「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ

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03.支え

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 王城に通う日は、以前よりも少しだけ気持ちが楽になった。
 変わらない仕事、変わらない重責、変わらない疲労。
 けれど、そこで交わす、ほんのひとことの挨拶があるだけで、気持ちは確かに違っていた。

「今日も風が冷たいですね。凍えないよう、お気をつけて」

「お疲れでしょう。よろしければ、文書局の奥に控室があります。鍵、借りてきましょうか?」

 名を知らずとも、その姿はすぐにわかった。
 黒髪に琥珀の瞳、控えめで誠実な眼差しの騎士。
 廊下で、控えの間で、階段の踊り場で。
 彼はいつも、少し離れた場所で、けれど確実に気づいていてくれた。

 名前を尋ねるほどの関係ではなかった──はずだった。

 けれどある日、文書局の手続き窓口で、ふと彼の姿を見かけたとき、受付の女官が書類を手渡しながら口にした。

「はい、こちらお返ししますね。ジュリアン殿」

 その名を聞いたとき、クラリーヌは心のどこかが、わずかに脈打つのを感じた。
 ジュリアン。
 それが、あの人の名前。

 ただそれだけのことなのに、妙に胸の奥に残った。

 その数日後、別の係官が小声で言うのを聞いた。

「……あの若い騎士、礼儀も気配りも申し分ないって評判ですよ。田舎の小領主の三男坊にしては、ね」

 クラリーヌはそっと視線を落とした。
 田舎の小領主の三男──つまり、世継ぎにもならず、出世も限られる立場。
 だからこそ、騎士団に入り、こうして王都で実績を積んでいるのだろう。

 けれど、その所作には貴族らしい傲りもなければ、功名心もない。
 誰かに見せるための振る舞いではなく、誰かを見て、思いやることのできる人。

 ある日、風に煽られて書類を落としたとき、彼──ジュリアンは何も言わず、それを拾い上げてくれた。
 指が触れそうになった瞬間、さりげなく手を引き、自分の持っていたハンカチを差し出す。

「紙の端で指を切りやすいので、どうぞ。角も折れやすいですしね」

 それはただの実務的な言葉だったかもしれない。
 けれど、その声に込められたさりげない気遣いに、クラリーヌはふと、胸が温かくなるのを感じた。

 この人は、私を見てくれている。

 そんな感覚を覚えたのは、いつぶりだっただろう。
 過剰に踏み込むことなく、ただそばを歩いてくれるような人。
 クラリーヌは、その名前を心の中で静かに繰り返した。

 ──ジュリアン。

 それは、恋とか憧れとか、まだそんなはっきりしたものではなかった。
 けれど……口先だけの「無理をするな」ではなく、本当に無理をさせないように気遣う人が、この場所にいる。
 言葉ではなく、行動で示してくれる優しさに、クラリーヌは、はじめて触れたような気がした。
 それだけのことが、今の彼女には、ひどく大きな支えだった。
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