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しおりを挟むどんなに気が重かろうと、出社したくなかろうと、誰にも平等に朝はやってくる。そして、仕事も待っている。
匡史はオフィスの前で、そろりと中を覗いた。視線をぐるりと一周させ、課長のデスクで止める。まだそこは空だった。今のうちに朝の支度を済ませて、すぐさま外回りへ出かけてしまおう。そうすれば池上と顔を合わせずに済む――そう考えた匡史は颯爽とオフィスへ入った。おはよう、と言う優子の声に適当に返事をして自分のデスクにバタバタと荷物を置く。手早くパソコンを立ち上げると、ファックスとメールの確認をした。
「うーっす、金丸。昨日はお疲れー」
そこへ安藤がやってきて、隣でゆったりと支度を始めた。
「お疲れ。悪かったな、途中で抜けて」
「いやー、いいけど。どうだった? あの後」
ちらりと横目で確認した安藤の顔はにやにやと楽しそうだ。
「別に」
「ぶっちゃけ、やったの? あの人と」
安藤がパソコンに向かったまま聞く。匡史はその言葉に、やってない、と大きく返してしまった。周りの視線が集まるのを感じて、小さく咳払いをする。
「……やってねーよ、何にも」
嘘をついた。本当は、あの人の肌に触れたし、普段は見られないような艶めいた表情も見た。そして、自分自身もそれに興奮を覚えたし、思い出した今でさえドキドキする。けれど、安藤には言いたくなかった。これまでのように軽く口にしていいことではないように思えたのだ。同じ職場の上司だから、ということを抜いてもやっぱり話せない。
「ホントか? 池上課長、今日休みだっていうからてっきりそうだと思ったのに」
「休み?」
聞き返すと、ほら、と安藤が予定表を見上げる。ホワイトボードの池上の欄には『休み』のマグネットと『体調不良』の文字が並んでいた。
「瑛蒔の風邪、うつったかな?」
それとも、それを理由に匡史に会わないようにしたか……なんとなく後者なような気がして、匡史は益々気が滅入る。ため息をつくと、ホントに何もしてないの? と胡乱な目が匡史を見上げていた。
「あのなあ、いくらあの人がキレイで、つい手を貸したくなる不器用な人だとしても上司だぞ?」
「へえ……キレイで、手を貸したくなる人だと思ってんだ、金丸」
安藤が眇めた目で匡史を見やる。墓穴を掘ったと思った時には既に遅く、安藤はいいことを聞いたとばかりに楽しそうに立ち上がった。
「じゃ、また今度詳しく」
安藤は優子に、真田建設行きます、と伝えてそのままオフィスを出て行った。言葉を返そうと匡史もカバンを手に取り歩き出す。しかし、いくらも行かないところで主任に呼び止められた。
「金丸、二番に電話。滝上の石田さん」
なんてタイミングだよ、と思いながら安藤を追いかけるのを諦め、匡史はデスクの電話を取り上げた。
「はい、おまたせしました。金丸です」
『滝上の石田です。お世話になっております』
いつもの挨拶を繰り返して金丸は、どうかしましたか、と聞いた。前回滝上では部長相手に相当な失礼をぶちかましている。資料は捨ててもいい、なんてことも言ってきた。もう取り引きなどなくなるだろうと思っていたのだ。
『えっと、前回お話していたマンションの件なんですが、部長が大森さんにお任せしたいと』
「……はい?」
充分間を空けたくせに、更に聞き返した匡史に、電話の向こうの石田がくくっと喉を鳴らした。笑いを抑えているのだろう。
『ですから、例の六棟マンションをお願いします』
「本当ですか? だって、俺、資料捨てていいとまで言ったのに……」
『お詫びのようですよ。厚意で来てくれたのに勘違いして愚行に至ってしまった……部長の言葉です』
部長の方では、池上が体を使ってでも仕事を取りに来たと思ったのだろう。確かに縁のある池上を使って何か贔屓めいたものが生まれれば、と思ったのは間違いではない。こちらに全く非がないわけではないのだが先方がそう言ってくれているのなら、素直に受け取るのが一番なのだろう。
「分かりました。では、後日改めまして打ち合わせにお伺いします」
匡史の言葉に石田は、わかりました、と電話を切った。
「武田主任ー、滝上獲れましたー」
匡史が大声で伝えると、オフィスに残っていた同僚たちからどよめきが上がった。主任はガッツポーズで喜んでいる。その様子をどこか他人事めいた感じで見ながら、匡史は小さくため息を吐いた。ここに、いつも通りの池上が居たら、自分ももっと喜べるんだろうな、と無人のデスクを見つめる。池上らしく、キレイに片付いたデスクはなんだか寂しかった。
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