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静かなる黎明へ
責任の在処
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一九四五年八月十八日。ワシントンの地下会議室における交渉は
三日目にして最大の、そして最も残酷な局面を迎えていた。
室内を支配するのは、もはや核の脅威に対する動揺ではなく
冷徹な政治的清算を求める勝者の論理であった。
高倉は、連日の心労を微塵も感じさせない姿で席に着いていた。
汚れ一つない純白の海軍正装は、この地下室の乾燥した空気の中で
異様なまでの存在感を放っている。対面に座るバーンズ国務長官は
目の前の書類を乱暴に閉じると、氷のように冷たい視線を高倉に投げかけた。
その横に座るスティムソン陸軍長官の表情も
昨日までの慎重な探り合いとは異なり
決定的な一線を越えようとする者の厳しさを湛えていた。
バーンズが、静かだが拒絶を許さない声で口を開いた。
「高倉提督、昨日までの領土問題、そして核開発情報の譲渡に関する合意は
あくまで『日本という国家』との取引に過ぎない。
だが、我々にはもう一つ、絶対に避けては通れない問題がある。
それは、米国民に対する説明責任だ。比島への攻撃から始まり真珠湾への奇襲
南洋、比島、そして沖縄に至るまで、我々が流した血はあまりにも多い。
アーリントン墓地に並ぶ十字架の数は、もはや統計的な数字ではない。
それは、この戦争を計画し、指導した者たちの罪の重さそのものだ。
米国の世論は、正義の執行を求めている。
この戦争を実質的に指示し、遂行させた最高責任者の首をだ」
バーンズの言葉は、高倉の胸を鋭く刺した。高倉は表情を崩さなかったが
その視線の奥にわずかな緊張が走るのを
スティムソンは見逃さなかった。バーンズは容赦なく続けた。
「我々が求めているのは、形式的な謝罪ではない。
具体的な死だ。米国側は、この戦争を指導した『実質的指示者』の引き渡しと
その処刑を要求する。それは、言うまでもなく天皇陛下か、
あるいはそれに準ずる最高責任者でなければならない。
陛下を戦犯として法廷に立たせ、その責任を全うさせる。
それがなされない限り、米国民はこの終戦を受け入れないだろうし
我々もポツダム宣言の枠組みを維持することはできない」
会議室に、凍りつくような沈黙が流れた。
それは昨日までの外交的な駆け引きとは質の異なる
魂を削り合うような沈黙であった。高倉は一瞬だけ目を閉じ
深く、静かに息を吐いた。彼の脳裏には、
皇居の御文庫で、平和への祈りを捧げていた陛下の横顔が浮かんでいた。
そして同時に、沖縄の泥濘の中で、あるいはマリアナの空で
陛下の名を叫んで散っていった無数の若者たちの顔も。
高倉はゆっくりと目を開けた。その瞳には、一抹の迷いも、一点の曇りもなかった。
彼はバーンズを真っ直ぐに見据え、言葉を選びながら、しかし力強く応じた。
「長官、貴国が正義を求める気持ちは理解できる。
しかし、貴国は大きな誤解をしている。陛下は常に、平和を希求されていた。
開戦のその瞬間まで、万民の安寧を願う御歌を詠まれ
回避の道を模索されていたのだ。この惨禍を招いたのは、陛下ではなく
統帥権の独立を盾に暴走した軍部の一部であり
その流れを止められなかった政治の責任だ。陛下を法廷に立たせ
その御身に刃を向けることは、単なる正義の執行ではない。
それは、日本国民の魂を永久に破壊し、再起不能な傷を負わせる行為だ。
もしそのようなことが行われれば、日本は戦後の統治が不可能な
憎しみの連鎖が永劫に続く荒野となるだろう。
それは、貴国が望むアジアの安定とは、正反対の結果を招くことになる」
「ならば、誰がその責任を取るのだ?」
バーンズが、高倉の言葉を遮るように問い詰めた。
「誰かが責任を取らなければならない。何十万人もの米兵を殺した
指示者が誰なのか、我々は自国民に示さなければならないのだ。
軍部が暴走したと言うのなら、その軍部を象徴し
実際に我々の艦隊を壊滅させ
我々の息子たちを地獄へ送った『最高責任者』は誰だ?」
高倉は、わずかに微笑んだ。それは
すべての決着をつける覚悟を決めた者だけが見せる、神々しいまでの微笑であった。
彼は椅子を静かに引き、立ち上がると、純白の手袋をはめた手を胸に当てた。
「私だ。連合艦隊司令長官として、開戦から沖縄に至るまで
米海軍に最も甚大な損害を与え続けたのは、この私、高倉である。
比島への攻撃の計画も大陸打通作戦において貴国の空軍基地を蹂躙し
そしてマリアナ、比島、沖縄において、貴国の最新鋭空母や
戦艦を血の海に沈めた張本人は、他でもない私だ。
私こそが、貴国にとっての最大の仇敵であり、この戦争を実質的に遂行し
最も効率的に米兵を殺害するための作戦を練り上げた張本人なのだ。
もし、誰かの首が必要なのであれば、私の首を持っていけばいい。
連合艦隊のトップが自ら実質的指示者として
貴国の軍事法廷に立つ。それで米国民の怒りは収まるはずだ」
高倉の言葉は、まるで爆弾のように会議室に炸裂した。
米国側の交渉担当者たちは、驚愕のあまり言葉を失い、互いに顔を見合わせた。
一国の軍隊の頂点に立つ者が、自ら戦争犯罪人としての汚名を被り
首を差し出すという提案。それは
合理主義と利益誘導で動く彼らの常識を、根本から覆すものであった。
スティムソンが、困惑した表情で高倉に問いかけた。
「高倉提督、正気か。君は自分が何を言っているのか分かっているのか。
実質的指示者として認めれば、それは即ち、絞首台への道を自ら選ぶということだ。
君には名誉もあり、家族もいるだろう。このまま交渉を続ければ
君個人は生き残る道も探れたはずだ。なぜ、そこまでして……」
「武人として、最初から覚悟していたことだ」
高倉の声は、地下室の壁に反射して、静かに、しかし重厚に響き渡った。
「スティムソン長官、私の命一つで、陛下がお守りされ
日本という国が存続できるのであれば、これほど安価な取引はない。
私は、この四年間で散っていった数百万の部下たちに対して
常に申し訳なさを抱いてきた。彼らは、私の命令一つで、故郷に家族を残し
未練を断ち切って海に消えていった。彼らの犠牲の上に
今の私の命がある。ならば、その最後の一滴を
この国の未来のために使い切ることこそが
司令長官としての私の最後の職務だ。これは自己犠牲などという
高尚なものではない。私にとっては、当然の清算なのだ」
高倉は一歩前に出た。彼の瞳には、一点の揺らぎもなかった。
「私を法廷に立たせればいい。私は一切の弁明をせず
すべての罪を認めるだろう。真珠湾の奇襲も、その後のすべての凄惨な戦いも
すべて私が独断で行ったことだと証言しよう。
それで米国側が納得し、陛下に手を触れないと約束するのであれば
私は喜んで絞首台に登る。それが、私の選んだ戦いであり、私の選んだ死に場所だ」
スティムソンは、高倉の瞳を凝視した。そこにあるのは、死への恐怖を超越した
凄まじいまでの意志の力であった。彼はこれまで、多くの日本人と接してきたが
これほどまでに気高く、これほどまでに透明な魂を持った男に出会ったことはなかった。
高倉の言葉には、外交的な駆け引きも、ハッタリも含まれていなかった。
ただ、純粋な「真実」だけがそこにあった。
バーンズもまた、その圧倒的な存在感に気圧されていた。
彼は、自らの政治的な思惑が、高倉という人間の巨大な覚悟の前に
いかに矮小なものであるかを痛感せざるを得なかった。
米国側が求めていた「首」は、単なる生贄としてのそれではなく
この戦争の重みを象徴するものでなければならなかった。
そして、高倉以上の適役は、世界中を探してもどこにもいなかった。
「……提督、君という男は、恐ろしい男だ」
バーンズが、呻くように言った。
「君の提案は、大統領にとっても、そして我々にとっても
おそらく最も受け入れやすい『解決策』となるだろう。
君がすべての責任を負うことで、我々は国内の強硬派を黙らせることができる。
そして、陛下の地位を保証することも、論理的に可能になる。
だが……君は本当に、それでいいのか。
歴史に、君の名は『平和を壊した大罪人』として刻まれることになるのだぞ」
「名誉など、とうに捨てました」
高倉は、遠くを見つめるような目で答えた。
「私の名は、歴史の闇に消えても構わない。あるいは
後世の人々に罵倒される存在になってもいい。ただ、日本という国が
明日という日を迎えられるなら、それで十分です。
死んでいった戦友たちが、あの世で『よくやった』と言ってくれるなら、私は満足です」
高倉のこの自己犠牲という「真実」が、ついに米国の頑なな心を動かした。
スティムソンは、ゆっくりと頷き、傍らに控えていた副官に命じて
大統領への極秘電文の起草を始めさせた。そこには、日本側特使
高倉の申し出を全面的に受け入れ
天皇の不訴追を条件とした停戦合意の最終案が記されていた。
交渉は、この瞬間、事実上の終結へと向かい始めた。
核というブラフで米国を脅し、自らの命というチップで陛下を救った。
高倉の、命を懸けた綱渡りは、最も過酷で、最も気高い形での成功を収めたのである。
会議が休憩に入ったとき、高倉は部屋の隅で
同行してきた安田大尉に声をかけた。安田は
先ほどのやり取りをすべて聞いており、その顔は涙でぐしょぐしょになっていた。
「安田、泣くな。これは喜ぶべきことだ。
これで、戦争が終わる。日本が救われるんだ」
「ですが……ですが提督! あなたが……あなたがすべてを背負って死ぬなんて
そんなことがあっていいはずがありません! 私たちが、私たちがもっと力を持っていれば……!」
「いいや、安田。お前たちは十分によくやった。
皆の部隊も、みんなが死力を尽くしてくれたからこそ
私はこのテーブルで戦えたのだ。私の死は、お前たちの戦いの完成なのだよ。
だから、胸を張れ。お前は、日本に帰って
私の代わりにこの国の復興を見てくれ。それが、私からの最後の命令だ」
高倉は、安田の肩を強く叩いた。その手の温かさは
安田にとって、一生忘れることのできないものとなった。
その数時間後、安田は日本からの新たな電文を高倉に届けた。
それは、沖縄の武蔵要塞からのものであった。
武蔵主砲、残弾僅少。依然として米艦隊に対して有効な打撃を与え続けている。
敵航空隊の攻撃は激しさを増し、艦橋付近への直撃弾により、一部通信設備が損壊。
しかし、以下全乗組員の士気は極めて旺盛であり
最後の一弾まで戦い抜く覚悟に揺るぎなし。
高倉長官の吉報を、全軍、首を長くして待ち望んでいる。
高倉は、その電文を丁寧に畳み、胸のポケットに入れた。
「吉報は、もうすぐ届くぞ。あともう少しだけ、持ちこたえてくれ」
高倉は、地下室の冷たい壁に寄りかかり、しばしの休息を取った。
彼の心は、不思議なほどに凪いでいた。明日には、正式な調印が行われ
彼は米国軍の憲兵に引き渡されることになる。そこから先は
彼にとっての「死への旅路」だ。
だが、その道の向こうには、彼が守りたかった日本の未来が、確かに広がっている。
彼は、懐から家族の写真を取り出し、そっと唇を寄せた。
「すまない。だが、私は後悔していない」
ワシントンの地下室。三日目の夜は、静かに更けていった。
外では、夏の虫の声が聞こえてくるかもしれない。あるいは
平和への予感に沸く人々の足音が響いているかもしれない。
高倉は、そのすべてを愛おしく思いながら、明日という最後の日を待った。
自らの命を糧として、一国の命脈を繋ぎ止める。
高倉という一人の男の物語は、今、最も壮絶で、最も美しい頂点に達しようとしていた。
その夜、高倉は夢を見た。 それは、青い海を渡る、白い大型飛行艇の夢であった。
機内には、散っていった戦友たちがみんな笑顔で座っている。
高倉もまた、その中にいた。 彼らはどこへ向かっているのか。
それは、戦争も、憎しみも、そして核の炎もない、永遠の平和の国であった。
高倉は夢の中で、心地よい風に吹かれながら、静かに眠り続けた。
目覚めたとき、そこには新しい歴史の夜明けが待っていることを、彼は確信していた。
三日目にして最大の、そして最も残酷な局面を迎えていた。
室内を支配するのは、もはや核の脅威に対する動揺ではなく
冷徹な政治的清算を求める勝者の論理であった。
高倉は、連日の心労を微塵も感じさせない姿で席に着いていた。
汚れ一つない純白の海軍正装は、この地下室の乾燥した空気の中で
異様なまでの存在感を放っている。対面に座るバーンズ国務長官は
目の前の書類を乱暴に閉じると、氷のように冷たい視線を高倉に投げかけた。
その横に座るスティムソン陸軍長官の表情も
昨日までの慎重な探り合いとは異なり
決定的な一線を越えようとする者の厳しさを湛えていた。
バーンズが、静かだが拒絶を許さない声で口を開いた。
「高倉提督、昨日までの領土問題、そして核開発情報の譲渡に関する合意は
あくまで『日本という国家』との取引に過ぎない。
だが、我々にはもう一つ、絶対に避けては通れない問題がある。
それは、米国民に対する説明責任だ。比島への攻撃から始まり真珠湾への奇襲
南洋、比島、そして沖縄に至るまで、我々が流した血はあまりにも多い。
アーリントン墓地に並ぶ十字架の数は、もはや統計的な数字ではない。
それは、この戦争を計画し、指導した者たちの罪の重さそのものだ。
米国の世論は、正義の執行を求めている。
この戦争を実質的に指示し、遂行させた最高責任者の首をだ」
バーンズの言葉は、高倉の胸を鋭く刺した。高倉は表情を崩さなかったが
その視線の奥にわずかな緊張が走るのを
スティムソンは見逃さなかった。バーンズは容赦なく続けた。
「我々が求めているのは、形式的な謝罪ではない。
具体的な死だ。米国側は、この戦争を指導した『実質的指示者』の引き渡しと
その処刑を要求する。それは、言うまでもなく天皇陛下か、
あるいはそれに準ずる最高責任者でなければならない。
陛下を戦犯として法廷に立たせ、その責任を全うさせる。
それがなされない限り、米国民はこの終戦を受け入れないだろうし
我々もポツダム宣言の枠組みを維持することはできない」
会議室に、凍りつくような沈黙が流れた。
それは昨日までの外交的な駆け引きとは質の異なる
魂を削り合うような沈黙であった。高倉は一瞬だけ目を閉じ
深く、静かに息を吐いた。彼の脳裏には、
皇居の御文庫で、平和への祈りを捧げていた陛下の横顔が浮かんでいた。
そして同時に、沖縄の泥濘の中で、あるいはマリアナの空で
陛下の名を叫んで散っていった無数の若者たちの顔も。
高倉はゆっくりと目を開けた。その瞳には、一抹の迷いも、一点の曇りもなかった。
彼はバーンズを真っ直ぐに見据え、言葉を選びながら、しかし力強く応じた。
「長官、貴国が正義を求める気持ちは理解できる。
しかし、貴国は大きな誤解をしている。陛下は常に、平和を希求されていた。
開戦のその瞬間まで、万民の安寧を願う御歌を詠まれ
回避の道を模索されていたのだ。この惨禍を招いたのは、陛下ではなく
統帥権の独立を盾に暴走した軍部の一部であり
その流れを止められなかった政治の責任だ。陛下を法廷に立たせ
その御身に刃を向けることは、単なる正義の執行ではない。
それは、日本国民の魂を永久に破壊し、再起不能な傷を負わせる行為だ。
もしそのようなことが行われれば、日本は戦後の統治が不可能な
憎しみの連鎖が永劫に続く荒野となるだろう。
それは、貴国が望むアジアの安定とは、正反対の結果を招くことになる」
「ならば、誰がその責任を取るのだ?」
バーンズが、高倉の言葉を遮るように問い詰めた。
「誰かが責任を取らなければならない。何十万人もの米兵を殺した
指示者が誰なのか、我々は自国民に示さなければならないのだ。
軍部が暴走したと言うのなら、その軍部を象徴し
実際に我々の艦隊を壊滅させ
我々の息子たちを地獄へ送った『最高責任者』は誰だ?」
高倉は、わずかに微笑んだ。それは
すべての決着をつける覚悟を決めた者だけが見せる、神々しいまでの微笑であった。
彼は椅子を静かに引き、立ち上がると、純白の手袋をはめた手を胸に当てた。
「私だ。連合艦隊司令長官として、開戦から沖縄に至るまで
米海軍に最も甚大な損害を与え続けたのは、この私、高倉である。
比島への攻撃の計画も大陸打通作戦において貴国の空軍基地を蹂躙し
そしてマリアナ、比島、沖縄において、貴国の最新鋭空母や
戦艦を血の海に沈めた張本人は、他でもない私だ。
私こそが、貴国にとっての最大の仇敵であり、この戦争を実質的に遂行し
最も効率的に米兵を殺害するための作戦を練り上げた張本人なのだ。
もし、誰かの首が必要なのであれば、私の首を持っていけばいい。
連合艦隊のトップが自ら実質的指示者として
貴国の軍事法廷に立つ。それで米国民の怒りは収まるはずだ」
高倉の言葉は、まるで爆弾のように会議室に炸裂した。
米国側の交渉担当者たちは、驚愕のあまり言葉を失い、互いに顔を見合わせた。
一国の軍隊の頂点に立つ者が、自ら戦争犯罪人としての汚名を被り
首を差し出すという提案。それは
合理主義と利益誘導で動く彼らの常識を、根本から覆すものであった。
スティムソンが、困惑した表情で高倉に問いかけた。
「高倉提督、正気か。君は自分が何を言っているのか分かっているのか。
実質的指示者として認めれば、それは即ち、絞首台への道を自ら選ぶということだ。
君には名誉もあり、家族もいるだろう。このまま交渉を続ければ
君個人は生き残る道も探れたはずだ。なぜ、そこまでして……」
「武人として、最初から覚悟していたことだ」
高倉の声は、地下室の壁に反射して、静かに、しかし重厚に響き渡った。
「スティムソン長官、私の命一つで、陛下がお守りされ
日本という国が存続できるのであれば、これほど安価な取引はない。
私は、この四年間で散っていった数百万の部下たちに対して
常に申し訳なさを抱いてきた。彼らは、私の命令一つで、故郷に家族を残し
未練を断ち切って海に消えていった。彼らの犠牲の上に
今の私の命がある。ならば、その最後の一滴を
この国の未来のために使い切ることこそが
司令長官としての私の最後の職務だ。これは自己犠牲などという
高尚なものではない。私にとっては、当然の清算なのだ」
高倉は一歩前に出た。彼の瞳には、一点の揺らぎもなかった。
「私を法廷に立たせればいい。私は一切の弁明をせず
すべての罪を認めるだろう。真珠湾の奇襲も、その後のすべての凄惨な戦いも
すべて私が独断で行ったことだと証言しよう。
それで米国側が納得し、陛下に手を触れないと約束するのであれば
私は喜んで絞首台に登る。それが、私の選んだ戦いであり、私の選んだ死に場所だ」
スティムソンは、高倉の瞳を凝視した。そこにあるのは、死への恐怖を超越した
凄まじいまでの意志の力であった。彼はこれまで、多くの日本人と接してきたが
これほどまでに気高く、これほどまでに透明な魂を持った男に出会ったことはなかった。
高倉の言葉には、外交的な駆け引きも、ハッタリも含まれていなかった。
ただ、純粋な「真実」だけがそこにあった。
バーンズもまた、その圧倒的な存在感に気圧されていた。
彼は、自らの政治的な思惑が、高倉という人間の巨大な覚悟の前に
いかに矮小なものであるかを痛感せざるを得なかった。
米国側が求めていた「首」は、単なる生贄としてのそれではなく
この戦争の重みを象徴するものでなければならなかった。
そして、高倉以上の適役は、世界中を探してもどこにもいなかった。
「……提督、君という男は、恐ろしい男だ」
バーンズが、呻くように言った。
「君の提案は、大統領にとっても、そして我々にとっても
おそらく最も受け入れやすい『解決策』となるだろう。
君がすべての責任を負うことで、我々は国内の強硬派を黙らせることができる。
そして、陛下の地位を保証することも、論理的に可能になる。
だが……君は本当に、それでいいのか。
歴史に、君の名は『平和を壊した大罪人』として刻まれることになるのだぞ」
「名誉など、とうに捨てました」
高倉は、遠くを見つめるような目で答えた。
「私の名は、歴史の闇に消えても構わない。あるいは
後世の人々に罵倒される存在になってもいい。ただ、日本という国が
明日という日を迎えられるなら、それで十分です。
死んでいった戦友たちが、あの世で『よくやった』と言ってくれるなら、私は満足です」
高倉のこの自己犠牲という「真実」が、ついに米国の頑なな心を動かした。
スティムソンは、ゆっくりと頷き、傍らに控えていた副官に命じて
大統領への極秘電文の起草を始めさせた。そこには、日本側特使
高倉の申し出を全面的に受け入れ
天皇の不訴追を条件とした停戦合意の最終案が記されていた。
交渉は、この瞬間、事実上の終結へと向かい始めた。
核というブラフで米国を脅し、自らの命というチップで陛下を救った。
高倉の、命を懸けた綱渡りは、最も過酷で、最も気高い形での成功を収めたのである。
会議が休憩に入ったとき、高倉は部屋の隅で
同行してきた安田大尉に声をかけた。安田は
先ほどのやり取りをすべて聞いており、その顔は涙でぐしょぐしょになっていた。
「安田、泣くな。これは喜ぶべきことだ。
これで、戦争が終わる。日本が救われるんだ」
「ですが……ですが提督! あなたが……あなたがすべてを背負って死ぬなんて
そんなことがあっていいはずがありません! 私たちが、私たちがもっと力を持っていれば……!」
「いいや、安田。お前たちは十分によくやった。
皆の部隊も、みんなが死力を尽くしてくれたからこそ
私はこのテーブルで戦えたのだ。私の死は、お前たちの戦いの完成なのだよ。
だから、胸を張れ。お前は、日本に帰って
私の代わりにこの国の復興を見てくれ。それが、私からの最後の命令だ」
高倉は、安田の肩を強く叩いた。その手の温かさは
安田にとって、一生忘れることのできないものとなった。
その数時間後、安田は日本からの新たな電文を高倉に届けた。
それは、沖縄の武蔵要塞からのものであった。
武蔵主砲、残弾僅少。依然として米艦隊に対して有効な打撃を与え続けている。
敵航空隊の攻撃は激しさを増し、艦橋付近への直撃弾により、一部通信設備が損壊。
しかし、以下全乗組員の士気は極めて旺盛であり
最後の一弾まで戦い抜く覚悟に揺るぎなし。
高倉長官の吉報を、全軍、首を長くして待ち望んでいる。
高倉は、その電文を丁寧に畳み、胸のポケットに入れた。
「吉報は、もうすぐ届くぞ。あともう少しだけ、持ちこたえてくれ」
高倉は、地下室の冷たい壁に寄りかかり、しばしの休息を取った。
彼の心は、不思議なほどに凪いでいた。明日には、正式な調印が行われ
彼は米国軍の憲兵に引き渡されることになる。そこから先は
彼にとっての「死への旅路」だ。
だが、その道の向こうには、彼が守りたかった日本の未来が、確かに広がっている。
彼は、懐から家族の写真を取り出し、そっと唇を寄せた。
「すまない。だが、私は後悔していない」
ワシントンの地下室。三日目の夜は、静かに更けていった。
外では、夏の虫の声が聞こえてくるかもしれない。あるいは
平和への予感に沸く人々の足音が響いているかもしれない。
高倉は、そのすべてを愛おしく思いながら、明日という最後の日を待った。
自らの命を糧として、一国の命脈を繋ぎ止める。
高倉という一人の男の物語は、今、最も壮絶で、最も美しい頂点に達しようとしていた。
その夜、高倉は夢を見た。 それは、青い海を渡る、白い大型飛行艇の夢であった。
機内には、散っていった戦友たちがみんな笑顔で座っている。
高倉もまた、その中にいた。 彼らはどこへ向かっているのか。
それは、戦争も、憎しみも、そして核の炎もない、永遠の平和の国であった。
高倉は夢の中で、心地よい風に吹かれながら、静かに眠り続けた。
目覚めたとき、そこには新しい歴史の夜明けが待っていることを、彼は確信していた。
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ypaaaaaaa
歴史・時代
1937年10月にアメリカ海軍は日本海軍が”60000トンを超す巨大戦艦”を”4隻”建造しているという情報を掴んだ。海軍はすぐに対抗策を講じてサウスダコタ級戦艦に続いてアイオワ級戦艦を4隻建造することとした。そして1941年12月。日米は戦端を開いたが戦列に加わっていたのは巨大戦艦ではなく、”巨大空母”であった。
日英同盟不滅なり
竹本田重朗
歴史・時代
世界は二度目の世界大戦に突入した。ヒトラー率いるナチス・ドイツがフランス侵攻を開始する。同時にスターリン率いるコミンテルン・ソビエトは満州に侵入した。ヨーロッパから極東まで世界を炎に包まれる。悪逆非道のファシストと共産主義者に正義の鉄槌を下せ。今こそ日英同盟が島国の底力を見せつける時だ。
※超注意書き※
1.政治的な主張をする目的は一切ありません
2.そのため政治的な要素は「濁す」又は「省略」することがあります
3.あくまでもフィクションのファンタジーの非現実です
4.そこら中に無茶苦茶が含まれています
5.現実的に存在する如何なる国家や地域、団体、人物と関係ありません
以上をご理解の上でお読みください
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