If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ

文字の大きさ
205 / 239
静かなる黎明へ

領土割譲どう耐えるか

一九四五年八月十七日。ワシントンの地下会議室に漂う空気は
前日の刺すような冷気から、より重苦しく、湿り気を帯びた圧迫感へと変化していた。
空調の音だけが規則的に響く室内で、高倉は昨日と変わらぬ
純白の正装に身を包んでいた。連日の極限状態にあるはずの彼の表情には
疲労の影すら見当たらない。その徹底した自己律律こそが
米国側の交渉担当者たちに対する無言の威嚇となっていた。

交渉二日目の議題は、核の脅威という抽象的な恐怖から
より具体的で生々しい「領土と主権」の問題へと移行していた。
バーンズ国務長官は、机の上に広げられた極東の地図を乱暴に指差し
傲慢な響きを隠そうともせずに言い放った。

「高倉提督、我々の要求は一貫している。日本がこれまでに
 不当に領有してきたすべての地域、すなわち満州、朝鮮半島
 そして台湾の即時放棄だ。これらは大西洋憲章の精神に基づき
 本来の姿に戻されるべきものである。君たちがこれを受け入れない限り
 昨日提示された核に関する妥協案も、我々は真剣に検討するつもりはない。
 無条件降伏とは、物理的な武力だけでなく
 帝国主義的な領土欲をも捨てることを意味するのだ」

バーンズの言葉が終わるか終わらないかのうちに、高倉は静かに立ち上がった。
彼は持参した大型の地図を、米国側が用意した地図の上に重なるように広げた。
その地図には、東アジアからシベリアにかけての兵力配置と
赤色の矢印がいくつも描き込まれていた。高倉は懐から万年筆を取り出すと
満州の国境線に沿って一本の太い線を引いた。

「バーンズ長官、そしてスティムソン長官。貴国の掲げる大西洋憲章の理念は
 平和時においては崇高なものでしょう。
 しかし、今の現実は理念だけで動いているのではない。
 この地図をご覧いただきたい。長年にわたり、
 我が国は満州、朝鮮半島、そして台湾において
 莫大な国力を投じてインフラを整備し、民生を安定させてきました。
 これらを単なる領土欲の結果だと断じるのは
 歴史に対する無知と言わざるを得ない。我々がこれらの地域から即座に
 かつ完全に撤退した後に何が起きるか。それを冷静に予測したことはおありか」

高倉は一度言葉を切り、相手の反応を確かめるように視線を走らせた。
米国側の顔ぶれには、困惑と警戒の色が混じっていた。
高倉はさらに声を落とし、しかしより鋭い響きを持って続けた。

「現在、ドイツが欧州方面をほぼ完全に支配下に置きつつあることは
 貴国も把握しているはずだ。その結果として何が起きているか。
 欧州での野望を挫かれたスターリンは、その巨大な牙を東へと向け始めている。
 我々の情報によれば、シベリア鉄道の輸送量はここ数週間で
 通常の三倍に達し、精鋭のソ連極東軍が満州国境付近に展開し始めている。
 もし我が国がこれらの地域を即座に放棄し、権力の空白地帯を生み出せば
 そこへ雪崩れ込んでくるのは誰か。明白だ。赤軍だ」

スティムソン陸軍長官が、不快そうに顔を歪めた。
「ソ連は我々の同盟国だ。彼らが日本の
 領土を解放することに、何の問題があるというのか」

高倉は薄く笑った。
「長官、貴国はスターリンという男をあまりにも楽観視されているようだ。
 彼は解放者ではない。彼は征服者だ。一度ソ連の長靴に
 踏みにじられた土地が、再び自由を取り戻すには数十年
 あるいは数百年の歳月が必要になるだろう。
 欧州で何も得られなかったスターリンは、必ずや極東方面から南下し
 アジア全土を共産主義の赤に染め上げるつもりだ。
 日本という防波堤を自ら壊し、その後に広がる赤い海に
 貴国はどう対処されるおつもりか。アジアが共産主義に飲み込まれれば
 貴国の影響力は太平洋の真ん中で遮断されることになる」

高倉は、共産主義の脅威という、米国が将来的に必ず抱くであろう懸念を
あえてこの場で先取りして突きつけた。
これは、戦後の冷戦構造を予見していた彼にしかできない
極めて高度な外交的博打であった。

「我々は、これらの地域における日本の主権を
 限定的ながらも継続させることを要求する。それは日本のエゴではない。
 アジアにおける安定の楔として、そして共産主義の拡大を阻止する
 唯一の防壁として、日本軍の存在が必要なのだ。
 もしこれが受け入れられないならば、昨日も申し上げた通り
 我々は最後の一人まで核を抱いて戦い抜く。
 その時、貴国が手にするのは『自由なアジア』ではなく
 放射能に汚染された瓦礫の山と、その背後に迫るソ連の影だけだ。
 勝者のいない灰の海。それが貴国の望む結末か」

高倉の言葉は、会議室に重い沈黙をもたらした。
バーンズは何度も時計を気にし、スティムソンは
手元の資料を食い入るように見つめている。米国側の担当者は
隣室の通信設備を使い、トルーマン大統領との連絡を繰り返していた。

この膠着した時間の中で、高倉は給仕された紅茶を一口啜った。
優雅な動作であったが、彼の喉を通る液体は、砂を噛むような苦味を帯びていた。
彼の脳裏には、先ほど安田から届けられた沖縄の惨状が焼き付いていた。
重巡一隻、駆逐艦二隻。第十一水雷戦隊の残影。
そして、今この瞬間も敵の空爆に晒されている武蔵要塞の巨体。

「……耐えてくれ、武蔵。もう少しだけだ」

高倉は心の中で祈り続けていた。彼は知っている。
日本に残されたプルトニウムは、昨日提示した二グラムが最後であり
国内の生産施設はすでにただの鉄屑であることを。
彼が今、世界の首脳を相手に振り回しているのは
言葉という名の、中身のない「虚空」に過ぎない。
もし米国側が、核開発の現状を正確に把握している
スパイを一人でも潜り込ませていれば、この瞬間に高倉の首は飛んでいただろう。

だが、高倉は微塵も揺らがなかった。
むしろ、その虚空の重みを、誰よりも重いものとして演じきっていた。
彼の指先は紅茶のカップを完璧に保持し、一度の震えも見せない。
背筋は、比島やマリアナで見た
散っていった兵士たちの魂を支える柱のように真っ直ぐであった。

数時間後、大統領との協議を終えたバーンズが戻ってきた。
彼の顔には、苦渋の決断を下した者特有の陰りがあった。

「……高倉提督、大統領からの回答を伝える。まず台湾についてだ。
 台湾は、日本の敗戦と同時に中華民国への返還を認めてもらう。
 これは譲れない条件だ。しかし……」

バーンズは一度言葉を切り、高倉が引いた地図の線を睨みつけた。

「満州、および朝鮮半島北部に関する日本の管理権については
 ソ連の南下阻止という観点から、貴国の主張を一部検討する余地がある。
 ただし、これは永続的な領有を認めるものではない。
 あくまで戦後の混乱期における『暫定的な治安維持と共同管理』という名目だ。
 この地域については、数年間の経過措置を置いた後
 国際連合の監視下での住民投票
 あるいは国際会議によって最終的な帰属を決定する。これでどうか」

高倉は、表情を変えずに心の中で深く息を吐いた。
満州と朝鮮を即座に奪われることを防いだ。
これは、戦後の日本にとって、そしてアジアの地政学にとって
奇跡に近い成果であった。台湾の返還は痛手ではあるが
共産主義の防波堤としての機能を
維持するためのコストとしては、許容範囲内であった。

「……承知した。住民投票による帰属決定というプロセスについては合意しよう。
 ただし、その準備期間中、日本軍の駐留規模については
 改めて協議させてもらいたい。ソ連軍を抑止するためには
 単なる治安維持部隊以上の戦力が必要になるはずだ」

「それは、軍事委員会の場で詰めさせてもらおう。
 だが提督、我々がこれほどまでの譲歩をしたのは
 君の背後にある『力』への恐怖だけではない。君という男が持つ
 この状況における異常なまでの冷徹さに、大統領が投資したのだ。
 これを裏切れば、次は交渉のテーブルなどないと思え」

バーンズの言葉に、高倉は静かに頷いた。
「裏切りはしません。我々は、自らが生んだ核という悪魔の火を
 この手で封印することを誓う。それが、この過酷な条件を飲んだ我々の誠意だ」

二日目の交渉が終わったとき、高倉は椅子に座ったまま
しばらく動くことができなかった。全身の筋肉が
まるで鉄の塊のように硬直していた。安田が近づき、そっと肩に手を置く。

「提督、お見事でした。満州の管理権を残せるとは……。
 これで、戦後の日本は完全な焦土にならずに済むかもしれません」

「……安田、私は今、世界で一番大きな嘘をついた。そして
 その嘘を守るために、沖縄の者たちは今も本当の血を流している。
 この重みを、私は一生背負わねばならんのだ」

高倉は、震える手を隠すようにテーブルの下で拳を握り締めた。
彼の眼前には、ワシントンの地下室の壁ではなく
沖縄の海を真っ赤に染めて沈みゆく、かつての戦友たちの姿が見えていた。

高倉の言葉は、米国を動かした。だが、その言葉の裏打ちとなっていたのは
核という「幽霊」の力だけではない。
四年間、太平洋のあちこちで日本軍が示してきた
狂気とも取れるほどの粘り強い抵抗。その執念の集大成が
高倉という一人の人間に凝縮されていたからこそ
米国は彼の言葉を信じざるを得なかったのだ。

交渉は三日目へと続く。次は、最も困難で、高倉自身が最も恐れていた議題。
「戦争責任の所在」と「天皇の地位」についての戦いが始まる。

高倉は、冷え切った紅茶の残りを飲み干した。
その味は、これから彼が歩む絞首台への道のりのように
どこまでも乾いていて、切なかった。

「安田、古賀長官に打電しろ。交渉第二段階完了。
 満州・朝鮮の管理権維持に成功。次は、本丸だ……と」

安田は、高倉の瞳の奥に宿る、死にゆく者の静かな光を見た気がした。
彼は無言で敬礼し、部屋を後にした。

高倉は一人、再び地図を見つめた。彼が引いた一本の線。
それは、単なる国境線ではなく、彼が守り抜こうとした「日本」という国の
最後の防波堤であった。たとえその線が、自分自身の命で引かれたものであったとしても。

ワシントンの夜は更けていく。だが、高倉の頭の中では
明日のための言葉が、火薬のように激しく、そして緻密に積み上げられていた。

彼は知っていた。明日、自分が何を差し出すべきかを。 
領土を守り、国体を守り、そして国民を救う。
そのための最後のチップは、もはや核の嘘でも
地理的な利害でもない。 高倉自身の「命」そのものである。

彼は、静かに目を閉じ、深い瞑想に入った。 
比島、南洋諸島、真珠湾、四国沖、北陸沖、大陸打通作戦、マリアナ、比島、そして沖縄。 
そのすべての戦場で流された血の記憶が、高倉を明日へと押し出していた。

「見ていろ、みんな。俺の最後の突撃だ」

高倉の独白は、誰に聞かれることもなく、冷たい地下会議室の中に消えていった。
 だが、その決意は、翌朝のワシントンの空を
血のように赤く、そして誇り高く染めることになるのであった。
感想 4

あなたにおすすめの小説

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

未来を見た山本五十六、帝国を勝利へ導く

たか
歴史・時代
1928年12月10日の空母赤城艦長の就任式終了後、赤城の甲板に立ち夕暮れを見てた時だった。ふと立ちくらみのような眩暈が起きた瞬間、山本五十六「それ」を見た。 燃え上がる広島と長崎、硫黄島で散る歩兵、ミッドウェーで沈む空母、そして1943年ブーゲンビル島上空で戦死した事…… あまりに酷い光景に五十六は倒れそうになった、「これは夢ではない……現実、いやこれは未来か」 その夜、山本五十六は日記に記した。 【我、帝国の敗北を見たり。未来を変えねば、祖国は滅ぶ】

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

いや、婿を選べって言われても。むしろ俺が立候補したいんだが。

SHO
歴史・時代
時は戦国末期。小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れ、新たに徳川家康が関八州へ国替えとなった頃のお話。 伊豆国の離れ小島に、弥五郎という一人の身寄りのない少年がおりました。その少年は名刀ばかりを打つ事で有名な刀匠に拾われ、弟子として厳しく、それは厳しく、途轍もなく厳しく育てられました。 そんな少年も齢十五になりまして、師匠より独立するよう言い渡され、島を追い出されてしまいます。 さて、この先の少年の運命やいかに? 剣術、そして恋が融合した痛快エンタメ時代劇、今開幕にございます! *この作品に出てくる人物は、一部実在した人物やエピソードをモチーフにしていますが、モチーフにしているだけで史実とは異なります。空想時代活劇ですから! *この作品はノベルアップ+様に掲載中の、「いや、婿を選定しろって言われても。だが断る!」を改題、改稿を経たものです。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

局地戦闘機 飛電の栄光と終焉

みにみ
歴史・時代
十四試局戦 後の三菱雷電J2Mとして知られるこの戦闘機は爆撃機用の火星エンジンを搭載したため胴体直径の増加、前方視界不良などが続いたいわば少し残念な機体である この十四試局戦計画に地方の無名メーカーが参加、雷電を超える高性能機が誕生し、零戦の後継として太平洋戦線を駆ける これは設計者、搭乗員の熱く短い6年間を描いた物語だ