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しおりを挟む直帰します、と連絡を入れたものの、自分が営業車に乗って出ていたことに気づいた匡史は、夕方五時を過ぎたころ、仕方なく会社に戻ってきた。オフィスには上がらずに受付に鍵を預けて帰ろうと思い、ロビーに入る。そこで匡史は、おつかれさま、という爽やかな声を耳にした。反射的に振り返る。
「おつかれさまです、池上課長」
複雑な感情を抱く相手だとは思いつつも、匡史は笑顔で言葉を返した。じゃあ、と自分の横を過ぎ去ろうとする池上から、ふわりと甘い香りが漂う。鈴蘭のような清楚な香りに、匡史の中の血がざわざわと騒めくように波立った気がした。興奮のような熱さに、思わず匡史が池上の袖を掴んでしまう。驚いた表情の池上がこちらを窺う。
「……金丸くん? どうか、した?」
池上がこちらを心配そうに見つめる。匡史は咄嗟に、いえ、と池上から視線を外してから口を開いた。
「え、あ、えっと……まだ時間早いですし、同僚たちと歓迎会みたいなこと、させてもらえません?」
自分でもどうして池上を引き留めたのかわからなくて、適当なことを言う。けれど、今感じたこの香りがとても気になるのだ。
よく、オメガからはフェロモンの香りがすると聞く。けれど、全人口の数パーセントしかいないというオメガはアルファ以上に珍しい性だ。実際、匡史が関わったことのあるオメガは一人だけ――アルファの祖父の番であるもう一人の祖父だけだ。池上から漂った香りを嗅いだ瞬間、祖父と居る時だけフルーツのような甘い香りがしていた彼をなぜか思い出した。池上は仕事も出来るし、颯爽とした見た目から分かるほど、間違いなくアルファだ。アルファの自分がアルファのフェロモンを感じるなんて、そんなことはあり得ない。
「これから?」
池上がそう聞きながら自身の腕時計を見やる。
「ちょっと急ですか、ね?」
匡史は苦く笑って池上を見つめた。困った顔をしたままの池上は、それを一瞬見てから視線を外して、小さくため息を吐いた。
「二時間だけなら」
池上の言葉に匡史は、やった、と微笑み、すぐにスマホを取り出して同僚たちにメッセージを送った。『池上課長と飲むよ。興味ある奴はすぐに[炉端屋]まで』という、純粋な歓迎会の誘いとは違うものだったが、匡史はそんなものはおくびにも出さず笑顔で、行きましょうか、と池上を促した。
すすきのにあるビルのひとつに入ると、エレベーター前で安藤が待っていた。こっちの方に居たから直帰にした、という安藤と連れ立って三階にある馴染んだ居酒屋に入ると、三十分もしないうちに、営業や総務など数人が集まった。
あえて池上の隣に席を取ってみたが、先ほどの香りは全くしない。やっぱり池上はアルファで間違いないのだろうし、アルファから香りがするなんて、あり得ないことだったのだろう。こちらの勘違いか、あの場に残っていた誰かの残り香なのかもしれないと思うと、匡史は、途端にこの会から興味を失っていく。
けれど集まった同僚たちはそうではないようだ。どういう意図でここまで来たのかは分からないが、池上に興味がある奴らだ。次第に話題は池上のことになっていった。
「ぶっちゃけ、池上課長って、どうしてこっちに異動してきたんすか?」
「どうしてって……ただの異動命令だよ」
穏やかに受け止めて言葉を返した池上に、同僚は、でもー、と軽く絡み始めた。
「オレ本社からわざわざ異動してくる人、見たことないんすよ」
「多分、それは十年勤めて一度も出向に行かなかったからじゃないかな。ずっと東京離れたくなかったから、僕。そのツケかもね」
「じゃあ、余計にこんな所、来たくなかったんじゃないですか? 課長はアルファだし、本社でもどんどん出世できますよね」
言葉にはしていないがその語尾に、また異動すればいいのに、と言葉が繋がっているように聞こえた。自分よりモテる池上が邪魔だと感じていた匡史も同じ気持ちだったから、そう聞こえたのかもしれない。
「いいところだと思うよ。どうせ異動するなら遠くへと思って希望だしたのは僕だから……それに、アルファだからってなんでも上手くいく訳では無いよ」
池上はそれだけ言うと、ちょっとごめん、と言って席を離れ、お手洗いへと向かった。その背中を同僚たちと眺め、視界から消えた頃安藤が、金丸、と隣に座る匡史を呼んだ。
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