元婚約者に冷たく捨てられた令嬢、辺境で出会った無愛想な騎士に溺愛される ~今さら戻ってこないでください~

usako

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第12話 傷跡を撫でる手

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王都からの使者が去ってから数日、辺境の村は何事もなかったかのように穏やかな日常を取り戻していた。  
だが、それは表面上のことにすぎない。  
レティシアの心には、まだ複雑なものが残っていた。  

たとえエドガーがあの場で守ってくれたとしても、王都が本気で自分を探そうとしたら、いずれまた見つかるかもしれない。  
過去を完全に消すことはできない。  
けれど、もう逃げたくない――そう思わせてくれたのが、あの人の言葉だった。  

朝、マーサ女将が厨房で声を上げた。  
「エドガーが森へ出るって言ってたよ。狼がまた出たらしい。お前、昼の弁当を持たせてやってくれないかい。」  
「はい、分かりました。」  

レティシアはパンと燻製肉、少しのスープを包み、籠に入れて森の方へ歩き出した。  
春の森はやわらかな緑で満ちていて、風が葉をそよがせるたびに光がきらめく。  
その美しさの中に、どこか不安を感じるのは、エドガーがいないときに限って妙に胸がざわめくからだった。  

小川を渡り、森の奥へ進むと、ようやく彼の後ろ姿が見えた。  
長剣を背に、木々の間に跪いて、何かを地面に埋めている。  

「エドガーさん?」  
呼びかけると、彼は動きを止め、少し振り向いた。  
「なんだ、来たのか。危ない場所だぞ。」  
「お昼を持ってきたんです。……いま、何をしてたんですか?」  
エドガーはしばらく沈黙し、それから低い声で答えた。  
「墓を作っていた。」  
「お墓?」  
「旅の途中で倒れていた兵士を見つけた。戦の頃の遺骸だろう。せめて埋めてやらねば、魂が帰れない。」  

レティシアは胸が詰まる。  
彼が人知れずこうした行いを続けているのを、村の誰も知らなかった。  
けれど、その背中には迷いがなかった。  

「あなたは、本当に優しい人ですね。」  
「違う。罪滅ぼしをしているだけだ。」  
「罪滅ぼし?」  
「昔、仲間を一人、見殺しにした。」  

レティシアは息を呑んだ。  
彼の声は淡々としているが、その奥には深い苦痛が滲んでいた。  

「当時の上官の命令で撤退した。だが、あの時もう少し抗っていれば、助けられたかもしれない。…だから、今も戦場の跡を見つけるたび、俺はこうして埋葬する。」  

沈黙が落ちた。  
森のざわめきと鳥の声だけが響く。  

レティシアはそっと彼の隣に膝をついた。  
短く祈りを捧げ、それから静かに言った。  
「その人は、きっと恨んでいません。」  
「勝手に決めるな。」  
「ええ、勝手です。でも、あなたがこうして弔う姿を見たら、きっと安心します。あなたは残された者の義務を果たしている。」  

彼は何も言わなかった。  
ただ、手を握りしめる。指先には小さな震えがあった。  

「……お前は、俺に優しすぎる。」  
「あなたが優しすぎるからです。」  

己の言葉に、レティシア自身も驚いた。  
顔が熱くなる。だが、もう引っ込められない。  
彼に触れずして、どうやってこの痛みを癒すのだろう。  

勇気を出して、そっと彼の手に触れた。  
粗く硬い掌。戦で幾度となく剣を握ってきた跡。  
その肌を指先でなぞると、エドガーの肩がびくりと動いた。  

「何をしてる。」  
「傷跡が、痛みますか?」  
「もう感じない……ただ、たまに熱を思い出す。」  
「そのときは、こうして冷ましましょう。」  

優しく、手を包む。  
彼の体温が指先から伝わって、胸が苦しくなる。  

「……誰かに触れられるのは、ずいぶん久しぶりだ。」  
「私もです。」  
「おい、それはどういう意味だ。」  
「貴族だった頃、私はいつも手袋をしていました。人の温もりに、触れないようにしていたんです。」  

エドガーがゆっくりと目を細める。  
「それじゃあ今が初めての素手の挨拶か。」  
「ええ、握手の代わりに。」  

ふたりは笑った。だがその笑みは、どこか切なかった。  

昼食を食べながら、レティシアは彼の横顔を何度も盗み見た。  
硬い印象の中に、思慮深さと優しさが見える。  
しばらく沈黙が続いたあと、エドガーが唐突に口を開いた。  

「……なぜ、俺に構う。」  
「それは……」  
口ごもる。言葉にすれば、きっと戻れなくなる。  
エドガーが視線を向ける。その灰色の瞳に映る自分の姿が、逃げ道を塞ぐ。  

「なぜ、そんなに俺を気にかける。」  
「あなたが……放っておけないからです。」  
「放っておけない?」  
「放っておけないほど、あなたが……優しすぎて、不器用で、誰よりも人を思う人だから。」  

風が吹き抜け、髪が揺れる。  
レティシアの声は小さかったが、その一語一語は静かに響いた。  

エドガーの喉がわずかに動いた。  
「……どうしてそんな真っすぐ生きられるんだ。」  
「あなたに出会ったからです。」  

長い沈黙。森が呼吸するように音を立てた。  
やがて、彼は短く息を吐き、微かに笑った。  
「落ち着かん。お前はいつも俺の予想を壊す。」  
「それでは、退屈はしませんね。」  

思わず笑い合い、ほんの一瞬だけ距離が近づく。  
けれど、エドガーが気付いたようにわずかに身を引いた。  
「……まずいな。」  
「なにが?」  
「これ以上お前に触れていたら、俺はきっと、もう冷静ではいられなくなる。」  

その言葉が胸を刺すように響いた。  
頬が熱を持ち、呼吸が乱れる。  
けれど、彼がそれ以上踏み出さない理由も、レティシアには痛いほど分かっていた。  

彼は自分に過去の罪があると信じている。  
そんな男が誰かを幸せにしていいはずがない、と。  
だからこそ、彼の優しさはいつも一歩手前で止まる。  

その夜、風見亭に戻ったレティシアは、自室の小さな机に日記を開いた。  
震える指でペンを取りながら、書き記す。  

――彼の手に触れた。  
――その手の傷は、痛みではなく、優しさの跡だと知った。  
――わたしは、たぶんもう、彼のいない明日を想像できない。  

窓の外では小雨が降り始め、屋根を打つ音が静かに響く。  
その音を聞きながら、レティシアは胸の奥の熱を押さえることができなかった。  

触れてしまった手。  
心まで、もう離せない。  

続く
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