだ。」
「逃げてきたんだろ。訳ありの女さ。」
「旦那に捨てられたって聞いたぞ、かわいそうにねぇ。」
手にしたカゴが震えた。
彼らは悪意で言っているわけじゃない。けれど、無邪気な言葉ほど鋭く刺さる。
顔を上げずに会釈し、足早にその場を離れた。
宿に戻ると、マーサ女将が心配そうに駆け寄ってきた。
「気にしないでおくれ。あんな噂、どうせ誰が言い出したかも分からないんだ。」
「ええ、大丈夫です。慣れていますから。」
そう答えながらも、胸の奥が少し痛んだ。
王都を離れてまで背負ってきた過去が、こうして追いかけてくる。
どんなに新しい場所で生きようとしても、一度ついた肩書きは簡単に消えない。
夜、風見亭の裏庭に出ると、涼しい風が肌を撫でた。
暗闇の中に座り込んでいるレティシアを見つけたのは、やはりエドガーだった。
「火が消えちまうぞ。何してる。」
「少し、外の空気を吸いたくて。」
「顔色が悪い。何かあったのか。」
「噂です。王都で、私がいなくなったことが話題になっているそうです。」
夕暮れの光に照らされた彼の瞳が、ほんの一瞬揺れる。
「……そうか。やっぱり貴族の出だったんだな。」
「はい。言っていませんでしたね。アーベルグ伯爵家の娘でした。でももう、あの家の人間ではありません。」
彼女は笑顔を作ろうとした。それでも声にはわずかな震えが混じる。
「婚約者に捨てられた令嬢――それが、王都の人たちが今の私に付ける名前です。」
「……くだらん。」
「え?」
「そんなことを言う連中がくだらん。お前がどう生きているか見てもいないくせに。」
その言葉に胸の奥がじんと熱くなる。
エドガーは腕を組み、夜空を見上げた。
「俺も似たようなものだ。王都じゃ“裏切り者の騎士”と呼ばれた。だが、お前を知っている村人たちは、そんな呼び方をしないだろう。」
「はい。でも、こうして噂が広がってしまえば……」
「気にするな。人の口を塞ぐより、自分の信じる生き方をすればいい。」
レティシアは俯き、指先を握りしめた。
言葉では分かっている。けれど、人の視線は怖い。
あの夜の惨めな婚約破棄が、何度も頭をよぎる。
「私……逃げたんです。侮辱され、家を追われ、自分を守ることしか考えられなくて。それなのに、“辺境でのうのうと生きている元令嬢”なんて言われて……」
声が震えた。涙がこぼれる前に、エドガーがそっと手を伸ばした。
「泣くな。」
「泣いてません……!」
「嘘をつくな。お前は何でも我慢しすぎる。」
大きな手が頬に触れ、指先が優しく涙を拭った。
その瞬間、時間が止まったように感じた。
互いの距離が近い。いや、近すぎる。
胸の奥が鳴る。
心臓の鼓動が、夜の静けさの中でやけに大きい。
「……ありがとう、ございます。」
レティシアが小さく呟くと、彼はゆっくりと手を離した。
その顔に浮かんだ表情は、優しさとためらいとがないまぜになったもの。
「礼なんかいらん。」
「でも……救われました。」
「救われたんならそれでいい。明日もまた働け。」
そう言って背を向けた。
言葉はそっけないのに、その背中は不思議と温かかった。
レティシアはその場に立ち尽くしながら、火照った頬を押さえる。
翌朝。
村に王都からの使者がやってきた。
馬に王家の刻印を掲げた二人組の衛兵。
村人たちがざわめく。
「アーベルグ家からの命で、失踪した令嬢を探している」
その声を聞いた瞬間、レティシアの心臓が止まりそうになった。
まさか本当にここまで辿り着くとは――。
「レティシア・アーベルグという名に、心当たりはありますか?」
村人たちは顔を見合わせる。マーサが前に出ようとしたが、その前にエドガーが一歩踏み出した。
「ここにはそんな女はいない。」
短く、低い声。
それには圧があった。衛兵たちは一瞬押し黙り、互いに目配せした。
「……そうか。だが、噂ではこの辺りで目撃されたと聞いた。」
「人違いだ。失踪令嬢がこんな辺境に来て何をする。」
「確かにな。だが、王都への報告義務がある。村を調べる。」
一瞬で空気が張り詰めた。
レティシアは宿の裏口から静かに遠ざかろうとしたが、エドガーの声が背中に届く。
「どこへ行く。」
「私がここにいたら、村に迷惑がかかります。」
「馬鹿を言うな。勝手に動くな。」
「でも――」
「お前は、もうこの村の人間だ。俺が守る。」
その一言に、足が止まった。
振り返ると、彼の背は大きく、まるで壁のように動じない。
「……私、また逃げようとしてましたね。」
「気づいたならいい。」
エドガーは衛兵の方を振り返り、淡々と告げた。
「辺境では支配権は王都ではなく領主にある。許可なく村民に干渉するなら、俺が反逆罪で訴えるぞ。」
その迫力に、衛兵たちはたじろいだ。
やがて二人は無言で馬を返し、村を後にした。
静けさが戻ったとき、レティシアの目から安心の涙がこぼれた。
「ありがとうございます……でも、いつかまた見つかってしまうかもしれません。」
「そのときはまた言う。」
「なんて言うんですか?」
エドガーは無愛想な顔のまま、答えた。
「“ここにはいない”と。」
その言葉に、レティシアは笑った。
溢れる涙の中で、心の奥が温かく満たされていく。
誤解も噂も構わない。たとえ過去が追ってきても、この人の言葉があれば、もう逃げる必要はない。
村の空は青く澄み、風が穏やかに吹き抜けた。
遠くで馬の嘶きが響く中、レティシアはそっと空を見上げた。
これが“自由”というものなのかもしれない。
続く
きっかけは、旅の商人が持ち込んだ一つの噂だった。
「王都で、“元伯爵令嬢レティシア・アーベルグ”が行方不明になっているらしいぞ。」
その言葉が焚き火のように瞬く間に広がった。
辺境の村まで新聞が届くことはほとんどないが、噂話の速さに距離は関係ない。
最初にその噂を耳にしたのは、風見亭の若い使用人だった。
「ねえ、女将さん、レティシアさんって、ひょっとして……」
言葉を濁すようにして言ったのを、マーサ女将は厳しい表情で制した。
「誰が何を言っとるか知らんけど、あの子はここで真面目に働いとる。それ以外のことを詮索する必要はないよ。」
しかし、人の噂というものは止めようとすればするほど燃え広がる。
その日の夕方、レティシアが市場で野菜を買おうとしたとき、背後でひそひそ声が聞こえた。
「本当に貴族だったんだって。どうりで言葉づかいが綺麗なわけだ。」
「逃げてきたんだろ。訳ありの女さ。」
「旦那に捨てられたって聞いたぞ、かわいそうにねぇ。」
手にしたカゴが震えた。
彼らは悪意で言っているわけじゃない。けれど、無邪気な言葉ほど鋭く刺さる。
顔を上げずに会釈し、足早にその場を離れた。
宿に戻ると、マーサ女将が心配そうに駆け寄ってきた。
「気にしないでおくれ。あんな噂、どうせ誰が言い出したかも分からないんだ。」
「ええ、大丈夫です。慣れていますから。」
そう答えながらも、胸の奥が少し痛んだ。
王都を離れてまで背負ってきた過去が、こうして追いかけてくる。
どんなに新しい場所で生きようとしても、一度ついた肩書きは簡単に消えない。
夜、風見亭の裏庭に出ると、涼しい風が肌を撫でた。
暗闇の中に座り込んでいるレティシアを見つけたのは、やはりエドガーだった。
「火が消えちまうぞ。何してる。」
「少し、外の空気を吸いたくて。」
「顔色が悪い。何かあったのか。」
「噂です。王都で、私がいなくなったことが話題になっているそうです。」
夕暮れの光に照らされた彼の瞳が、ほんの一瞬揺れる。
「……そうか。やっぱり貴族の出だったんだな。」
「はい。言っていませんでしたね。アーベルグ伯爵家の娘でした。でももう、あの家の人間ではありません。」
彼女は笑顔を作ろうとした。それでも声にはわずかな震えが混じる。
「婚約者に捨てられた令嬢――それが、王都の人たちが今の私に付ける名前です。」
「……くだらん。」
「え?」
「そんなことを言う連中がくだらん。お前がどう生きているか見てもいないくせに。」
その言葉に胸の奥がじんと熱くなる。
エドガーは腕を組み、夜空を見上げた。
「俺も似たようなものだ。王都じゃ“裏切り者の騎士”と呼ばれた。だが、お前を知っている村人たちは、そんな呼び方をしないだろう。」
「はい。でも、こうして噂が広がってしまえば……」
「気にするな。人の口を塞ぐより、自分の信じる生き方をすればいい。」
レティシアは俯き、指先を握りしめた。
言葉では分かっている。けれど、人の視線は怖い。
あの夜の惨めな婚約破棄が、何度も頭をよぎる。
「私……逃げたんです。侮辱され、家を追われ、自分を守ることしか考えられなくて。それなのに、“辺境でのうのうと生きている元令嬢”なんて言われて……」
声が震えた。涙がこぼれる前に、エドガーがそっと手を伸ばした。
「泣くな。」
「泣いてません……!」
「嘘をつくな。お前は何でも我慢しすぎる。」
大きな手が頬に触れ、指先が優しく涙を拭った。
その瞬間、時間が止まったように感じた。
互いの距離が近い。いや、近すぎる。
胸の奥が鳴る。
心臓の鼓動が、夜の静けさの中でやけに大きい。
「……ありがとう、ございます。」
レティシアが小さく呟くと、彼はゆっくりと手を離した。
その顔に浮かんだ表情は、優しさとためらいとがないまぜになったもの。
「礼なんかいらん。」
「でも……救われました。」
「救われたんならそれでいい。明日もまた働け。」
そう言って背を向けた。
言葉はそっけないのに、その背中は不思議と温かかった。
レティシアはその場に立ち尽くしながら、火照った頬を押さえる。
翌朝。
村に王都からの使者がやってきた。
馬に王家の刻印を掲げた二人組の衛兵。
村人たちがざわめく。
「アーベルグ家からの命で、失踪した令嬢を探している」
その声を聞いた瞬間、レティシアの心臓が止まりそうになった。
まさか本当にここまで辿り着くとは――。
「レティシア・アーベルグという名に、心当たりはありますか?」
村人たちは顔を見合わせる。マーサが前に出ようとしたが、その前にエドガーが一歩踏み出した。
「ここにはそんな女はいない。」
短く、低い声。
それには圧があった。衛兵たちは一瞬押し黙り、互いに目配せした。
「……そうか。だが、噂ではこの辺りで目撃されたと聞いた。」
「人違いだ。失踪令嬢がこんな辺境に来て何をする。」
「確かにな。だが、王都への報告義務がある。村を調べる。」
一瞬で空気が張り詰めた。
レティシアは宿の裏口から静かに遠ざかろうとしたが、エドガーの声が背中に届く。
「どこへ行く。」
「私がここにいたら、村に迷惑がかかります。」
「馬鹿を言うな。勝手に動くな。」
「でも――」
「お前は、もうこの村の人間だ。俺が守る。」
その一言に、足が止まった。
振り返ると、彼の背は大きく、まるで壁のように動じない。
「……私、また逃げようとしてましたね。」
「気づいたならいい。」
エドガーは衛兵の方を振り返り、淡々と告げた。
「辺境では支配権は王都ではなく領主にある。許可なく村民に干渉するなら、俺が反逆罪で訴えるぞ。」
その迫力に、衛兵たちはたじろいだ。
やがて二人は無言で馬を返し、村を後にした。
静けさが戻ったとき、レティシアの目から安心の涙がこぼれた。
「ありがとうございます……でも、いつかまた見つかってしまうかもしれません。」
「そのときはまた言う。」
「なんて言うんですか?」
エドガーは無愛想な顔のまま、答えた。
「“ここにはいない”と。」
その言葉に、レティシアは笑った。
溢れる涙の中で、心の奥が温かく満たされていく。
誤解も噂も構わない。たとえ過去が追ってきても、この人の言葉があれば、もう逃げる必要はない。
村の空は青く澄み、風が穏やかに吹き抜けた。
遠くで馬の嘶きが響く中、レティシアはそっと空を見上げた。
これが“自由”というものなのかもしれない。
続く
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