「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ

文字の大きさ
3 / 11

03.支え

しおりを挟む
 王城に通う日は、以前よりも少しだけ気持ちが楽になった。
 変わらない仕事、変わらない重責、変わらない疲労。
 けれど、そこで交わす、ほんのひとことの挨拶があるだけで、気持ちは確かに違っていた。

「今日も風が冷たいですね。凍えないよう、お気をつけて」

「お疲れでしょう。よろしければ、文書局の奥に控室があります。鍵、借りてきましょうか?」

 名を知らずとも、その姿はすぐにわかった。
 黒髪に琥珀の瞳、控えめで誠実な眼差しの騎士。
 廊下で、控えの間で、階段の踊り場で。
 彼はいつも、少し離れた場所で、けれど確実に気づいていてくれた。

 名前を尋ねるほどの関係ではなかった──はずだった。

 けれどある日、文書局の手続き窓口で、ふと彼の姿を見かけたとき、受付の女官が書類を手渡しながら口にした。

「はい、こちらお返ししますね。ジュリアン殿」

 その名を聞いたとき、クラリーヌは心のどこかが、わずかに脈打つのを感じた。
 ジュリアン。
 それが、あの人の名前。

 ただそれだけのことなのに、妙に胸の奥に残った。

 その数日後、別の係官が小声で言うのを聞いた。

「……あの若い騎士、礼儀も気配りも申し分ないって評判ですよ。田舎の小領主の三男坊にしては、ね」

 クラリーヌはそっと視線を落とした。
 田舎の小領主の三男──つまり、世継ぎにもならず、出世も限られる立場。
 だからこそ、騎士団に入り、こうして王都で実績を積んでいるのだろう。

 けれど、その所作には貴族らしい傲りもなければ、功名心もない。
 誰かに見せるための振る舞いではなく、誰かを見て、思いやることのできる人。

 ある日、風に煽られて書類を落としたとき、彼──ジュリアンは何も言わず、それを拾い上げてくれた。
 指が触れそうになった瞬間、さりげなく手を引き、自分の持っていたハンカチを差し出す。

「紙の端で指を切りやすいので、どうぞ。角も折れやすいですしね」

 それはただの実務的な言葉だったかもしれない。
 けれど、その声に込められたさりげない気遣いに、クラリーヌはふと、胸が温かくなるのを感じた。

 この人は、私を見てくれている。

 そんな感覚を覚えたのは、いつぶりだっただろう。
 過剰に踏み込むことなく、ただそばを歩いてくれるような人。
 クラリーヌは、その名前を心の中で静かに繰り返した。

 ──ジュリアン。

 それは、恋とか憧れとか、まだそんなはっきりしたものではなかった。
 けれど……口先だけの「無理をするな」ではなく、本当に無理をさせないように気遣う人が、この場所にいる。
 言葉ではなく、行動で示してくれる優しさに、クラリーヌは、はじめて触れたような気がした。
 それだけのことが、今の彼女には、ひどく大きな支えだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】お父様の再婚相手は美人様

すみ 小桜(sumitan)
恋愛
 シャルルの父親が子連れと再婚した!  二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。  でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。

《完結》悪女と噂されたわたくしのざまぁ

ヴァンドール
恋愛
悪女と噂のわたくしとの結婚なら、どれほど軽んじても問題はないと思っていた旦那様。 ところが……。

幸せな婚約破棄 ~どうぞ妹と添い遂げて~

あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで婚約破棄を宣言された私。彼の横には、何故か妹が。 私……あなたと婚約なんてしていませんけど?

いいえ、望んでいません

わらびもち
恋愛
「お前を愛することはない!」 結婚初日、お決まりの台詞を吐かれ、別邸へと押し込まれた新妻ジュリエッタ。 だが彼女はそんな扱いに傷つくこともない。 なぜなら彼女は―――

家族に裏切られて辺境で幸せを掴む?

しゃーりん
恋愛
婚約者を妹に取られる。 そんな小説みたいなことが本当に起こった。 婚約者が姉から妹に代わるだけ?しかし私はそれを許さず、慰謝料を請求した。 婚約破棄と共に跡継ぎでもなくなったから。 仕事だけをさせようと思っていた父に失望し、伯父のいる辺境に行くことにする。 これからは辺境で仕事に生きよう。そう決めて王都を旅立った。 辺境で新たな出会いがあり、付き合い始めたけど?というお話です。

完結 女性に興味が無い侯爵様、私は自由に生きます

ヴァンドール
恋愛
私は絵を描いて暮らせるならそれだけで幸せ! そんな私に好都合な相手が。 女性に興味が無く仕事一筋で冷徹と噂の侯爵様との縁談が。 ただ面倒くさい従妹という令嬢がもれなく付いてきました。

最初から間違っていたんですよ

わらびもち
恋愛
二人の門出を祝う晴れの日に、彼は別の女性の手を取った。 花嫁を置き去りにして駆け落ちする花婿。 でも不思議、どうしてそれで幸せになれると思ったの……?

《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」 その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。

処理中です...