その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第四章

【第17話】噂が落とす影

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 亜矢香のささやかな決意をあざ笑うかのように、職場の空気はほんの少しずつ、けれど確実に変わっていった。

 亜矢香と、副社長である俊輔の間に何かある――そう思っているらしい視線が存在しているのを、静かだけれど確かに感じる。
 口にこそ出されないものの、誰かが囁いた後には亜矢香の名前が出るような、不自然な沈黙を何度も耳にした。
 そういった、かすかに肌が冷えるような「温度」は、想像以上に鋭く伝わってくるものであった。

 レジに立つたび、背中に目が付いているような気がした。
 たとえ誰も見ていなくても、自分が「特殊な立場の人間」として見られてしまっているような気がして、ならなかった。


 俊輔が来店した日、亜矢香は意識的に距離を取った。
 彼が窓際の席に座っているのを横目で確認しつつ、別のスタッフが接客するのを見守るだけ。

 ほんの数メートル。それだけの距離が、こんなにも遠く感じるなんて、以前は思わなかった。
 けれど、それでいい。
 きっと今は、こうするべきなのだ。

 自分にそう言い聞かせながらも、胸の奥には鈍い痛みを覚えていた。

 彼の手の温もり、髪の匂い。低く穏やかな声。
 それらは、思い出の中には確かに存在しているのに、現実の空気の中では少しずつ霞んで、遠くなっていく。

 本当は、俊輔に近づきたい。言葉を交わしたい。
 直に触れて、彼の感触を確かめたい――ふとした時に、亜矢香はそう願っていた。


 閉店の片付け後、休憩室で荷物をまとめていると、三好が声をかけてきた。

「桜田さん、今ちょっと話してもいい?」

 他に誰もいない空間で、彼女は静かに言った。
 その低めた声音に、亜矢香の胸の内に嫌な予感が走る。

「本社の人事から、桜田さんを人気店舗へ異動させたい、って話が来てたの知ってた?」
「……えっ?」

 思わず顔を上げた。

「先月から少しずつ話が進んでて、店長も私たちも前向きだったんだけど……急に保留になったらしいの」
「…………」

 亜矢香は、何も言えなかった。
 言葉を探そうとするたびに、胸が冷たく締めつけられる。

「……たぶん、関係ないってことは、ないんじゃないかと思って」

 三好の声は、あくまで優しかった。
 責めるでもなく、同情でもなく、ただ事実を伝えようと、慎重な響きで。

「本社の誰かが見たら、私情が絡んでるって考えるのかもしれない。特に、副社長さんの関係者がいるとしたら――ね」
「私、何か……悪いことをしてるんでしょうか」

 気づくと声が震えていた。
 三好は軽く首を横に振り、ほんの少しだけ苦い笑みを浮かべた。

「してないよ。ただ、立場的にやっぱり難しいんだと思う。同じ行動でも相手によって、良いとか悪いとかは変わっちゃうから」
「……そう、ですね」

 うつむいた亜矢香の手は、知らないうちにぎゅっと握りしめられていた。

 自分が俊輔に惹かれたのは、役職でも肩書きでもなく、彼自身の優しさに癒されたから。それは本当のことだ。
 けれど、現実の社会は、それだけでは通らないこともある。

 ――誰かを好きになるというのは、その「好きになった相手の人生も背負う」ということ。

 その事実を、今さらながらに思い知らされるようだった。


 夜風が吹きつける帰り道。
 街灯の光がアスファルトの上に、歩く亜矢香の影を長く落としていた。
 人気のない道で、その影はひとりきり、孤独な輪郭を描いているように見えた。

 ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
 画面を見ると、俊輔からのメッセージが二通。

【今日もお疲れさま。無理はしてない?】
【君に会いたい。けど、亜矢香さんのペースを大事にしたいから、無理は言わないよ】

 その一文を読んだ瞬間、目元がじわりと熱くなった。

 俊輔はきっと、何も気づいていないわけではないのだ。
 噂も、上層部の空気も、亜矢香の立場も全部、察している。その上で「急かさない」と言ってくれている。
 その優しさが、今は痛いほど心に沁みた。

 ――彼に守られるだけの恋ではなく、自分も彼を支えられるようになりたい。
 そう思っていたのに、現実はあまりに冷たくて、自分の無力さを突きつけられる。
 けれど、逃げてしまいたくはなかった。

 風に吹かれながら亜矢香は立ち止まり、スマートフォンの画面に指を滑らせる。
 返信の文面を何度も打っては消し、考えた末に、極力短く打ち込んだ。

【ありがとうございます。大丈夫です。ちゃんと頑張ります】

 送信ボタンを押した瞬間、心の奥に小さな灯がともる心地がした。
 それは、彼に向けた想いと、これからの自分への誓いのようでもあった。

 ――周りの噂や思惑がどうであれ、俊輔を信じている。そして信じ続ける。
 その気持ちだけは何があろうと、誰であろうと、揺らがせないつもりだった。
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