「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ

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04.限界

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 王城に通う日は、今や週に四度を超えていた。
 文書の提出だけでなく、使いの名目で資料の受け取りや調整役まで担うようになり、それもすべて、ティエリの「きみのほうが分かってるから」という一言で押しつけられたものだった。

 最近では彼の関心は、もっぱら屋敷に出入りする新しい令嬢に向けられている。
 エリサ・ランベール伯爵令嬢。名家の出身で、派手な装いと堂々とした態度が特徴の女性だ。
 気に入った男には積極的に声をかけ、誰よりも早くその隣を確保するのが常だった。
 彼女は、絢爛なドレスに身を包み、甘い香水を振りまきながら、誰の目もはばからずティエリに笑いかけていた。
 正式な婚約者であるクラリーヌのことなど、歯牙にもかけない。

「まあ、子爵家って几帳面なのね。……でも、あまり堅いばかりだと、男の人は息が詰まるものよ?」

 微笑みは優雅、声も穏やか。
 けれど、クラリーヌに向けられた悪意は明白だった。
 ティエリはその言葉に何の反応も示さず、ただ曖昧に笑っただけだった。

 そして、クラリーヌの負担はさらに増していく。
 実務に加えて、今ではモンテクリュ侯爵夫人から「侯爵家の未来の夫人として、相応の品格を備えるように」と、礼儀作法・舞踏・刺繍・音楽・会話術に至るまで、日々の稽古が課されていた。

「できて当然よ。うちの名を継ぐ人間に、田舎の粗野なやり方は通用しませんから」

 朝は書類、昼は稽古、夜は報告書の清書と答礼文の下書き。
 食事をとる時間すらろくに確保できず、それでも誰も、彼女をよくやっているとは認めなかった。

 そんなある日、王城の廊下でクラリーヌが控えの間から出てきたとき、エリサが偶然通りかかった。
 彼女はティエリの使いで簡単な手紙を届けたらしく、小さな封筒だけを手にしている。

「あら、あなたもまだお勤め中? まるで使用人ね。……ううん、使用人ならまだ休憩があるかしら」

 悪びれた様子もなくそう告げると、エリサは後ろから現れた黒髪の騎士にふと笑いかけた。

「お疲れさま、騎士さま。私、このあとお茶に行くところなの。ご一緒に──」

 「申し訳ありません」と、彼は一言だけ返し、ぴたりと一礼した。
 その声音はあくまで丁寧だったが、会話を続ける隙すら与えない、完璧な断絶だった。

 エリサのまつげがわずかに揺れる。自分がかわされることなど滅多にない――その事実に、わずかな動揺が走った。

 そのまま彼はクラリーヌのほうへと歩を進め、封筒を持ち直している彼女に静かに声をかける。

「重たくはありませんか?」

「……いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

 クラリーヌはわずかに首を振り、礼を述べた。
 そのやり取りの間、エリサの視線がじりじりと刺さるように注がれているのを、クラリーヌは背中越しに感じ取る。

 笑いかけた相手が自分ではなく、彼女を気遣った。
 それだけのことが、エリサにとっては屈辱だったのだろう。

「……ふふ。騎士さまって、優しいのね。あなたにまで気を使ってくださるなんて」

 わざとらしい笑みとともに、エリサはゆっくりとクラリーヌに視線を向けた。

「でも……婚約者にああいう優しさを求められないのって、少し寂しいわね」

 声の調子はあくまで柔らかく、表情も微笑んでいた。
 だが、その一言には──「あなた、愛されていないのね」という、冷ややかな悪意が滲んでいた。

 クラリーヌは一瞬だけ手を止めたが、何も言わずに封筒を整え直した。
 応じるだけ、相手の思う壺だとわかっていたから。



 ティエリは今日も、エリサと笑い合いながら、軽い口調で言う。

「クラリーヌ、あの件、頼んだよ。……あ、でも無理はするなよ?」

 それが、どれほど意味をなさない言葉か、クラリーヌにはもうよくわかっていた。

 ──相変わらず、薄っぺらい。

 行動の伴わない気遣い。
 それを優しさと信じ込んでいるその顔を見るたび、少しずつ心がすり減っていく。

 冷え込みが増す日々、吐く息が白くなる朝に、重たい書類と共に屋敷を出る。
 肩は痛み、頭も鈍く重い。
 それでも、止まればすべてが崩れる気がして、立ち止まることができなかった。

 そして、その日は唐突に訪れた。

 王城の石畳を歩いていたはずが、ふいに視界が傾いた。
 足元が、ずるりと滑る感覚。書類の端が風に舞い、空へと浮かぶ。

 ──あ、と思った。けれど、声も出なかった。

 重たい空気が、肩に、背に、覆いかぶさるようにのしかかる。
 意識がふっと遠のくその瞬間、誰かの気配が駆け寄るのを感じた。

 冷たい石の感触は、どこにもなかった。
 代わりにあったのは、しっかりとした腕のぬくもりと、やわらかな布越しに伝わる、ひとつの鼓動だ。

 ぼんやりと開いた瞳がとらえたのは、黒髪と琥珀のようにやさしい光をたたえた瞳。
 その視線が、心の奥を静かに包み込むようだった。
 ああ、見つけてくれた、と、なぜかそんな言葉が浮かぶ。

 それを最後に、クラリーヌの意識は、ふわりと闇の中へと沈んでいった。
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