元婚約者に冷たく捨てられた令嬢、辺境で出会った無愛想な騎士に溺愛される ~今さら戻ってこないでください~

usako

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第10話 届かないはずの手

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祭りの翌朝は、春の陽射しがまぶしいほどだった。  
宿の前では花びらが風に舞い、街道を通る旅人たちが笑いながら挨拶を交わしていく。  
村全体が幸せの余韻に包まれていたが、レティシアの胸の中には小さなざわめきが残っていた。  

昨夜のこと――あの焚火の光の中で、エドガーに「似合っていた」と言われた瞬間のことが、何度も頭をよぎる。  
真剣で、優しくて、そしてほんの少し切なげな瞳。  
まるで彼の心の奥を覗いてしまったようで、思い出すたびに頬が熱くなる。  

けれど同時に、そんな穏やかな時間が、いつまで続くのか分からない恐れもあった。  
彼の“罪”を知ってしまった以上、それがどれほど重いものかも分かっている。  
王都からの追及が再び及ぶ日が来るかもしれない。  
それに、自分の過去だって完全に消えたわけではない。  

「……考えすぎね。」  
レティシアは自分に言い聞かせるように呟いた。  
今日もいつも通り、働けばいい。日常を守ること、それが自分にできる唯一のことだ。  

昼下がり、マーサ女将に頼まれ、荷車で隣町まで食料を仕入れに行くことになった。  
エドガーが同行してくれることになり、二人で村を出る。  

春の空は高く、道の脇には黄色い野花が咲いている。  
川沿いの小道を進みながら、初めは互いに無言だった。  
風の音と馬の足音だけが響く。  
やがて、レティシアがぽつりと口を開いた。  

「……こうして遠出するの、初めてですね。」  
「ああ。」  
「辺境とはいえ、思っていたより穏やかです。森もきれいで。」  
「だが、のんびりしていられるのも今のうちかもしれん。」  
「どういう意味ですか?」  

エドガーは前を見据えたまま、短く答えた。  
「辺境を狙う山賊がまた動き始めたという噂がある。王都の兵は手薄で、守れるのは俺たちだけだ。」  
「……そんなに危険なんですか?」  
「今はまだ。しかし、備えだけはしておく必要がある。」  

レティシアの心が、不安でざわつく。  
もしまた彼が無茶をして傷ついたら――  
そう思うだけで胸が痛んだ。  

「……戦うときは、ひとりで行かないでくださいね。」  
「どうしてそう思う。」  
「あなたは、誰かを守るためなら自分の命を顧みない人だから。」  

沈黙。  
エドガーが何か言いかけて口を閉じた。  
そして少しして、絞り出すように呟く。  

「……そうしないと、眠れないんだ。」  
「え?」  
「誰かを守れなかった夜がある。あれ以来、命を張ることでしか、自分を保てなくなった。」  

レティシアは胸が詰まった。  
夢に出るのだろう、かつて救えなかった人の顔が。  
彼の孤独がひどく痛々しい。  

「それでも……」  
彼女は言葉を選びながら続けた。  
「あなたが生きていてくれるだけで、救われる人がいます。私も、そのひとりです。」  

風が一瞬止まり、馬の足音だけが響いた。  
エドガーは何も言わず、ただ手綱を強く握った。  
その手の甲に浮かぶ古傷を見て、レティシアは思わず指先を伸ばした。  

握りたい。  
でも――届かない。  

距離はほんの少しなのに、何か見えない壁があるようだった。  
彼の中にある深い影、自分の中に残る貴族社会の残滓。  
それら全てが、ふたりを隔てている。  

そのとき、遠くで叫び声が上がった。  

「助けてくれぇ! 盗賊だ!」  

声の方へ目を向けると、道の先で商人の荷車が囲まれていた。  
三人組の男が剣を抜き、脅している。  
エドガーは即座に馬を止めた。  

「お前は下がっていろ。」  
「え、でも――」  
「下がれ!」  

その一言で、レティシアの体が固まった。  
エドガーが剣を抜き、静かに歩み出す。  
相手は三人。まともな武装ではないが、凶暴な目をしている。  

「なんだお前、騎士気取りか?」  
「村を荒らすなら容赦はしない。」  
「ふん、辺境の守り人風情が!」  

ひとりが剣を振りかざした瞬間、エドガーの剣が閃いた。  
風のような一撃。  
相手の腕から剣が弾かれ、地面に転がる。  

残る二人が同時に襲いかかる。金属がぶつかる音が響き、砂が舞う。  
レティシアは息を飲みながら見守るしかなかった。  
その動きは美しく無駄がなく、けれど――あまりにも危うい。  
彼はまるで自分の体を守る意識がないように見える。  

「エドガー!」  
思わず叫んだ瞬間、ひとりの賊の刃先が彼の脇を掠めた。  
赤い線が服を染める。  

「馬鹿ですか、あなた!」  
思わず駆け寄ろうとした彼女の前で、最後の盗賊が倒れる。剣が雪原に突き刺さり、静寂が戻った。  

戦いが終わったあと、商人たちは怯えながらも礼を言って去っていった。  
レティシアは震えた声で言った。  
「どうして、そんな無茶を……!」  
「無茶じゃない。」  
「痛いでしょう、血が……!」  
彼は平然とした顔で答える。  
「傷は浅い。大丈夫だ。」  

そう言いながらも、彼の呼吸は荒い。  
レティシアは手持ちの布でとにかく血を押さえた。  

「あなたが倒れたら、誰が村を守るんですか!」  
「誰かが、代わりになる。」  
「嫌です!」  

叫んでしまった。  
自分でも驚くほど強い声だった。  
彼が目を見開く。  
レティシアは涙をこらえながら言った。  

「誰かが代わりになれるなんて、そんなこと言わないでください。私は、あなたじゃないと嫌なんです……!」  

風が強く吹き、枝が鳴った。  
エドガーはその場で言葉をなくしたまま、レティシアを見つめた。  

やがて、傷の痛みに耐えるように目を伏せ、小さく呟いた。  
「……お前は優しい。だが、俺と関われば傷つくだけだ。」  
「それでも、離れたくありません。」  

短い沈黙。  
彼の頬を春の光が照らし、ほんの一瞬だけ笑みが浮かんだ。  

「……困った女だ。」  
「よく言われます。」  

二人の笑い声が、草をなびかせる風にかき消される。  
けれど、その笑顔の裏で、レティシアの胸は痛んでいた。  

届かない。  
この手をどれほど伸ばしても、彼はまだ遠い。  

それでも――彼の背を見失うわけにはいかなかった。  
彼の生き方を、見届けると決めたから。  

村への帰り道、日が傾き始める。  
傷を押さえながら歩くエドガーの隣で、レティシアは小さく息を整えた。  

「せめて、薬を塗らせてくださいね。」  
「しつこい女だ。」  
「あら、褒め言葉として受け取ります。」  

夕陽が二人の影を長く伸ばした。  
遠い空の先に、いつか重なりそうで、まだ少し離れている二つの影が並んでいた。  

続く
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