「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ

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05.責任

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 目を覚ましたとき、天井が静かに揺れていた。
 石造りのはずの王城の天井ではない。どこか私室のような、あたたかみのある木目の天井だ。

 クラリーヌは、視線だけを動かしてゆっくり周囲を確かめた。
 厚手の毛布とほんのりと香るハーブの匂い。窓から差し込む穏やかな午後の光。
 どうやら、王城内の医務室の奥──要人用の控え室に移されているようだった。

 すぐ傍に人の気配があった。
 静かな気配と落ち着いた呼吸。そして気づいたように椅子が軋む音。

「……ご気分は、いかがですか?」

 黒髪の青年──ジュリアンだった。
 彼は椅子に腰かけたまま、過度にのぞき込むこともなく、声も表情も、いつもと変わらぬ静けさを保っていた。

「……すみません。倒れて……しまって……」

 クラリーヌはかすれた声で、やっとの思いで謝罪の言葉を紡いだ。
 迷惑をかけたくない──その思いが、どうにか声になっただけだった。
 けれど彼は、それを否定するでも、慰めるでもなく、ただこう言った。

「疲れていただけです。誰でも、倒れるときは倒れます。無理をさせたのは、あなたの責任ではありません」

 その言葉が、驚くほど優しく胸に響いた。
 倒れた自分を咎めない言葉を、今までの人生で、何度耳にしただろう。

 何かを返そうと唇を動かしたとき、扉の向こうから、軽い足音が近づく気配がした。

「──まったく、勝手にいなくなるなんて。あの子、倒れるくらいなら最初からやるべきじゃないのよ」

 エリサの声だった。
 隣にはティエリの姿もあるのだろう。彼の、くぐもった低い声がそれに続く。

「……無理はするなと、あれほど言っておいたのに。どうして、言うことを聞かないんだ。……倒れて迷惑をかけるなんて、正直、失望したよ」

 その言葉に、クラリーヌの胸が凍りついた。
 まるで自分が、彼の忠告を裏切った加害者であるかのような口調だ。
 労わりも、謝罪もない。ただ、言うことを聞かなかったことへの苛立ちだけが、そこにはあった。

 ジュリアンはゆっくりと立ち上がると、無言で扉の前へと向かった。
 扉を開けることなく、落ち着いた声で告げる。

「療養中につき、ご面会は控えていただけますか。当人の静養を妨げる話題であれば、なおのこと」

「……なっ……きみ、どこの家の者だ?」

「ただの騎士です」

 その一言に、ティエリがあからさまに眉をひそめた。

「ふん、なるほどね。騎士風情が、貴族の婚約者に向かってずいぶんな口ぶりだな」

 クラリーヌの目には、ジュリアンの肩がわずかに動いたように見えた。
 けれど彼は、何も言い返さない。
 ただ静かに、扉の前から動かなかった。

 沈黙のなか、隣でエリサが鼻で笑う。

「仕方ないわよ、ティエリさま。田舎の三男坊って、だいたいそういう場違いな正義感だけは一丁前なんだから。きっと、自分を偉く見せたいのよ」

 その声には、明らかな嘲りと侮蔑が滲んでいた。
 ティエリも「まったく、騎士団も人材不足か」と冷笑を添えて返す。

 けれど、扉の前に立つ青年は、揺らぐことなく言った。

「療養中の方に、これ以上のご負担をおかけしませんように」

 丁寧な言葉に、返答はなかった。
 エリサが何か言いかけたようだったが、それをティエリが遮るように小さく舌打ちし、二人の足音はそのまま廊下の奥へと遠ざかっていく。

 静けさが戻ったあと、クラリーヌの胸には、冷たさと温かさが同時に残った。
 誰も彼も、自分の状態を迷惑としか受け取らないのだと、改めて思い知らされた。

 けれど──ひとりだけ、違う人がいる。
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