「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ

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02.本物の気遣い

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 王城に足を踏み入れた瞬間、クラリーヌは微かに肩の力を抜いた。
 それは決して楽になるという意味ではない。ただ、モンテクリュ侯爵邸の重苦しい空気から、一時的にでも解放されるという、それだけのことだった。

 今日は、第三文書局への届け出と報告文の提出。
 元はティエリが担うべき書類だったが、「書き方がわからないから頼むよ」と笑いながら押しつけられたのが今朝のことだ。

 控えの間で順番を待つ間、クラリーヌは静かに書類を抱えて立っていた。
 周囲を行き交う廷臣たちは、彼女を誰かの侍女か女官とでも思っているのだろう。誰も声をかけてこないし、気に留める者もいない。

 けれど、一人だけ、立ち止まった人がいた。

「……それ、重くないですか?」

 ふと、低く落ち着いた声が耳に届いた。
 顔を上げると、黒髪に琥珀の瞳を持つ青年が、やわらかな表情でこちらを見ていた。
 騎士服をまとってはいるが、その所作は端正で、ただの騎士には見えない何かを纏っている。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 クラリーヌは自然に礼を返し、そっと視線を落とした。
 手元の書類がぐらりと傾いたその瞬間、青年が反射的に手を伸ばし、一部を支えてくれた。

「失礼……。書類の角が折れてしまいますよ」

「あっ……助かります」

 クラリーヌは小さく頭を下げ、書類を整え直す。
 それ以上、彼は何も言わず、ただ微笑んでその場を離れていった。
 けれど、その穏やかな気配は、なぜかしばらく消えずに残った。

 ──あの人は、誰だろう。

 名前も身分も知らないまま、けれどふとした仕草に、ティエリとはまるで違う本物の気遣いを見た気がして。
 クラリーヌはほんの少しだけ、心の重さが軽くなったような気がした。



「……これは、差し戻しです」

 冷たい声に、クラリーヌは一瞬だけまばたきをした。
 応対した第三文書局の局員──若く、やけに事務的な男が、手元の文書を無造作に突き返してきた。

「添付すべき帳票がひとつ抜けています。これでは受理できません。再提出は週明け以降、担当が変わりますから、お急ぎならば今すぐ修正していただく必要がありますが?」

「……そ、そんなはずは……」

 クラリーヌは手元の書類を急いでめくった。
 整えて出したはずの報告文。それが不備とされて返された。
 だが、添付漏れとされた資料は、元々ティエリが「これは要らない」と言って抜いたものだった。

『先方には関係ないから、そこは飛ばしていいよ。むしろ分かりづらくなるから』

 そう言って渡された指示書。
 信じた自分が愚かだったのか。今になって胸がざわつく。

 再提出、担当変更、遅延。
 どれもティエリの耳に入れば、責められるのは決まって自分だ。
 そして夫人に知られれば、また、あの責め苦が待っている。

「──その件でしたら、添付の意義について先方と協議中だったと記録にあります」

 背後から、穏やかな声が届いた。
 あまりにも自然に、まるでそこに最初からいたかのように。

 振り返ると、黒髪の青年がいた。
 騎士服に身を包み、背筋の伸びた佇まい。目元は穏やかで、琥珀色の瞳が静かにこちらを見ていた。
 控えの間で、書類を支えてくれた、あの青年だ。

「正式な照会があるまで一時保留扱いにしてはいかがですか? それとも、文書局の判断で、先方の確認を待たずに処理なさるおつもりで?」

 その声音はあくまで穏やかだったが、不思議と空気がぴたりと引き締まった。
 局員は一瞬たじろぎ、小さく咳払いをした。

「……では、一時保留として預かります。追って再照会いたしますので」

 言葉の調子がわずかに変わっていた。
 どこか、釘を刺された人間が渋々折れたときのような、ぎこちなさと曖昧さが滲んでいる。
 クラリーヌは、ほっと胸を撫で下ろした。

「……ありがとうございました。でも、どうして……」

 お礼と疑問が入り交じった声を、無意識のうちに口にしていた。
 自分が何もできなかったことが悔しくて、恥ずかしくて──。
 それでも、誰かが助けてくれたことに心が追いつかず、咄嗟に理由を求めてしまったのだ。

 青年は静かに視線を向けたまま、穏やかに答えた。

「あなたが、少し無理をしているように見えたものですから」

 それだけだった。
 理由を尋ねるでもなく、ただ彼の目はまっすぐこちらを見ている。
 その眼差しには、憐れみも、軽蔑も、慰めすらない。
 あるのはただ、事実を見つめた上で、それを否定しないという、静かな肯定だった。

 ──どうしてだろう。
 ほんの数語のはずなのに、胸の奥に、ひたりと染み入ってくる。

 無理をしていることなど、自分が一番わかっている。
 けれど、それを責めずに気づいてくれた人は、今まで一人もいなかった。
 こんなにも自然に、肩の荷を少しだけ下ろさせてくれる言葉を、自分はいつ以来聞いていなかったのだろう。

 ありがとう、と言いたかった。
 けれど、その言葉すら喉の奥で震えて、声にならなかった。
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