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決戦 対ソ邀撃作戦
国体の定義
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一九四五年、八月二十一日。満州の広大な平原を包んでいたのは
あまりにも不気味な、そしてあまりにも脆い静寂であった。
六日前の正午、ラジオから流れた陛下の御声は
多くの国民にとって、そして戦地の最前線にいた兵士たちにとっても
長く苦しい悪夢の終わりを意味していた。
武器を置き、故郷へ帰る準備を始める。誰もが、その希望を疑わなかった。
しかし、北の国境線、ハイラル付近に展開していた守備隊の少年兵
佐藤一等兵の目の前に広がっていたのは、平和の夜明けではなく、再び幕を開けた地獄の光景であった。
「……嘘だ。終わったはずじゃないか」
佐藤は、泥にまみれた塹壕の中で、震える手で九九式短小銃を握りしめていた。
彼はまだ十七歳。郷里の秋田で、母が作ってくれる
握り飯の味を思い出しながら、ようやく戦争が終わったのだと
自分に言い聞かせ、涙を拭ったばかりだった。
だが、目の前の地平線を埋め尽くしているのは、逃れようのない死の鉄塊であった。
午前五時、静寂を切り裂いたのは、ソ連軍の数千門に及ぶ
火砲による猛烈な準備射撃だった。日ソ中立条約という
外交上の約束事が記された紙切れは、ソ連軍の機甲師団が吐き出す黒煙と
T-34-85戦車の巨大な無限軌道の下で、無惨に踏みつぶされていった。
空を覆うのは、昨日のような夏の青空ではなく
着弾の衝撃で巻き上げられた土砂と、燃え盛る草原の煙だ。
「佐藤! ぼさっとするな! 伏せろ!」
古参の伍長の声が響くと同時に、佐藤のすぐ近くで大地が爆発した。
百五十二ミリ榴弾の衝撃は、人間の鼓膜を容赦なく破壊し、内臓を揺さぶる。
佐藤は耳鳴りの中で、昨日まで同じように平和を夢見ていた
戦友たちが、一瞬にして肉塊へと変わる様を見た。
「なぜだ……。和平が成ったのではなかったのか。
なぜ、昨日までと同じ地獄が繰り返されるのか。
俺たちは、何のためにまだここで血を流さなければならないんだ……」
佐藤の独白は、降り注ぐ砲弾の轟音にかき消された。
ソ連第十六軍、機甲三個師団という圧倒的な物量が
防衛線の崩壊を狙って突き進んでくる。
「敵戦車、距離八百! 一式四十七ミリ速射砲、放て!」
指揮官の怒号と共に、日本軍の対戦車砲が火を噴いた。
しかし、その乾いた発射音は、押し寄せる
T-34のエンジン音にかき消されてしまう。
佐藤は、必死に砲を操作する砲兵たちの姿を凝視した。
四十七ミリ砲弾が、先頭のT-34の前面装甲に直撃する。
火花が散り、金属が擦れる嫌な音が響いた。だが、次の瞬間、佐藤は絶望に包まれた。
弾かれたのだ。
T-34の傾斜装甲は、日本軍が誇る速射砲の弾丸を
まるで子供の玩具のように弾き飛ばした。
独ソ戦の盾と矛のシーソーゲームで研ぎ澄まされたその車体は高初速76㎜砲ですら弾く
ソ連軍の戦車は速度を緩めることなく黒煙を吐き出しながら突き進んでくる。
そして、その八十五ミリ砲がゆっくりと旋回し、一式速射砲の陣地を捉えた。
閃光。爆発。
佐藤の目の前で、対戦車砲は砲身ごとひん曲がり
操作していた兵士たちは鉄屑と共に空へ舞った。圧倒的な物量の差。
それは、もはや個人の勇気や戦術で埋められるレベルを超えていた。
ソ連軍は、日本軍が武装解除の準備を進めている隙を突き
無防備な背中を深々と突き刺したのである。
同じ頃、大本営の地下会議室では、古賀峯一連合艦隊司令長官が
届けられた電文を握り潰していた。
彼の顔は怒りで赤黒く染まり、その瞳には冷徹な殺気が宿っていた。
「スターリンめ……。宣戦布告もなしに
中立条約をこれほど厚顔無恥に破るとは。高倉君がワシントンで
自らの首を差し出す覚悟で繋いだ平和の幕開けを、あの赤い悪魔に汚させてたまるか!」
古賀の声は、地下室の壁に反射して重く響いた。
周囲の幕僚たちは、あまりの剣幕に息を呑んでいた。高倉が命を懸けて守った
「国体」とは、単なる天皇制の維持ではない。
それは、日本という国が、日本人の手で存続し続けるという
民族の魂そのものだった。それをソ連の共産主義という暴力で
塗り潰されることは、高倉の死を無意味にすることと同義であった。
古賀は傍らに立つ参謀に、鋭い視線を向けた。
「日露戦争の延長戦というわけか。かつて東郷元帥がバルチック艦隊を撃滅した時
我々はこの国を守り抜いた。今回も同じだ。米英との戦いは終わった。
だが、国を盗もうとする賊に対する戦いは、今この瞬間から始まったのだ」
参謀の一人が、懸念を口にする。
「しかし長官、現状の兵力では満州を維持するのは困難です。
関東軍の主力は南方に引き抜かれ、残っているのは装備も不十分な新設師団ばかり。
このままでは、一週間も持たずに全土が蹂躙されます」
「分かっている。だからこそ、戦略的な後退が必要だ」
古賀は机上の地図を指で叩いた。
「満州全域を守ろうとすれば、すべてを失う。兵力を集中し
敵の進撃速度を削ぎ、重要な拠点だけを死守する。そして……この火の手は
必ず北海道にも及ぶ。北部軍管区に対し、最高度の警戒命令を出せ。
北海道への進出命令が下る可能性を伝え
全軍管区に対ソ戦の勃発を通達するのだ。いいか、一刻の猶予もないぞ」
古賀の言葉には、高倉から託された
「日本を救う」という執念が宿っていた。
翌八月二十二日。事態はさらに悪化した。 ハイラル
そして満州各地の第一防衛線は、ソ連軍の圧倒的な機甲戦力の前に次々と突破された。
関東軍司令部は、もはや全線の維持は不可能と判断し
後方の拠点へと下がる「戦略的後退」を指示した。
佐藤一等兵もまた、泥濘と血に染まった草原を、必死の思いで走っていた。
背後からはソ連軍の追撃が迫っている。
退却する兵士たちの長い列は、空からの格好の標的となった。
空を切り裂くような金属音と共に、ソ連軍のYak9戦闘機が飛来した。
翼を傾け、地上の兵士たちに向けて機銃を掃射する。
大地が耕されるように土煙が上がり
佐藤の横を走っていた兵士が、人形のように転がった。
「くそっ! 隠れる場所がない! 撃たれる!」
佐藤が絶望し、地面に這いつくばったその時だった。
遥か南の空から、複数の銀色の光が矢のような速さで迫ってきた。
それは、ソ連軍の戦闘機とは明らかに異なる、力強いエンジン音を響かせていた。
朝鮮半島、京城周辺の基地に、対米決戦用として秘匿
温存されていた最新鋭機。中島飛行機が生んだ傑作、四式戦闘機「疾風」である。
「……あれは、味方か?」
佐藤が顔を上げると、疾風の編隊は一気に高度を下げ
Yak9の背後を捉えた。疾風の機首から
二十ミリ機銃が火を噴く。ソ連軍の戦闘機の一機が
翼をもぎ取られるようにして爆発し、黒煙を上げながら墜落していった。
疾風のコックピットの中で、若き中尉は操縦桿を握り締め、無線機に向かって叫んだ。
「こちら、第一編隊! 露助がどうした! 俺たちが、この国の壁になるんだ!
皆が命を懸けて作ったこの時間を、一秒たりとも渡すものか!
全機、突撃! 敵機を一人残らず叩き落とせ!」
疾風とYak-9。両機の性能は拮抗していた。Yak9は軽量で旋回性能に優れ
低空での格闘戦を得意とする。対する疾風は、二千馬力の「ハ42」エンジンを搭載し
速度、上昇力、火力、そして防御力のすべてにおいて
これまでの日本軍機を凌駕する万能戦闘機であった。
空中で、火花を散らすような巴戦が始まった。疾風は卓越した上昇力を活かし
上方からソ連機を急襲する。ソ連のパイロットもまた
ドイツ軍との激戦を潜り抜けてきた熟練者たちであったが
日本軍のパイロットたちの目には、単なる勝利以上の、狂気にも似た決意が宿っていた。
「一機仕留めたぞ! 次だ、次の獲物を持ってこい!
露助ども、俺がやってやる! この空は、まだ日本の空だ!」
雲を突き抜け、弾丸が交錯する。疾風の放つ二十ミリ弾が
Yak-9のコクピットを直撃し、敵機を火達磨に変える。
佐藤は、地上からその光景を呆然と見上げていた。
絶望の淵にいた彼にとって、その銀翼の輝きは、神が遣わした救いの手のように見えた。
しかし、空での一時の勝利も、地上の圧倒的な劣勢を覆すには至らなかった。
ソ連軍の戦車部隊は、空の乱戦を尻目に、着実に満州の奥深くへと侵攻を続けていた。
大本営には、刻一刻と悲劇的な報告が届き続けていた。
「関東軍第一防衛線、完全に崩壊。残存部隊は奉天方面へ撤退中」
「北満州における通信、各所で途絶。ソ連軍の進撃速度、予想を大幅に上回る」
「北部軍管区より報告。稚内沖にソ連艦隊と思われる艦影を確認」
古賀は、作戦室の大きな地図を睨みつけ、拳を震わせていた。
「停戦の喜びは、一週間も持たなかったか。
米国との和平交渉が進む一方で、これほどまでに
露骨な侵略を許すことになるとは……。
高倉君、君ならどうする。君なら、この絶望的な盤面をどう動かす?」
古賀の脳裏には、ワシントンへ発つ直前の高倉の言葉が蘇っていた。
『古賀さん、もし米国との交渉が成ったとしても、
それは真の平和ではありません。北には、常に獲物を狙う熊がいます。
彼らは、我々が弱った瞬間、必ず牙を剥く。
その時こそ、日本人が自らの手で、自らの国を守る覚悟が問われるのです』
「……そうだったな、高倉君。君はすべてを見越していた。
外交で国を守り、最後は武人の意地で、この大地を死守する。
それが君の描いたシナリオだったのだな」
古賀はゆっくりと顔を上げ、周囲の幕僚たちを見渡した。その瞳には、もはや迷いはなかった。
「全部署に通達。これより『北防作戦』を発動する。
大湊に集結可能なすべての艦艇、および航空隊を、直ちに北海道方面へ展開させよ。
また、大陸へ向かう増援部隊の輸送に関し、米軍との最終調整を急げ。
高倉提督が切り開いた『希望の道』を、我々の血で舗装し直すのだ!」
会議室に、再び活気が戻った。それは敗戦の絶望ではなく
守るべきもののために命を懸ける、武人の活気であった。
しかし、戦火は非情だった。 満州の草原では、佐藤一等兵のような少年たちが
今この瞬間も、迫り来るソ連軍の戦車を前に、手榴弾を抱えて飛び込もうとしていた。
彼らにとって、高倉が繋いだ平和とは、まだ見ぬ幻想に過ぎなかった。
八月二十二日の夕暮れ。 真っ赤に染まった満州の夕日は、
まるで流された兵士たちの血の色のようだった。
ソ連軍の侵攻は止まることを知らず、日本の北半分は、再び戦火の渦へと飲み込まれていった。
「お母ちゃん……」
佐藤は、退却の列の中で、消え入りそうな声で呟いた。
彼の目の前には、どこまでも続く暗い夜と、その向こうで燃え盛る
戦場の灯りが見えていた。平和への道のりは、
高倉が考えた以上に、そして誰もが予想した以上に、遠く、険しいものであった。
だが、この「赤き決壊」こそが、戦後日本の精神を決定づける
最も過酷で、最も崇高な戦いの始まりであった。
古賀長官は、執務室の窓から見える東京の街並みを眺めた。
市民たちは、まだ対ソ戦の真の恐ろしさを知らない。
彼らにとって、戦争は八月十五日に終わったはずなのだ。
「守り抜かなければならない。この静かな街並みを
そして人々の笑顔を。たとえ、歴史が我々をどう評価しようとも、我々は最後まで戦い抜く」
古賀の決意は、高倉義人という一人の勇士の魂と共鳴し
北の大地へと向かう将兵たちの心に、静かに、しかし確実に火を灯し始めていた。
物語は、満州の平原から、極北の荒野へとその舞台を移そうとしていた。
ソ連軍の次なる標的は、北海道。 日本という国の屋台骨を支える北の要塞を巡り
人類史上類を見ない、壮絶な防衛戦が幕を開けようとしていたのである。
戦艦武蔵が沖縄で耐え抜いたように。 高倉がワシントンで戦い抜いたように。
今度は、残された一億の国民と将兵が、その真価を問われる時が来た。
停戦の喜びは瞬時に消し飛び、再び日本は戦火の渦へと引き戻された。
だが、その渦の中で、日本人はかつてないほどに強く、一つにまとまろうとしていた。
高倉義人が遺した「国体」という名の定義が
今、戦場という最も過酷な試練の中で、真の形を見せようとしている
一九四五年、八月の終わり。 日本海を渡る風は、次第に冷たさを増していた。
それは、これから始まる長い冬の訪れを告げると共に、新しい日本の、血塗られた
しかし気高い誕生を告げる風でもあった
あまりにも不気味な、そしてあまりにも脆い静寂であった。
六日前の正午、ラジオから流れた陛下の御声は
多くの国民にとって、そして戦地の最前線にいた兵士たちにとっても
長く苦しい悪夢の終わりを意味していた。
武器を置き、故郷へ帰る準備を始める。誰もが、その希望を疑わなかった。
しかし、北の国境線、ハイラル付近に展開していた守備隊の少年兵
佐藤一等兵の目の前に広がっていたのは、平和の夜明けではなく、再び幕を開けた地獄の光景であった。
「……嘘だ。終わったはずじゃないか」
佐藤は、泥にまみれた塹壕の中で、震える手で九九式短小銃を握りしめていた。
彼はまだ十七歳。郷里の秋田で、母が作ってくれる
握り飯の味を思い出しながら、ようやく戦争が終わったのだと
自分に言い聞かせ、涙を拭ったばかりだった。
だが、目の前の地平線を埋め尽くしているのは、逃れようのない死の鉄塊であった。
午前五時、静寂を切り裂いたのは、ソ連軍の数千門に及ぶ
火砲による猛烈な準備射撃だった。日ソ中立条約という
外交上の約束事が記された紙切れは、ソ連軍の機甲師団が吐き出す黒煙と
T-34-85戦車の巨大な無限軌道の下で、無惨に踏みつぶされていった。
空を覆うのは、昨日のような夏の青空ではなく
着弾の衝撃で巻き上げられた土砂と、燃え盛る草原の煙だ。
「佐藤! ぼさっとするな! 伏せろ!」
古参の伍長の声が響くと同時に、佐藤のすぐ近くで大地が爆発した。
百五十二ミリ榴弾の衝撃は、人間の鼓膜を容赦なく破壊し、内臓を揺さぶる。
佐藤は耳鳴りの中で、昨日まで同じように平和を夢見ていた
戦友たちが、一瞬にして肉塊へと変わる様を見た。
「なぜだ……。和平が成ったのではなかったのか。
なぜ、昨日までと同じ地獄が繰り返されるのか。
俺たちは、何のためにまだここで血を流さなければならないんだ……」
佐藤の独白は、降り注ぐ砲弾の轟音にかき消された。
ソ連第十六軍、機甲三個師団という圧倒的な物量が
防衛線の崩壊を狙って突き進んでくる。
「敵戦車、距離八百! 一式四十七ミリ速射砲、放て!」
指揮官の怒号と共に、日本軍の対戦車砲が火を噴いた。
しかし、その乾いた発射音は、押し寄せる
T-34のエンジン音にかき消されてしまう。
佐藤は、必死に砲を操作する砲兵たちの姿を凝視した。
四十七ミリ砲弾が、先頭のT-34の前面装甲に直撃する。
火花が散り、金属が擦れる嫌な音が響いた。だが、次の瞬間、佐藤は絶望に包まれた。
弾かれたのだ。
T-34の傾斜装甲は、日本軍が誇る速射砲の弾丸を
まるで子供の玩具のように弾き飛ばした。
独ソ戦の盾と矛のシーソーゲームで研ぎ澄まされたその車体は高初速76㎜砲ですら弾く
ソ連軍の戦車は速度を緩めることなく黒煙を吐き出しながら突き進んでくる。
そして、その八十五ミリ砲がゆっくりと旋回し、一式速射砲の陣地を捉えた。
閃光。爆発。
佐藤の目の前で、対戦車砲は砲身ごとひん曲がり
操作していた兵士たちは鉄屑と共に空へ舞った。圧倒的な物量の差。
それは、もはや個人の勇気や戦術で埋められるレベルを超えていた。
ソ連軍は、日本軍が武装解除の準備を進めている隙を突き
無防備な背中を深々と突き刺したのである。
同じ頃、大本営の地下会議室では、古賀峯一連合艦隊司令長官が
届けられた電文を握り潰していた。
彼の顔は怒りで赤黒く染まり、その瞳には冷徹な殺気が宿っていた。
「スターリンめ……。宣戦布告もなしに
中立条約をこれほど厚顔無恥に破るとは。高倉君がワシントンで
自らの首を差し出す覚悟で繋いだ平和の幕開けを、あの赤い悪魔に汚させてたまるか!」
古賀の声は、地下室の壁に反射して重く響いた。
周囲の幕僚たちは、あまりの剣幕に息を呑んでいた。高倉が命を懸けて守った
「国体」とは、単なる天皇制の維持ではない。
それは、日本という国が、日本人の手で存続し続けるという
民族の魂そのものだった。それをソ連の共産主義という暴力で
塗り潰されることは、高倉の死を無意味にすることと同義であった。
古賀は傍らに立つ参謀に、鋭い視線を向けた。
「日露戦争の延長戦というわけか。かつて東郷元帥がバルチック艦隊を撃滅した時
我々はこの国を守り抜いた。今回も同じだ。米英との戦いは終わった。
だが、国を盗もうとする賊に対する戦いは、今この瞬間から始まったのだ」
参謀の一人が、懸念を口にする。
「しかし長官、現状の兵力では満州を維持するのは困難です。
関東軍の主力は南方に引き抜かれ、残っているのは装備も不十分な新設師団ばかり。
このままでは、一週間も持たずに全土が蹂躙されます」
「分かっている。だからこそ、戦略的な後退が必要だ」
古賀は机上の地図を指で叩いた。
「満州全域を守ろうとすれば、すべてを失う。兵力を集中し
敵の進撃速度を削ぎ、重要な拠点だけを死守する。そして……この火の手は
必ず北海道にも及ぶ。北部軍管区に対し、最高度の警戒命令を出せ。
北海道への進出命令が下る可能性を伝え
全軍管区に対ソ戦の勃発を通達するのだ。いいか、一刻の猶予もないぞ」
古賀の言葉には、高倉から託された
「日本を救う」という執念が宿っていた。
翌八月二十二日。事態はさらに悪化した。 ハイラル
そして満州各地の第一防衛線は、ソ連軍の圧倒的な機甲戦力の前に次々と突破された。
関東軍司令部は、もはや全線の維持は不可能と判断し
後方の拠点へと下がる「戦略的後退」を指示した。
佐藤一等兵もまた、泥濘と血に染まった草原を、必死の思いで走っていた。
背後からはソ連軍の追撃が迫っている。
退却する兵士たちの長い列は、空からの格好の標的となった。
空を切り裂くような金属音と共に、ソ連軍のYak9戦闘機が飛来した。
翼を傾け、地上の兵士たちに向けて機銃を掃射する。
大地が耕されるように土煙が上がり
佐藤の横を走っていた兵士が、人形のように転がった。
「くそっ! 隠れる場所がない! 撃たれる!」
佐藤が絶望し、地面に這いつくばったその時だった。
遥か南の空から、複数の銀色の光が矢のような速さで迫ってきた。
それは、ソ連軍の戦闘機とは明らかに異なる、力強いエンジン音を響かせていた。
朝鮮半島、京城周辺の基地に、対米決戦用として秘匿
温存されていた最新鋭機。中島飛行機が生んだ傑作、四式戦闘機「疾風」である。
「……あれは、味方か?」
佐藤が顔を上げると、疾風の編隊は一気に高度を下げ
Yak9の背後を捉えた。疾風の機首から
二十ミリ機銃が火を噴く。ソ連軍の戦闘機の一機が
翼をもぎ取られるようにして爆発し、黒煙を上げながら墜落していった。
疾風のコックピットの中で、若き中尉は操縦桿を握り締め、無線機に向かって叫んだ。
「こちら、第一編隊! 露助がどうした! 俺たちが、この国の壁になるんだ!
皆が命を懸けて作ったこの時間を、一秒たりとも渡すものか!
全機、突撃! 敵機を一人残らず叩き落とせ!」
疾風とYak-9。両機の性能は拮抗していた。Yak9は軽量で旋回性能に優れ
低空での格闘戦を得意とする。対する疾風は、二千馬力の「ハ42」エンジンを搭載し
速度、上昇力、火力、そして防御力のすべてにおいて
これまでの日本軍機を凌駕する万能戦闘機であった。
空中で、火花を散らすような巴戦が始まった。疾風は卓越した上昇力を活かし
上方からソ連機を急襲する。ソ連のパイロットもまた
ドイツ軍との激戦を潜り抜けてきた熟練者たちであったが
日本軍のパイロットたちの目には、単なる勝利以上の、狂気にも似た決意が宿っていた。
「一機仕留めたぞ! 次だ、次の獲物を持ってこい!
露助ども、俺がやってやる! この空は、まだ日本の空だ!」
雲を突き抜け、弾丸が交錯する。疾風の放つ二十ミリ弾が
Yak-9のコクピットを直撃し、敵機を火達磨に変える。
佐藤は、地上からその光景を呆然と見上げていた。
絶望の淵にいた彼にとって、その銀翼の輝きは、神が遣わした救いの手のように見えた。
しかし、空での一時の勝利も、地上の圧倒的な劣勢を覆すには至らなかった。
ソ連軍の戦車部隊は、空の乱戦を尻目に、着実に満州の奥深くへと侵攻を続けていた。
大本営には、刻一刻と悲劇的な報告が届き続けていた。
「関東軍第一防衛線、完全に崩壊。残存部隊は奉天方面へ撤退中」
「北満州における通信、各所で途絶。ソ連軍の進撃速度、予想を大幅に上回る」
「北部軍管区より報告。稚内沖にソ連艦隊と思われる艦影を確認」
古賀は、作戦室の大きな地図を睨みつけ、拳を震わせていた。
「停戦の喜びは、一週間も持たなかったか。
米国との和平交渉が進む一方で、これほどまでに
露骨な侵略を許すことになるとは……。
高倉君、君ならどうする。君なら、この絶望的な盤面をどう動かす?」
古賀の脳裏には、ワシントンへ発つ直前の高倉の言葉が蘇っていた。
『古賀さん、もし米国との交渉が成ったとしても、
それは真の平和ではありません。北には、常に獲物を狙う熊がいます。
彼らは、我々が弱った瞬間、必ず牙を剥く。
その時こそ、日本人が自らの手で、自らの国を守る覚悟が問われるのです』
「……そうだったな、高倉君。君はすべてを見越していた。
外交で国を守り、最後は武人の意地で、この大地を死守する。
それが君の描いたシナリオだったのだな」
古賀はゆっくりと顔を上げ、周囲の幕僚たちを見渡した。その瞳には、もはや迷いはなかった。
「全部署に通達。これより『北防作戦』を発動する。
大湊に集結可能なすべての艦艇、および航空隊を、直ちに北海道方面へ展開させよ。
また、大陸へ向かう増援部隊の輸送に関し、米軍との最終調整を急げ。
高倉提督が切り開いた『希望の道』を、我々の血で舗装し直すのだ!」
会議室に、再び活気が戻った。それは敗戦の絶望ではなく
守るべきもののために命を懸ける、武人の活気であった。
しかし、戦火は非情だった。 満州の草原では、佐藤一等兵のような少年たちが
今この瞬間も、迫り来るソ連軍の戦車を前に、手榴弾を抱えて飛び込もうとしていた。
彼らにとって、高倉が繋いだ平和とは、まだ見ぬ幻想に過ぎなかった。
八月二十二日の夕暮れ。 真っ赤に染まった満州の夕日は、
まるで流された兵士たちの血の色のようだった。
ソ連軍の侵攻は止まることを知らず、日本の北半分は、再び戦火の渦へと飲み込まれていった。
「お母ちゃん……」
佐藤は、退却の列の中で、消え入りそうな声で呟いた。
彼の目の前には、どこまでも続く暗い夜と、その向こうで燃え盛る
戦場の灯りが見えていた。平和への道のりは、
高倉が考えた以上に、そして誰もが予想した以上に、遠く、険しいものであった。
だが、この「赤き決壊」こそが、戦後日本の精神を決定づける
最も過酷で、最も崇高な戦いの始まりであった。
古賀長官は、執務室の窓から見える東京の街並みを眺めた。
市民たちは、まだ対ソ戦の真の恐ろしさを知らない。
彼らにとって、戦争は八月十五日に終わったはずなのだ。
「守り抜かなければならない。この静かな街並みを
そして人々の笑顔を。たとえ、歴史が我々をどう評価しようとも、我々は最後まで戦い抜く」
古賀の決意は、高倉義人という一人の勇士の魂と共鳴し
北の大地へと向かう将兵たちの心に、静かに、しかし確実に火を灯し始めていた。
物語は、満州の平原から、極北の荒野へとその舞台を移そうとしていた。
ソ連軍の次なる標的は、北海道。 日本という国の屋台骨を支える北の要塞を巡り
人類史上類を見ない、壮絶な防衛戦が幕を開けようとしていたのである。
戦艦武蔵が沖縄で耐え抜いたように。 高倉がワシントンで戦い抜いたように。
今度は、残された一億の国民と将兵が、その真価を問われる時が来た。
停戦の喜びは瞬時に消し飛び、再び日本は戦火の渦へと引き戻された。
だが、その渦の中で、日本人はかつてないほどに強く、一つにまとまろうとしていた。
高倉義人が遺した「国体」という名の定義が
今、戦場という最も過酷な試練の中で、真の形を見せようとしている
一九四五年、八月の終わり。 日本海を渡る風は、次第に冷たさを増していた。
それは、これから始まる長い冬の訪れを告げると共に、新しい日本の、血塗られた
しかし気高い誕生を告げる風でもあった
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【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
大和型重装甲空母
ypaaaaaaa
歴史・時代
1937年10月にアメリカ海軍は日本海軍が”60000トンを超す巨大戦艦”を”4隻”建造しているという情報を掴んだ。海軍はすぐに対抗策を講じてサウスダコタ級戦艦に続いてアイオワ級戦艦を4隻建造することとした。そして1941年12月。日米は戦端を開いたが戦列に加わっていたのは巨大戦艦ではなく、”巨大空母”であった。
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