「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ

文字の大きさ
4 / 11

04.限界

しおりを挟む
 王城に通う日は、今や週に四度を超えていた。
 文書の提出だけでなく、使いの名目で資料の受け取りや調整役まで担うようになり、それもすべて、ティエリの「きみのほうが分かってるから」という一言で押しつけられたものだった。

 最近では彼の関心は、もっぱら屋敷に出入りする新しい令嬢に向けられている。
 エリサ・ランベール伯爵令嬢。名家の出身で、派手な装いと堂々とした態度が特徴の女性だ。
 気に入った男には積極的に声をかけ、誰よりも早くその隣を確保するのが常だった。
 彼女は、絢爛なドレスに身を包み、甘い香水を振りまきながら、誰の目もはばからずティエリに笑いかけていた。
 正式な婚約者であるクラリーヌのことなど、歯牙にもかけない。

「まあ、子爵家って几帳面なのね。……でも、あまり堅いばかりだと、男の人は息が詰まるものよ?」

 微笑みは優雅、声も穏やか。
 けれど、クラリーヌに向けられた悪意は明白だった。
 ティエリはその言葉に何の反応も示さず、ただ曖昧に笑っただけだった。

 そして、クラリーヌの負担はさらに増していく。
 実務に加えて、今ではモンテクリュ侯爵夫人から「侯爵家の未来の夫人として、相応の品格を備えるように」と、礼儀作法・舞踏・刺繍・音楽・会話術に至るまで、日々の稽古が課されていた。

「できて当然よ。うちの名を継ぐ人間に、田舎の粗野なやり方は通用しませんから」

 朝は書類、昼は稽古、夜は報告書の清書と答礼文の下書き。
 食事をとる時間すらろくに確保できず、それでも誰も、彼女をよくやっているとは認めなかった。

 そんなある日、王城の廊下でクラリーヌが控えの間から出てきたとき、エリサが偶然通りかかった。
 彼女はティエリの使いで簡単な手紙を届けたらしく、小さな封筒だけを手にしている。

「あら、あなたもまだお勤め中? まるで使用人ね。……ううん、使用人ならまだ休憩があるかしら」

 悪びれた様子もなくそう告げると、エリサは後ろから現れた黒髪の騎士にふと笑いかけた。

「お疲れさま、騎士さま。私、このあとお茶に行くところなの。ご一緒に──」

 「申し訳ありません」と、彼は一言だけ返し、ぴたりと一礼した。
 その声音はあくまで丁寧だったが、会話を続ける隙すら与えない、完璧な断絶だった。

 エリサのまつげがわずかに揺れる。自分がかわされることなど滅多にない――その事実に、わずかな動揺が走った。

 そのまま彼はクラリーヌのほうへと歩を進め、封筒を持ち直している彼女に静かに声をかける。

「重たくはありませんか?」

「……いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

 クラリーヌはわずかに首を振り、礼を述べた。
 そのやり取りの間、エリサの視線がじりじりと刺さるように注がれているのを、クラリーヌは背中越しに感じ取る。

 笑いかけた相手が自分ではなく、彼女を気遣った。
 それだけのことが、エリサにとっては屈辱だったのだろう。

「……ふふ。騎士さまって、優しいのね。あなたにまで気を使ってくださるなんて」

 わざとらしい笑みとともに、エリサはゆっくりとクラリーヌに視線を向けた。

「でも……婚約者にああいう優しさを求められないのって、少し寂しいわね」

 声の調子はあくまで柔らかく、表情も微笑んでいた。
 だが、その一言には──「あなた、愛されていないのね」という、冷ややかな悪意が滲んでいた。

 クラリーヌは一瞬だけ手を止めたが、何も言わずに封筒を整え直した。
 応じるだけ、相手の思う壺だとわかっていたから。



 ティエリは今日も、エリサと笑い合いながら、軽い口調で言う。

「クラリーヌ、あの件、頼んだよ。……あ、でも無理はするなよ?」

 それが、どれほど意味をなさない言葉か、クラリーヌにはもうよくわかっていた。

 ──相変わらず、薄っぺらい。

 行動の伴わない気遣い。
 それを優しさと信じ込んでいるその顔を見るたび、少しずつ心がすり減っていく。

 冷え込みが増す日々、吐く息が白くなる朝に、重たい書類と共に屋敷を出る。
 肩は痛み、頭も鈍く重い。
 それでも、止まればすべてが崩れる気がして、立ち止まることができなかった。

 そして、その日は唐突に訪れた。

 王城の石畳を歩いていたはずが、ふいに視界が傾いた。
 足元が、ずるりと滑る感覚。書類の端が風に舞い、空へと浮かぶ。

 ──あ、と思った。けれど、声も出なかった。

 重たい空気が、肩に、背に、覆いかぶさるようにのしかかる。
 意識がふっと遠のくその瞬間、誰かの気配が駆け寄るのを感じた。

 冷たい石の感触は、どこにもなかった。
 代わりにあったのは、しっかりとした腕のぬくもりと、やわらかな布越しに伝わる、ひとつの鼓動だ。

 ぼんやりと開いた瞳がとらえたのは、黒髪と琥珀のようにやさしい光をたたえた瞳。
 その視線が、心の奥を静かに包み込むようだった。
 ああ、見つけてくれた、と、なぜかそんな言葉が浮かぶ。

 それを最後に、クラリーヌの意識は、ふわりと闇の中へと沈んでいった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

いいえ、望んでいません

わらびもち
恋愛
「お前を愛することはない!」 結婚初日、お決まりの台詞を吐かれ、別邸へと押し込まれた新妻ジュリエッタ。 だが彼女はそんな扱いに傷つくこともない。 なぜなら彼女は―――

最初から間違っていたんですよ

わらびもち
恋愛
二人の門出を祝う晴れの日に、彼は別の女性の手を取った。 花嫁を置き去りにして駆け落ちする花婿。 でも不思議、どうしてそれで幸せになれると思ったの……?

《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから

ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。 彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。

比べないでください

わらびもち
恋愛
「ビクトリアはこうだった」 「ビクトリアならそんなことは言わない」  前の婚約者、ビクトリア様と比べて私のことを否定する王太子殿下。  もう、うんざりです。  そんなにビクトリア様がいいなら私と婚約解消なさってください――――……  

《完結》悪女と噂されたわたくしのざまぁ

ヴァンドール
恋愛
悪女と噂のわたくしとの結婚なら、どれほど軽んじても問題はないと思っていた旦那様。 ところが……。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

残念ながら、定員オーバーです!お望みなら、次期王妃の座を明け渡しますので、お好きにしてください

mios
恋愛
ここのところ、婚約者の第一王子に付き纏われている。 「ベアトリス、頼む!このとーりだ!」 大袈裟に頭を下げて、どうにか我儘を通そうとなさいますが、何度も言いますが、無理です! 男爵令嬢を側妃にすることはできません。愛妾もすでに埋まってますのよ。 どこに、捻じ込めると言うのですか! ※番外編少し長くなりそうなので、また別作品としてあげることにしました。読んでいただきありがとうございました。

処理中です...