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第13話 元婚約者の影
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その夜、降り始めた雨は朝まで途切れることがなかった。
灰色の雲が重く垂れこめ、村中がしっとりと濡れている。
風見亭の屋根にも、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちては消えていった。
レティシアは、台所の窓越しにぼんやりと外を眺めていた。
いつもなら、朝食の支度をしている時間。
だが、今日は少しだけ気が抜けていた。夜通し眠れなかったのだ。
エドガーの手の感触が、まだ指先に残っていて、何度洗っても消えない。
心臓が落ち着かない。
あんなに近くで彼の温もりを感じたのは初めてだった。
罪悪感と幸福感が入り混じり、胸の奥で渦を巻いている。
「おい、レティシア、パン焦げてるぞ。」
マーサ女将の声でようやく我に返る。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
慌ててフライパンを持ち上げれば、黒く焦げたパンが煙を上げていた。
「昨日からぼーっとしてるねぇ。熱でもあるんじゃないか?」
「だ、大丈夫です!」
顔を逸らしながら、ごまかすように笑う。
昼前、雨が上がると同時に、村道の向こうから馬の蹄音が響いた。
マーサが外を見て眉をひそめる。
「珍しいね。王都の紋章のついた馬なんて……あっ、誰か降りたよ。」
その言葉に、レティシアの指が止まった。
心臓が嫌な音を立てる。
胸に覚えのある金色の紋章。アーベルグ家のものだ。
「まさか……」
呟く声が震える。
次の瞬間、宿の扉が開いた。
「久しぶりだね、レティシア。」
凍りつく。
声の主は、金髪に灰色の瞳をした青年――アラン・ルーデンハルトだった。
かつて彼女に婚約破棄を突きつけ、リリアと去った男。
彼は雨上がりの泥を気にもせず、堂々と室内に入ってきた。
「まさか、こんな所にいるとは思わなかった。探したんだよ。」
「……どうしてここに。」
声が震えていた。怒りか悲しみか、自分でも分からない。
「リリアが……彼女が死んだんだ。」
アランの目が曇った。レティシアの胸に、複雑な感情が駆け抜ける。
悲しむべきなのか、冷笑すべきなのか。
頭のどこかが、遠くで「また王都の匂いが戻ってきた」と囁いていた。
「そう……ですか。」
「事故だった。だが、あのとき君を捨てたことを、俺はずっと後悔していた。」
彼は一歩、近づいた。
「レティシア、もう一度やり直せないか?」
何かが壊れる音がした。
それは心の奥底で眠っていた何か――未練とも呼べぬ痛みだった。
その瞬間、背後から重い足音が響く。
「客は丁重に扱っているようだな。」
低く鋭い声。
エドガーが立っていた。
濡れた外套を脱ぐと、冷えた空気ごと場の温度を下げたように見えた。
「誰だ?」アランが眉をひそめる。
「この宿の見張り兼、村の守り人だ。」
「つまり、ただの下級兵ということか。レティシア、君がこんなところでそんな連中と――」
「やめてください。」
彼女の声が鋭く響いた。
「その言葉を聞きたくありません。あなたにそんな資格はない。」
アランが目を見開く。
「君は誤解している。あの時は、家を守るために仕方なく――」
「違うわ。あなたはただ、自分の都合を守りたかっただけ。」
その声に、かすかな震えが混じっていた。
だが、もう涙は出なかった。冷静さが、悲しみを覆い隠している。
エドガーが一歩前に出る。
「出て行け。」
「なに?」
「ここはお前の来る場所じゃない。」
アランが鼻で笑う。
「百姓が、私に命令でもするつもりか?」
「そうだ。ここの女を侮辱するなら、この場で斬る。」
剣の柄に手をかける音。
その一瞬で、空気が凍った。
レティシアが慌てて間に入る。
「だめです! エドガー!」
「下がっていろ。」
「お願い、私のために争わないで。」
アランが薄く笑った。
「君はずいぶん変わったね。そんな男に庇われるようになるとは。」
「もう昔の私ではありません。」
レティシアは真っ直ぐに彼を見据え、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたに捨てられたとき、泣いて、怒って、すべてを失ったつもりでした。
でも、今なら分かります。あの瞬間が、私の人生の始まりだったと。」
「始まり……?」
「あなたがいなければ、私はこの村に来なかった。エドガーと出会うこともなかった。」
アランが困惑したように眉を寄せる。
「まさか……彼を、愛しているとでも?」
沈黙。
レティシアはゆっくり息を吸い込み、頷いた。
「はい。」
その一言は、雷のように響いた。
アランの顔色が変わる。
怒りとも絶望ともつかぬ表情で手を伸ばしかけたが、その手をエドガーが弾く。
「帰れ。」
冷たい声。
「彼女に近づくな。次は、容赦しない。」
アランは歯を食いしばり、憎しみを滲ませた瞳で二人を見た。
「後悔するぞ、君も。そして……彼女も。」
それだけ言い残し、扉を叩きつけるように出ていった。
静寂が戻る。
聞こえるのは、外の雨音だけだった。
レティシアは膝の力が抜け、床に座り込む。
エドガーがそっとそばに寄る。
「大丈夫か。」
「……大丈夫です。でも、驚きました。」
「王都の連中は、よくもまあ勝手なことを言う。」
「ええ。昔は何も言い返せませんでした。でも今日は、言えました。」
彼が目を細める。
「強くなったな。」
「あなたが教えてくれたんです。」
その瞬間、涙があふれた。
嬉しくて、悔しくて、すべてが混ざっていた。
エドガーはため息を吐き、指先で彼女の涙を拭った。
「泣くな。せっかくの勝利の証なのに。」
「勝利ですか?」
「そうだ。お前は過去に勝った。」
レティシアは小さく笑った。
「でも、私の“今”をくれたのは、あなたです。」
「……俺は何もしていない。」
「あなたがいてくれたから、変われたんです。」
沈黙のあと、エドガーは照れ隠しのように立ち上がる。
「……疲れたろう。休め。」
「はい。」
背を向けかけた彼を呼び止める声が、思わず口をついて出た。
「エドガー。」
振り返ると、レティシアは真剣な瞳で彼を見つめていた。
「もしまた王都の人が来ても……私、もう逃げません。」
「……そうか。」
「でも一つだけ、お願いがあります。」
「なんだ。」
「その時も、あなたは隣にいてください。」
一瞬だけ、エドガーの表情が柔らかく解けた。
「当然だ。」
短い言葉が、約束のように響いた。
外では再び雨が降り出し、灰色の雲が村を覆っていく。
だがその中で、レティシアの心は穏やかだった。
過去はまだ消えない。
けれど、今度は彼がいる。
もう、怖くなかった。
続く
灰色の雲が重く垂れこめ、村中がしっとりと濡れている。
風見亭の屋根にも、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちては消えていった。
レティシアは、台所の窓越しにぼんやりと外を眺めていた。
いつもなら、朝食の支度をしている時間。
だが、今日は少しだけ気が抜けていた。夜通し眠れなかったのだ。
エドガーの手の感触が、まだ指先に残っていて、何度洗っても消えない。
心臓が落ち着かない。
あんなに近くで彼の温もりを感じたのは初めてだった。
罪悪感と幸福感が入り混じり、胸の奥で渦を巻いている。
「おい、レティシア、パン焦げてるぞ。」
マーサ女将の声でようやく我に返る。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
慌ててフライパンを持ち上げれば、黒く焦げたパンが煙を上げていた。
「昨日からぼーっとしてるねぇ。熱でもあるんじゃないか?」
「だ、大丈夫です!」
顔を逸らしながら、ごまかすように笑う。
昼前、雨が上がると同時に、村道の向こうから馬の蹄音が響いた。
マーサが外を見て眉をひそめる。
「珍しいね。王都の紋章のついた馬なんて……あっ、誰か降りたよ。」
その言葉に、レティシアの指が止まった。
心臓が嫌な音を立てる。
胸に覚えのある金色の紋章。アーベルグ家のものだ。
「まさか……」
呟く声が震える。
次の瞬間、宿の扉が開いた。
「久しぶりだね、レティシア。」
凍りつく。
声の主は、金髪に灰色の瞳をした青年――アラン・ルーデンハルトだった。
かつて彼女に婚約破棄を突きつけ、リリアと去った男。
彼は雨上がりの泥を気にもせず、堂々と室内に入ってきた。
「まさか、こんな所にいるとは思わなかった。探したんだよ。」
「……どうしてここに。」
声が震えていた。怒りか悲しみか、自分でも分からない。
「リリアが……彼女が死んだんだ。」
アランの目が曇った。レティシアの胸に、複雑な感情が駆け抜ける。
悲しむべきなのか、冷笑すべきなのか。
頭のどこかが、遠くで「また王都の匂いが戻ってきた」と囁いていた。
「そう……ですか。」
「事故だった。だが、あのとき君を捨てたことを、俺はずっと後悔していた。」
彼は一歩、近づいた。
「レティシア、もう一度やり直せないか?」
何かが壊れる音がした。
それは心の奥底で眠っていた何か――未練とも呼べぬ痛みだった。
その瞬間、背後から重い足音が響く。
「客は丁重に扱っているようだな。」
低く鋭い声。
エドガーが立っていた。
濡れた外套を脱ぐと、冷えた空気ごと場の温度を下げたように見えた。
「誰だ?」アランが眉をひそめる。
「この宿の見張り兼、村の守り人だ。」
「つまり、ただの下級兵ということか。レティシア、君がこんなところでそんな連中と――」
「やめてください。」
彼女の声が鋭く響いた。
「その言葉を聞きたくありません。あなたにそんな資格はない。」
アランが目を見開く。
「君は誤解している。あの時は、家を守るために仕方なく――」
「違うわ。あなたはただ、自分の都合を守りたかっただけ。」
その声に、かすかな震えが混じっていた。
だが、もう涙は出なかった。冷静さが、悲しみを覆い隠している。
エドガーが一歩前に出る。
「出て行け。」
「なに?」
「ここはお前の来る場所じゃない。」
アランが鼻で笑う。
「百姓が、私に命令でもするつもりか?」
「そうだ。ここの女を侮辱するなら、この場で斬る。」
剣の柄に手をかける音。
その一瞬で、空気が凍った。
レティシアが慌てて間に入る。
「だめです! エドガー!」
「下がっていろ。」
「お願い、私のために争わないで。」
アランが薄く笑った。
「君はずいぶん変わったね。そんな男に庇われるようになるとは。」
「もう昔の私ではありません。」
レティシアは真っ直ぐに彼を見据え、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたに捨てられたとき、泣いて、怒って、すべてを失ったつもりでした。
でも、今なら分かります。あの瞬間が、私の人生の始まりだったと。」
「始まり……?」
「あなたがいなければ、私はこの村に来なかった。エドガーと出会うこともなかった。」
アランが困惑したように眉を寄せる。
「まさか……彼を、愛しているとでも?」
沈黙。
レティシアはゆっくり息を吸い込み、頷いた。
「はい。」
その一言は、雷のように響いた。
アランの顔色が変わる。
怒りとも絶望ともつかぬ表情で手を伸ばしかけたが、その手をエドガーが弾く。
「帰れ。」
冷たい声。
「彼女に近づくな。次は、容赦しない。」
アランは歯を食いしばり、憎しみを滲ませた瞳で二人を見た。
「後悔するぞ、君も。そして……彼女も。」
それだけ言い残し、扉を叩きつけるように出ていった。
静寂が戻る。
聞こえるのは、外の雨音だけだった。
レティシアは膝の力が抜け、床に座り込む。
エドガーがそっとそばに寄る。
「大丈夫か。」
「……大丈夫です。でも、驚きました。」
「王都の連中は、よくもまあ勝手なことを言う。」
「ええ。昔は何も言い返せませんでした。でも今日は、言えました。」
彼が目を細める。
「強くなったな。」
「あなたが教えてくれたんです。」
その瞬間、涙があふれた。
嬉しくて、悔しくて、すべてが混ざっていた。
エドガーはため息を吐き、指先で彼女の涙を拭った。
「泣くな。せっかくの勝利の証なのに。」
「勝利ですか?」
「そうだ。お前は過去に勝った。」
レティシアは小さく笑った。
「でも、私の“今”をくれたのは、あなたです。」
「……俺は何もしていない。」
「あなたがいてくれたから、変われたんです。」
沈黙のあと、エドガーは照れ隠しのように立ち上がる。
「……疲れたろう。休め。」
「はい。」
背を向けかけた彼を呼び止める声が、思わず口をついて出た。
「エドガー。」
振り返ると、レティシアは真剣な瞳で彼を見つめていた。
「もしまた王都の人が来ても……私、もう逃げません。」
「……そうか。」
「でも一つだけ、お願いがあります。」
「なんだ。」
「その時も、あなたは隣にいてください。」
一瞬だけ、エドガーの表情が柔らかく解けた。
「当然だ。」
短い言葉が、約束のように響いた。
外では再び雨が降り出し、灰色の雲が村を覆っていく。
だがその中で、レティシアの心は穏やかだった。
過去はまだ消えない。
けれど、今度は彼がいる。
もう、怖くなかった。
続く
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