元婚約者に冷たく捨てられた令嬢、辺境で出会った無愛想な騎士に溺愛される ~今さら戻ってこないでください~

usako

文字の大きさ
11 / 30

第11話 噂と誤解

しおりを挟む
春の終わりが近づくころ、村の空気がどこかざわつき始めていた。  
きっかけは、旅の商人が持ち込んだ一つの噂だった。  

「王都で、“元伯爵令嬢レティシア・アーベルグ”が行方不明になっているらしいぞ。」  
その言葉が焚き火のように瞬く間に広がった。  
辺境の村まで新聞が届くことはほとんどないが、噂話の速さに距離は関係ない。  

最初にその噂を耳にしたのは、風見亭の若い使用人だった。  
「ねえ、女将さん、レティシアさんって、ひょっとして……」  
言葉を濁すようにして言ったのを、マーサ女将は厳しい表情で制した。  

「誰が何を言っとるか知らんけど、あの子はここで真面目に働いとる。それ以外のことを詮索する必要はないよ。」  
しかし、人の噂というものは止めようとすればするほど燃え広がる。  

その日の夕方、レティシアが市場で野菜を買おうとしたとき、背後でひそひそ声が聞こえた。  
「本当に貴族だったんだって。どうりで言葉づかいが綺麗なわけだ。」  
「逃げてきたんだろ。訳ありの女さ。」  
「旦那に捨てられたって聞いたぞ、かわいそうにねぇ。」  

手にしたカゴが震えた。  
彼らは悪意で言っているわけじゃない。けれど、無邪気な言葉ほど鋭く刺さる。  
顔を上げずに会釈し、足早にその場を離れた。  

宿に戻ると、マーサ女将が心配そうに駆け寄ってきた。  
「気にしないでおくれ。あんな噂、どうせ誰が言い出したかも分からないんだ。」  
「ええ、大丈夫です。慣れていますから。」  
そう答えながらも、胸の奥が少し痛んだ。  

王都を離れてまで背負ってきた過去が、こうして追いかけてくる。  
どんなに新しい場所で生きようとしても、一度ついた肩書きは簡単に消えない。  

夜、風見亭の裏庭に出ると、涼しい風が肌を撫でた。  
暗闇の中に座り込んでいるレティシアを見つけたのは、やはりエドガーだった。  

「火が消えちまうぞ。何してる。」  
「少し、外の空気を吸いたくて。」  
「顔色が悪い。何かあったのか。」  
「噂です。王都で、私がいなくなったことが話題になっているそうです。」  

夕暮れの光に照らされた彼の瞳が、ほんの一瞬揺れる。  

「……そうか。やっぱり貴族の出だったんだな。」  
「はい。言っていませんでしたね。アーベルグ伯爵家の娘でした。でももう、あの家の人間ではありません。」  

彼女は笑顔を作ろうとした。それでも声にはわずかな震えが混じる。  

「婚約者に捨てられた令嬢――それが、王都の人たちが今の私に付ける名前です。」  
「……くだらん。」  
「え?」  
「そんなことを言う連中がくだらん。お前がどう生きているか見てもいないくせに。」  

その言葉に胸の奥がじんと熱くなる。  
エドガーは腕を組み、夜空を見上げた。  

「俺も似たようなものだ。王都じゃ“裏切り者の騎士”と呼ばれた。だが、お前を知っている村人たちは、そんな呼び方をしないだろう。」  
「はい。でも、こうして噂が広がってしまえば……」  
「気にするな。人の口を塞ぐより、自分の信じる生き方をすればいい。」  

レティシアは俯き、指先を握りしめた。  
言葉では分かっている。けれど、人の視線は怖い。  
あの夜の惨めな婚約破棄が、何度も頭をよぎる。  

「私……逃げたんです。侮辱され、家を追われ、自分を守ることしか考えられなくて。それなのに、“辺境でのうのうと生きている元令嬢”なんて言われて……」  
声が震えた。涙がこぼれる前に、エドガーがそっと手を伸ばした。  

「泣くな。」  
「泣いてません……!」  
「嘘をつくな。お前は何でも我慢しすぎる。」  

大きな手が頬に触れ、指先が優しく涙を拭った。  
その瞬間、時間が止まったように感じた。  
互いの距離が近い。いや、近すぎる。  

胸の奥が鳴る。  
心臓の鼓動が、夜の静けさの中でやけに大きい。  

「……ありがとう、ございます。」  
レティシアが小さく呟くと、彼はゆっくりと手を離した。  
その顔に浮かんだ表情は、優しさとためらいとがないまぜになったもの。  

「礼なんかいらん。」  
「でも……救われました。」  
「救われたんならそれでいい。明日もまた働け。」  
そう言って背を向けた。  

言葉はそっけないのに、その背中は不思議と温かかった。  
レティシアはその場に立ち尽くしながら、火照った頬を押さえる。  

翌朝。  
村に王都からの使者がやってきた。  
馬に王家の刻印を掲げた二人組の衛兵。  
村人たちがざわめく。  

「アーベルグ家からの命で、失踪した令嬢を探している」  

その声を聞いた瞬間、レティシアの心臓が止まりそうになった。  
まさか本当にここまで辿り着くとは――。  

「レティシア・アーベルグという名に、心当たりはありますか?」  
村人たちは顔を見合わせる。マーサが前に出ようとしたが、その前にエドガーが一歩踏み出した。  

「ここにはそんな女はいない。」  
短く、低い声。  
それには圧があった。衛兵たちは一瞬押し黙り、互いに目配せした。  

「……そうか。だが、噂ではこの辺りで目撃されたと聞いた。」  
「人違いだ。失踪令嬢がこんな辺境に来て何をする。」  
「確かにな。だが、王都への報告義務がある。村を調べる。」  

一瞬で空気が張り詰めた。  
レティシアは宿の裏口から静かに遠ざかろうとしたが、エドガーの声が背中に届く。  

「どこへ行く。」  
「私がここにいたら、村に迷惑がかかります。」  
「馬鹿を言うな。勝手に動くな。」  
「でも――」  
「お前は、もうこの村の人間だ。俺が守る。」  

その一言に、足が止まった。  
振り返ると、彼の背は大きく、まるで壁のように動じない。  

「……私、また逃げようとしてましたね。」  
「気づいたならいい。」  

エドガーは衛兵の方を振り返り、淡々と告げた。  
「辺境では支配権は王都ではなく領主にある。許可なく村民に干渉するなら、俺が反逆罪で訴えるぞ。」  
その迫力に、衛兵たちはたじろいだ。  

やがて二人は無言で馬を返し、村を後にした。  

静けさが戻ったとき、レティシアの目から安心の涙がこぼれた。  
「ありがとうございます……でも、いつかまた見つかってしまうかもしれません。」  
「そのときはまた言う。」  
「なんて言うんですか?」  
エドガーは無愛想な顔のまま、答えた。  
「“ここにはいない”と。」  

その言葉に、レティシアは笑った。  
溢れる涙の中で、心の奥が温かく満たされていく。  
誤解も噂も構わない。たとえ過去が追ってきても、この人の言葉があれば、もう逃げる必要はない。  

村の空は青く澄み、風が穏やかに吹き抜けた。  
遠くで馬の嘶きが響く中、レティシアはそっと空を見上げた。  

これが“自由”というものなのかもしれない。  

続く
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

冷徹婚約者に追放された令嬢、異国の辺境で最強公爵に見初められ、今さら「帰ってきて」と泣かれてももう遅い

nacat
恋愛
婚約者である王太子に濡れ衣を着せられ、断罪の末に国外追放された伯爵令嬢レティシア。 絶望の果てにたどり着いた辺境の国で、孤高と噂の公爵に助けられる。 彼は彼女に穏やかに微笑み、たった一言「ここにいなさい」と囁いた。 やがてレティシアは、その地で新しい居場所と愛を見つける。 だが、彼女を見捨てた王太子が、後悔と未練を胸に彼女を追って現れて――。 「どうか許してくれ、レティシア……!」 もう遅い。彼女は優しく強くなって、誰より愛される人生を歩き始めていた。

婚約破棄されて去ったら、私がいなくても世界は回り始めました

鷹 綾
恋愛
「君との婚約は破棄する。聖女フロンこそが、真に王国を導く存在だ」 王太子アントナン・ドームにそう告げられ、 公爵令嬢エミー・マイセンは、王都を去った。 彼女が担ってきたのは、判断、調整、責任―― 国が回るために必要なすべて。 だが、それは「有能」ではなく、「依存」だった。 隣国へ渡ったエミーは、 一人で背負わない仕組みを選び、 名前が残らない判断の在り方を築いていく。 一方、彼女を失った王都は混乱し、 やがて気づく―― 必要だったのは彼女ではなく、 彼女が手放そうとしていた“仕組み”だったのだと。 偽聖女フロンの化けの皮が剥がれ、 王太子アントナンは、 「決めた後に立ち続ける重さ」と向き合い始める。 だが、もうエミーは戻らない。 これは、 捨てられた令嬢が復讐する物語ではない。 溺愛で救われる物語でもない。 「いなくても回る世界」を完成させた女性と、  彼女を必要としなくなった国の、  静かで誇り高い別れの物語。 英雄が消えても、世界は続いていく―― アルファポリス女子読者向け 〈静かな婚約破棄ざまぁ〉×〈大人の再生譚〉。

婚約破棄されるはずでしたが、王太子の目の前で皇帝に攫われました』

鷹 綾
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間―― 目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。 そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。 一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。 選ばれる側から、選ぶ側へ。 これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。 --

『婚約破棄ありがとうございます。自由を求めて隣国へ行ったら、有能すぎて溺愛されました』

鷹 綾
恋愛
内容紹介 王太子に「可愛げがない」という理不尽な理由で婚約破棄された公爵令嬢エヴァントラ。 涙を流して見せた彼女だったが── 内心では「これで自由よ!」と小さくガッツポーズ。 実は王国の政務の大半を支えていたのは彼女だった。 エヴァントラが去った途端、王宮は大混乱に陥り、元婚約者とその恋人は国中から総スカンに。 そんな彼女を拾ったのは、隣国の宰相補佐アイオン。 彼はエヴァントラの安全と立場を守るため、 **「恋愛感情を持たない白い結婚」**を提案する。 「干渉しない? 恋愛不要? 最高ですわ」 利害一致の契約婚が始まった……はずが、 有能すぎるエヴァントラは隣国で一気に評価され、 気づけば彼女を庇い、支え、惹かれていく男がひとり。 ――白い結婚、どこへ? 「君が笑ってくれるなら、それでいい」 不器用な宰相補佐の溺愛が、静かに始まっていた。 一方、王国では元婚約者が転落し、真実が暴かれていく――。 婚約破棄ざまぁから始まる、 天才令嬢の自由と恋と大逆転のラブストーリー! ---

辺境に追放されたガリガリ令嬢ですが、助けた男が第三王子だったので人生逆転しました。~実家は危機ですが、助ける義理もありません~

香木陽灯
恋愛
 「そんなに気に食わないなら、お前がこの家を出ていけ!」  実の父と義妹に虐げられ、着の身着のままで辺境のボロ家に追放された伯爵令嬢カタリーナ。食べるものもなく、泥水のようなスープですすり、ガリガリに痩せ細った彼女が庭で拾ったのは、金色の瞳を持つ美しい男・ギルだった。  「……見知らぬ人間を招き入れるなんて、馬鹿なのか?」  「一人で食べるのは味気ないわ。手当てのお礼に一緒に食べてくれると嬉しいんだけど」  二人の奇妙な共同生活が始まる。ギルが獲ってくる肉を食べ、共に笑い、カタリーナは本来の瑞々しい美しさを取り戻していく。しかしカタリーナは知らなかった。彼が王位継承争いから身を隠していた最強の第三王子であることを――。 ※ふんわり設定です。 ※他サイトにも掲載中です。

貧乏人とでも結婚すれば?と言われたので、隣国の英雄と結婚しました

ゆっこ
恋愛
 ――あの日、私は確かに笑われた。 「貧乏人とでも結婚すれば? 君にはそれくらいがお似合いだ」  王太子であるエドワード殿下の冷たい言葉が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さった。  その場には取り巻きの貴族令嬢たちがいて、皆そろって私を見下ろし、くすくすと笑っていた。  ――婚約破棄。

婚約破棄と暗殺で死んだはずの公爵令嬢ですが、前に出ずに全てを崩壊させます

鷹 綾
恋愛
フォールス・アキュゼーション。お前に全ての罪がある」 王太子フレイム・ファブリケイト・ロイヤル・ロードは、自らの失策を公爵令嬢フォールスに押し付け、婚約を破棄。 さらに証拠隠滅のため、彼女を追放し、暗殺まで差し向ける。 ――彼女は、死んだことにされた。 だがフォールスは、生き延びた。 剣も魔法も持たず、復讐に燃えることもない。 選んだのは、前に出ないという生き方。 隣国で身を潜めながら、王弟エクイティ・フェアネス・ロイヤル・ロードのもと、 彼女は“構造の隣”に立つ。 暴かず、裁かず、叫ばない。 ただ、歪んだ仕組みを静かに照らし、 「選ばなかった者たち」を、自ら説明の場へと追い込んでいく。 切れない証人。 使えない駒。 しかし、消すこともできない存在。 これは、力で叩き潰すザマアではない。 沈黙と距離で因果を完成させる、知的で冷静な因果応報の物語。 ――前に出ない令嬢が、すべての答えを置いていく。

離婚寸前で人生をやり直したら、冷徹だったはずの夫が私を溺愛し始めています

腐ったバナナ
恋愛
侯爵夫人セシルは、冷徹な夫アークライトとの愛のない契約結婚に疲れ果て、離婚を決意した矢先に孤独な死を迎えた。 「もしやり直せるなら、二度と愛のない人生は選ばない」 そう願って目覚めると、そこは結婚直前の18歳の自分だった! 今世こそ平穏な人生を歩もうとするセシルだったが、なぜか夫の「感情の色」が見えるようになった。 冷徹だと思っていた夫の無表情の下に、深い孤独と不器用で一途な愛が隠されていたことを知る。 彼の愛をすべて誤解していたと気づいたセシルは、今度こそ彼の愛を掴むと決意。積極的に寄り添い、感情をぶつけると――

処理中です...