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静かなる黎明へ
終戦と新たな火種
一九四五年八月十九日。ワシントン郊外
鬱蒼とした森に囲まれた古色蒼然たる私邸。
その一室には、世界の運命を書き換えるための静寂が立ち込めていた。
深夜の二時を回った頃、部屋の主であるスティムソン陸軍長官のデスクには
たった二通の書類が置かれていた。
一つは、全世界に向けて公表される予定のポツダム宣言受諾に関する公文書。
そしてもう一つは、歴史の表舞台には決して出ることのない
日米間の「極秘覚書」であった。
高倉は、三日間の激闘による極度の疲労をその白い制服の下に隠し
微動だにせず椅子に座っていた。彼の前には、合衆国を代表する
スティムソン長官、そして国務省のバーンズ長官が並び
それぞれが重い沈黙を抱えていた。
スティムソンが、震える指先で眼鏡を直しながら、掠れた声で沈黙を破った。
「高倉提督、この覚書の内容を今一度確認していただきたい。
これに署名した瞬間、君の祖国は救われる。
だが、君という個人は、我々の法の裁きという名の、戻れぬ道へ進むことになる。
ここには、三つの主要な合意事項が記されている。
第一に、日本国の国体、すなわち天皇陛下の地位の完全な保証と不可侵。
第二に、満州および朝鮮半島における日本側の暫定的な行政権と
治安維持権の継続。これについては、ソ連の南下を阻止するための防壁として
機能することを期待している。そして第三に
日本が保有する核開発に関する一切の情報、理論、そして施設座標の完全譲渡。
そして……これらすべての代償として
戦争の『実質的指示者』たる君の身柄を我々に引き渡すこと。間違いはないか」
高倉は、書類の一字一句を噛みしめるように読み上げ、静かに頷いた。
「相違ありません。長官、私はこのためにワシントンへ来たのです。
この一枚の紙が、我が国の数千万の国民を救い
そしてアジアの新たな秩序を守るための礎となるのであれば
私個人に課せられた運命など、あまりにも些細なことです。
我が国は、この日から戦うことを止め、復興の道へと歩み出すでしょう。
そのための担保として、私の命を差し出すことに、一点の迷いもありません」
高倉は、卓上の万年筆を手に取った。それはパーカー五十一
アメリカの合理主義を象徴するようなペンだった。
彼はそのペンを握り、ゆっくりと、しかし力強い筆致で自らの名を書き入れた。
インクが紙に染み込み、乾いていく。そのわずかな時間の中で
太平洋を血に染めた四年にわたる戦争が、実質的にその幕を閉じようとしていた。
署名を終えた高倉がペンを置くと、スティムソンは長い、長い溜息をついた。
彼は高倉の手を握り、敵国への敬意を超えた、一人の人間としての温もりを伝えてきた。
「提督、君は敵ながら、本当の意味で見事だった。
私の長い公務員生活の中でも、君のような男に出会ったことはない。
我が国が、君のような気高い魂を持つ男を絞首台に送らねばならないというのは
人類の文明にとっての悲劇と言わざるを得ない。
我々が求めていたのは、このような崇高な犠牲ではなく
もっと卑小な政治的解決だったのかもしれないが、君の覚悟が、我々の心を動かしたのだ」
高倉は、わずかに微笑んで応えた。
「長官、お言葉に感謝します。しかし、文明というものは
いつの時代も誰かの犠牲の上に成り立っているものです。
かつての英雄たちがそうであったように、私もまた
その歴史の歯車の一つになるだけです。長官、どうか日本を
我が同胞をよろしく頼みます。私の愛した国民は
本来、平和を愛する善良で勤勉な人々です。一度は道を誤りましたが
彼らには新しい世界を築く力が備わっています。
どうか、彼らから希望を奪わないでいただきたい」
「約束しよう、提督。我々は日本を破壊するために占領するのではない。
君の意志を継ぎ、新しい時代を共に歩むために、手を差し伸べるつもりだ」
調印が終わると、部屋のドアが勢いよく開き
武装した米軍の憲兵(MP)たちが数名入ってきた。
彼らの手には、鈍い銀色に光る手錠が握られていた。
高倉は、驚く様子もなく、自ら両手を前に差し出した。
カチリ、という冷たい金属音が室内に響く。
それは、高倉義人という軍人の、事実上の死を告げる音であった。
同行していた安田大尉は、その光景を目の当たりにして、声を殺して泣き崩れた。
高倉は、連行される直前、安田の元へ歩み寄り、穏やかな声で最後の言葉をかけた。
「安田、泣くな。お前は私の証人だ。お前が日本に帰り
古賀長官や陛下に、すべてが完了したことを伝えるのだ。
日本側には、私が交渉を完遂した直後、責任を取って現地で
自決したという虚偽の報告がなされることになっている。
真相を知るのは、陛下と古賀長官、そして数名の閣僚だけだ。
お前も、墓場までこの秘密を持っていくのだぞ。
高倉義人という名は、公式記録からは敗戦の責任を取った自決者として消えていく。
それでいいのだ。名誉などというものは
生きている者のための飾りだ。死にゆく私には必要ない」
安田は、涙を拭うこともできず、ただ直立不動で敬礼を続けた。
「……提督、あなたのことは、私が一生、この胸に刻み続けます。
あなたが何を守り、何のために死んでいったのか
私は、私がこれから見ていく新しい日本の中で、ずっと語り継いでいきます。
たとえ名前を出せなくても、あなたの魂がこの国を支えていることを、私は忘れません」
高倉は、満足そうに頷くと、憲兵たちに促されて部屋を出て行った。
廊下に響く軍靴の音が、次第に遠ざかっていく。
安田は、高倉がいなくなった後の、静まり返った部屋で
いつまでも敬礼を下ろすことができなかった。
それから二日後。一九四五年八月二十一日。
日本の各地では、異様な緊張感が漂っていた。
早朝の午前六時、宮内省より「重大な放送」がある旨が各官庁
および各軍部隊に伝達された。それと同時に
内閣からは、日本行政管区全土に対する停戦命令が下された。
ただし、この命令には例外があった。満州方面、および北海道方面の部隊に対しては
依然として厳戒態勢を維持し、不測の事態に備えるよう別命が下されていたのである。
午前八時。真夏の太陽が容赦なく照りつける中
日本中のラジオから、雑音混じりの放送が流れ始めた。
人々は、工場の広場で、街角のスピーカーの下で
あるいは防空壕の中で、その声を待っていた。
激戦の地、沖縄。そこには、未だに威容を誇る超弩級戦艦「武蔵」があった。
艦橋に集まった猪口艦長以下の将兵たちは
煤に汚れ、傷ついた体を引きずりながら、スピーカーから流れる雑音を
必死に聞き取ろうとしていた。
つい数時間前まで、彼らを苦しめていた米軍の爆撃が、嘘のように止んでいた。
やがて、独特の抑揚を持った、しかし慈愛に満ちた陛下の御声が
全国に、そして太平洋の島々に響き渡った。
朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み
非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして、米英二国に対し
その共同宣言を受諾し講和する旨通告せしめたり。
武蔵の甲板にいた水兵たちは、その言葉の意味を理解しようと
目を見開いて立ち尽くした。戦争が、終わる。
その事実が、彼らの荒れ果てた心に、染み渡るように広がっていった。
そもそも帝国臣民の康寧をはかり、万邦共栄の楽しみを共にするは
皇祖皇宗の遺範にして、朕の拳々措かざる所。
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた、実に帝国の自存と
東亜の安定とを庶幾するに出でて、他国の主権を排し領土を侵すが如きは
もとより朕が志にあらず。 然るに交戦既に四歳を閲し
朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公
各々最善を尽くせるに拘らず、戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず。 しかもなお交戦を継続せんか
遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし。
かくの如くは、朕何をもってか、億兆の赤子を保し
皇祖皇宗の神霊に謝せんや。
是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。
放送が進むにつれ、あちこちで嗚咽が漏れ始めた。
四年間、あまりにも多くのものを失ってきた。家族を、友を
そして故郷を。その苦しみが、陛下の「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という
言葉によって、初めて赦されたような気がした。
朕は帝国と共に、終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し
遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し
職域に殉じ、非命に倒れたる者及び、其の遺族に想いを致せば
五内為に裂く。且つ戦傷を負い、災禍を被り
家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。
高倉が、ワシントンの地下室で思い描いていた光景が
今、現実のものとなっていた。彼は、この放送を聞くことはできなかったが
彼の命を懸けた交渉が、この玉音放送を「滅亡の宣言」ではなく
「平和への第一歩」へと変えたのである。
放送は、終盤に差し掛かった。そこで
本来のポツダム宣言受諾文には存在しない、陛下自身の強い意志によって
付け加えられた、異例の一文が読み上げられた。
朕はここに国体を護持し得て、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し
常に汝臣民と共に在り。もしそれ情の激する所、濫りに事端を滋くし
或いは同胞排擠、互いに時局を乱り、為に大道を誤り
信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。 宜しく、挙国一家、子孫相伝え
かたく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い
総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を堅くし
誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
汝臣民それ克く朕が意を体せよ。
又講和に関し、一人の勇士がいたことを忘れることのなきよう求む。 御名御璽。
最後の一文が流れ終えた瞬間、放送は終わった。
日本全土が、深い静寂に包まれた。人々は互いに顔を見合わせ
今の言葉の真意を測りかねていた。
「一人の勇士……? それは、特攻隊の方々のことだろうか」
「いや、あるいは、どこかの戦線で最後まで戦った英雄のことか」
「講和に関し、一人の勇士……。一体、誰のことを仰っているのだ」
戦後の混乱の中で、この一文は小さな、しかし消えることのない謎として残された。
高倉の存在を知る者は沈黙を守り
公式記録には、彼はただ
「停戦交渉をまとめ上げた後、責任を取って米本土で自決した高官」としてのみ記された。
真相が歴史の闇から掘り起こされるには、さらに数十年の月日が必要となる。
だが、この時、誰もが確信したことが一つだけあった。
日対米英戦争は、終わったのだ。
しかし、太平洋に静寂が訪れた一方で、ユーラシア大陸の北側では
不気味な地鳴りのような音が響き始めていた。米英との戦争が終わろうとも
日本にはもう一つの、そしておそらくは
それ以上の凶暴さを持った悪魔の手が迫りつつあった。
ソビエト社会主義共和国連邦。
その最高権力者が座る、モスクワのクレムリン。
分厚い石壁に囲まれた、煙草の煙が充満する執務室。
その中央で、ヨシフ・スターリンはパイプを燻らせながら
壁に掛けられた巨大な世界地図を睨みつけていた。
彼の視線は、極東、特に満州と朝鮮半島
そして日本の北方領土に釘付けになっていた。
「……日米が停戦したか。思っていたよりも早かったな。
あのファシスト共も、ついに力尽きたというわけか」
スターリンの低く、濁った声が室内に響いた。傍らに立つのは
秘密警察NKVDの長官であり、スターリンの影として恐れられる
ラヴレンチー・ベリヤであった。
ベリヤは冷徹な笑みを浮かべ、手元の報告書を読み上げた。
「えぇ、同志スターリンの仰せのままに。米国は日本と密約を結んだようです。
天皇の地位を保証し、満州の行政権すら一部残すと。
これは、我々に対する明らかな牽制です。しかし
そんな紙切れ一枚の約束など、戦車の一撃で踏み潰せます。
日本軍は弱っています。今、この隙に極東を占領し
既成事実を作った方が速いでしょう。アジアの赤化こそが、我が連邦の次なる悲願です」
スターリンは、パイプの灰を無造作に灰皿へ落とすと、鋭い目でベリヤを振り返った。
「準備はできているのか。極東の日本軍は、死に体とはいえ
まだ牙を持っているぞ。特に満州の関東軍は、侮れん」
「ご安心ください、同志。すでに三個機甲師団と六個歩兵師団、九個航空団
そして太平洋艦隊をウラジオストクに回航済みです。
海軍戦力も充実しております。新鋭のキーロフ級重巡洋艦
そして米国からレンドリースで供与されたクリーブランド級を改造した
スラヴァ、ヴァリャーグをすでに戦列に加えております。
これらは、疲弊した日本海軍の残党を蹴散らすには十分すぎる戦力です」
ベリヤの言葉に、スターリンは満足そうに口角を上げた。
彼は地図の上にある満州の地を、その太い指で強く叩いた。
「ヤポンツィ共の土地をとっとと奪って、欧州侵攻への士気をあげよう。
米国の核とやらが実戦配備される前に、我々はアジアにおける
確固たる拠点を手に入れねばならん。
停戦など、我々には関係ない。我々の戦争は、ここから始まるのだ」
クレムリンの窓の外では、冷たい風が吹き荒れていた。
太平洋で平和を喜ぶ人々の頭上に
今度は極寒の地から吹き付ける赤き嵐の予兆が漂い始めていた。
高倉が命を懸けて引いた、満州の防衛線。 その線の上に
ソ連軍の戦車の無限軌道が迫ろうとしていた。 米英との戦争は終わったが
共産主義という新たな怪物を相手にした、
日本の、そしてアジアの新たな苦難の幕が、不穏な形で今、開こうとしていたのである。
満州の地平線に、赤い星を冠した戦闘機が飛来する。
戦いは、まだ終わっていなかった。高倉が遺した「防波堤」が
その真価を問われるのは、これからであった。
歴史は、休息を許さない。 一人の男の死によって繋ぎ止められた平和は
次なる巨悪の出現によって、再び激しい火花を散らし始める。
鬱蒼とした森に囲まれた古色蒼然たる私邸。
その一室には、世界の運命を書き換えるための静寂が立ち込めていた。
深夜の二時を回った頃、部屋の主であるスティムソン陸軍長官のデスクには
たった二通の書類が置かれていた。
一つは、全世界に向けて公表される予定のポツダム宣言受諾に関する公文書。
そしてもう一つは、歴史の表舞台には決して出ることのない
日米間の「極秘覚書」であった。
高倉は、三日間の激闘による極度の疲労をその白い制服の下に隠し
微動だにせず椅子に座っていた。彼の前には、合衆国を代表する
スティムソン長官、そして国務省のバーンズ長官が並び
それぞれが重い沈黙を抱えていた。
スティムソンが、震える指先で眼鏡を直しながら、掠れた声で沈黙を破った。
「高倉提督、この覚書の内容を今一度確認していただきたい。
これに署名した瞬間、君の祖国は救われる。
だが、君という個人は、我々の法の裁きという名の、戻れぬ道へ進むことになる。
ここには、三つの主要な合意事項が記されている。
第一に、日本国の国体、すなわち天皇陛下の地位の完全な保証と不可侵。
第二に、満州および朝鮮半島における日本側の暫定的な行政権と
治安維持権の継続。これについては、ソ連の南下を阻止するための防壁として
機能することを期待している。そして第三に
日本が保有する核開発に関する一切の情報、理論、そして施設座標の完全譲渡。
そして……これらすべての代償として
戦争の『実質的指示者』たる君の身柄を我々に引き渡すこと。間違いはないか」
高倉は、書類の一字一句を噛みしめるように読み上げ、静かに頷いた。
「相違ありません。長官、私はこのためにワシントンへ来たのです。
この一枚の紙が、我が国の数千万の国民を救い
そしてアジアの新たな秩序を守るための礎となるのであれば
私個人に課せられた運命など、あまりにも些細なことです。
我が国は、この日から戦うことを止め、復興の道へと歩み出すでしょう。
そのための担保として、私の命を差し出すことに、一点の迷いもありません」
高倉は、卓上の万年筆を手に取った。それはパーカー五十一
アメリカの合理主義を象徴するようなペンだった。
彼はそのペンを握り、ゆっくりと、しかし力強い筆致で自らの名を書き入れた。
インクが紙に染み込み、乾いていく。そのわずかな時間の中で
太平洋を血に染めた四年にわたる戦争が、実質的にその幕を閉じようとしていた。
署名を終えた高倉がペンを置くと、スティムソンは長い、長い溜息をついた。
彼は高倉の手を握り、敵国への敬意を超えた、一人の人間としての温もりを伝えてきた。
「提督、君は敵ながら、本当の意味で見事だった。
私の長い公務員生活の中でも、君のような男に出会ったことはない。
我が国が、君のような気高い魂を持つ男を絞首台に送らねばならないというのは
人類の文明にとっての悲劇と言わざるを得ない。
我々が求めていたのは、このような崇高な犠牲ではなく
もっと卑小な政治的解決だったのかもしれないが、君の覚悟が、我々の心を動かしたのだ」
高倉は、わずかに微笑んで応えた。
「長官、お言葉に感謝します。しかし、文明というものは
いつの時代も誰かの犠牲の上に成り立っているものです。
かつての英雄たちがそうであったように、私もまた
その歴史の歯車の一つになるだけです。長官、どうか日本を
我が同胞をよろしく頼みます。私の愛した国民は
本来、平和を愛する善良で勤勉な人々です。一度は道を誤りましたが
彼らには新しい世界を築く力が備わっています。
どうか、彼らから希望を奪わないでいただきたい」
「約束しよう、提督。我々は日本を破壊するために占領するのではない。
君の意志を継ぎ、新しい時代を共に歩むために、手を差し伸べるつもりだ」
調印が終わると、部屋のドアが勢いよく開き
武装した米軍の憲兵(MP)たちが数名入ってきた。
彼らの手には、鈍い銀色に光る手錠が握られていた。
高倉は、驚く様子もなく、自ら両手を前に差し出した。
カチリ、という冷たい金属音が室内に響く。
それは、高倉義人という軍人の、事実上の死を告げる音であった。
同行していた安田大尉は、その光景を目の当たりにして、声を殺して泣き崩れた。
高倉は、連行される直前、安田の元へ歩み寄り、穏やかな声で最後の言葉をかけた。
「安田、泣くな。お前は私の証人だ。お前が日本に帰り
古賀長官や陛下に、すべてが完了したことを伝えるのだ。
日本側には、私が交渉を完遂した直後、責任を取って現地で
自決したという虚偽の報告がなされることになっている。
真相を知るのは、陛下と古賀長官、そして数名の閣僚だけだ。
お前も、墓場までこの秘密を持っていくのだぞ。
高倉義人という名は、公式記録からは敗戦の責任を取った自決者として消えていく。
それでいいのだ。名誉などというものは
生きている者のための飾りだ。死にゆく私には必要ない」
安田は、涙を拭うこともできず、ただ直立不動で敬礼を続けた。
「……提督、あなたのことは、私が一生、この胸に刻み続けます。
あなたが何を守り、何のために死んでいったのか
私は、私がこれから見ていく新しい日本の中で、ずっと語り継いでいきます。
たとえ名前を出せなくても、あなたの魂がこの国を支えていることを、私は忘れません」
高倉は、満足そうに頷くと、憲兵たちに促されて部屋を出て行った。
廊下に響く軍靴の音が、次第に遠ざかっていく。
安田は、高倉がいなくなった後の、静まり返った部屋で
いつまでも敬礼を下ろすことができなかった。
それから二日後。一九四五年八月二十一日。
日本の各地では、異様な緊張感が漂っていた。
早朝の午前六時、宮内省より「重大な放送」がある旨が各官庁
および各軍部隊に伝達された。それと同時に
内閣からは、日本行政管区全土に対する停戦命令が下された。
ただし、この命令には例外があった。満州方面、および北海道方面の部隊に対しては
依然として厳戒態勢を維持し、不測の事態に備えるよう別命が下されていたのである。
午前八時。真夏の太陽が容赦なく照りつける中
日本中のラジオから、雑音混じりの放送が流れ始めた。
人々は、工場の広場で、街角のスピーカーの下で
あるいは防空壕の中で、その声を待っていた。
激戦の地、沖縄。そこには、未だに威容を誇る超弩級戦艦「武蔵」があった。
艦橋に集まった猪口艦長以下の将兵たちは
煤に汚れ、傷ついた体を引きずりながら、スピーカーから流れる雑音を
必死に聞き取ろうとしていた。
つい数時間前まで、彼らを苦しめていた米軍の爆撃が、嘘のように止んでいた。
やがて、独特の抑揚を持った、しかし慈愛に満ちた陛下の御声が
全国に、そして太平洋の島々に響き渡った。
朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み
非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして、米英二国に対し
その共同宣言を受諾し講和する旨通告せしめたり。
武蔵の甲板にいた水兵たちは、その言葉の意味を理解しようと
目を見開いて立ち尽くした。戦争が、終わる。
その事実が、彼らの荒れ果てた心に、染み渡るように広がっていった。
そもそも帝国臣民の康寧をはかり、万邦共栄の楽しみを共にするは
皇祖皇宗の遺範にして、朕の拳々措かざる所。
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた、実に帝国の自存と
東亜の安定とを庶幾するに出でて、他国の主権を排し領土を侵すが如きは
もとより朕が志にあらず。 然るに交戦既に四歳を閲し
朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公
各々最善を尽くせるに拘らず、戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず。 しかもなお交戦を継続せんか
遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし。
かくの如くは、朕何をもってか、億兆の赤子を保し
皇祖皇宗の神霊に謝せんや。
是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。
放送が進むにつれ、あちこちで嗚咽が漏れ始めた。
四年間、あまりにも多くのものを失ってきた。家族を、友を
そして故郷を。その苦しみが、陛下の「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という
言葉によって、初めて赦されたような気がした。
朕は帝国と共に、終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し
遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し
職域に殉じ、非命に倒れたる者及び、其の遺族に想いを致せば
五内為に裂く。且つ戦傷を負い、災禍を被り
家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。
高倉が、ワシントンの地下室で思い描いていた光景が
今、現実のものとなっていた。彼は、この放送を聞くことはできなかったが
彼の命を懸けた交渉が、この玉音放送を「滅亡の宣言」ではなく
「平和への第一歩」へと変えたのである。
放送は、終盤に差し掛かった。そこで
本来のポツダム宣言受諾文には存在しない、陛下自身の強い意志によって
付け加えられた、異例の一文が読み上げられた。
朕はここに国体を護持し得て、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し
常に汝臣民と共に在り。もしそれ情の激する所、濫りに事端を滋くし
或いは同胞排擠、互いに時局を乱り、為に大道を誤り
信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。 宜しく、挙国一家、子孫相伝え
かたく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い
総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を堅くし
誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
汝臣民それ克く朕が意を体せよ。
又講和に関し、一人の勇士がいたことを忘れることのなきよう求む。 御名御璽。
最後の一文が流れ終えた瞬間、放送は終わった。
日本全土が、深い静寂に包まれた。人々は互いに顔を見合わせ
今の言葉の真意を測りかねていた。
「一人の勇士……? それは、特攻隊の方々のことだろうか」
「いや、あるいは、どこかの戦線で最後まで戦った英雄のことか」
「講和に関し、一人の勇士……。一体、誰のことを仰っているのだ」
戦後の混乱の中で、この一文は小さな、しかし消えることのない謎として残された。
高倉の存在を知る者は沈黙を守り
公式記録には、彼はただ
「停戦交渉をまとめ上げた後、責任を取って米本土で自決した高官」としてのみ記された。
真相が歴史の闇から掘り起こされるには、さらに数十年の月日が必要となる。
だが、この時、誰もが確信したことが一つだけあった。
日対米英戦争は、終わったのだ。
しかし、太平洋に静寂が訪れた一方で、ユーラシア大陸の北側では
不気味な地鳴りのような音が響き始めていた。米英との戦争が終わろうとも
日本にはもう一つの、そしておそらくは
それ以上の凶暴さを持った悪魔の手が迫りつつあった。
ソビエト社会主義共和国連邦。
その最高権力者が座る、モスクワのクレムリン。
分厚い石壁に囲まれた、煙草の煙が充満する執務室。
その中央で、ヨシフ・スターリンはパイプを燻らせながら
壁に掛けられた巨大な世界地図を睨みつけていた。
彼の視線は、極東、特に満州と朝鮮半島
そして日本の北方領土に釘付けになっていた。
「……日米が停戦したか。思っていたよりも早かったな。
あのファシスト共も、ついに力尽きたというわけか」
スターリンの低く、濁った声が室内に響いた。傍らに立つのは
秘密警察NKVDの長官であり、スターリンの影として恐れられる
ラヴレンチー・ベリヤであった。
ベリヤは冷徹な笑みを浮かべ、手元の報告書を読み上げた。
「えぇ、同志スターリンの仰せのままに。米国は日本と密約を結んだようです。
天皇の地位を保証し、満州の行政権すら一部残すと。
これは、我々に対する明らかな牽制です。しかし
そんな紙切れ一枚の約束など、戦車の一撃で踏み潰せます。
日本軍は弱っています。今、この隙に極東を占領し
既成事実を作った方が速いでしょう。アジアの赤化こそが、我が連邦の次なる悲願です」
スターリンは、パイプの灰を無造作に灰皿へ落とすと、鋭い目でベリヤを振り返った。
「準備はできているのか。極東の日本軍は、死に体とはいえ
まだ牙を持っているぞ。特に満州の関東軍は、侮れん」
「ご安心ください、同志。すでに三個機甲師団と六個歩兵師団、九個航空団
そして太平洋艦隊をウラジオストクに回航済みです。
海軍戦力も充実しております。新鋭のキーロフ級重巡洋艦
そして米国からレンドリースで供与されたクリーブランド級を改造した
スラヴァ、ヴァリャーグをすでに戦列に加えております。
これらは、疲弊した日本海軍の残党を蹴散らすには十分すぎる戦力です」
ベリヤの言葉に、スターリンは満足そうに口角を上げた。
彼は地図の上にある満州の地を、その太い指で強く叩いた。
「ヤポンツィ共の土地をとっとと奪って、欧州侵攻への士気をあげよう。
米国の核とやらが実戦配備される前に、我々はアジアにおける
確固たる拠点を手に入れねばならん。
停戦など、我々には関係ない。我々の戦争は、ここから始まるのだ」
クレムリンの窓の外では、冷たい風が吹き荒れていた。
太平洋で平和を喜ぶ人々の頭上に
今度は極寒の地から吹き付ける赤き嵐の予兆が漂い始めていた。
高倉が命を懸けて引いた、満州の防衛線。 その線の上に
ソ連軍の戦車の無限軌道が迫ろうとしていた。 米英との戦争は終わったが
共産主義という新たな怪物を相手にした、
日本の、そしてアジアの新たな苦難の幕が、不穏な形で今、開こうとしていたのである。
満州の地平線に、赤い星を冠した戦闘機が飛来する。
戦いは、まだ終わっていなかった。高倉が遺した「防波堤」が
その真価を問われるのは、これからであった。
歴史は、休息を許さない。 一人の男の死によって繋ぎ止められた平和は
次なる巨悪の出現によって、再び激しい火花を散らし始める。
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神尾 宥人
歴史・時代
時は天正。織田の侵攻によって落城した高遠城にて、武田家家臣・飯島善十郎は蔦と名乗る透波の手によって九死に一生を得る。主家を失って流浪の身となったふたりは、流れ着くように訪れた富山の城下で、ひょんなことから長瀬小太郎という若侍、そして尾上備前守氏綱という男と出会う。そして善十郎は氏綱の誘いにより、かの者の主家である飛州帰雲城主・内ヶ島兵庫頭氏理のもとに仕官することとする。
峻厳な山々に守られ、四代百二十年の歴史を築いてきた内ヶ島家。その元で善十郎は、若武者たちに槍を指南しながら、穏やかな日々を過ごす。しかしそんな辺境の小国にも、乱世の荒波はひたひたと忍び寄ってきていた……
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
第三次元寇 迎撃九州防衛戦
みにみ
歴史・時代
史実で弱体化したはずの元帝国が、強力な統治を維持し続け、戦国時代の日本へ三度目の侵攻を開始。この未曾有の国難に対し、織田信長を中心に戦国大名たちが「強制停戦」を余儀なくされ、日本初の「連合国軍」として立ち向かう架空戦記。
未来を見た山本五十六、帝国を勝利へ導く
たか
歴史・時代
1928年12月10日の空母赤城艦長の就任式終了後、赤城の甲板に立ち夕暮れを見てた時だった。ふと立ちくらみのような眩暈が起きた瞬間、山本五十六「それ」を見た。 燃え上がる広島と長崎、硫黄島で散る歩兵、ミッドウェーで沈む空母、そして1943年ブーゲンビル島上空で戦死した事…… あまりに酷い光景に五十六は倒れそうになった、「これは夢ではない……現実、いやこれは未来か」 その夜、山本五十六は日記に記した。 【我、帝国の敗北を見たり。未来を変えねば、祖国は滅ぶ】
憂国の艦隊
みにみ
歴史・時代
1936年2月26日 東京にて二二六事件が発生 首謀した陸軍青年将校らは捕縛されるも
その考えは日本陸軍だけではなく海軍にも広がっていた
その頃、ライバルの消えた吉田善吾連合艦隊司令長官を筆頭とする連合艦隊司令部は南進論を展開し有利に進めていた
これに異議を呈したが連合艦隊司令部から駆逐艦長に飛ばされたのが主人公である菅野峯昌大佐である
彼は乗艦した試製嚮導駆逐艦眞風の乗員たちとともに翌年の連合艦隊演習で連合艦隊司令部ごと日本海軍の誇りである長門を物理的に撃沈せしめようとする 長門撃沈は成功するのか この世界の日本が歩む道は
局地戦闘機 飛電の栄光と終焉
みにみ
歴史・時代
十四試局戦 後の三菱雷電J2Mとして知られるこの戦闘機は爆撃機用の火星エンジンを搭載したため胴体直径の増加、前方視界不良などが続いたいわば少し残念な機体である この十四試局戦計画に地方の無名メーカーが参加、雷電を超える高性能機が誕生し、零戦の後継として太平洋戦線を駆ける これは設計者、搭乗員の熱く短い6年間を描いた物語だ