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01.無理をするな
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「無理をするなよ、クラリーヌ」
その優しげな声を聞いたのは、クラリーヌが執務室の書類棚に手を伸ばしていたときだった。
振り返れば、白金の髪をなびかせたティエリ・モンテクリュが、涼しげな水色の瞳でこちらを見下ろしている。
クラリーヌはそっと微笑み、形ばかりの返事を返した。
亜麻色の髪が肩に揺れ、薄紫色の瞳がほんの一瞬、疲れをにじませる。
「……ええ、心配ありがとう」
言葉だけを取れば、優しさに満ちている。
けれど、その言葉が発せられるのは、彼が仕事の山を彼女の机に置いた直後だ。
「きみに任せたほうが早いし、きちんとしてるから助かるよ。僕が手を出すと、どうせぐちゃぐちゃになってしまうからね」
微笑を浮かべたまま、ティエリは自嘲気味に肩をすくめる。
まるでそれが合理的な判断であるかのように。
それが今日で何度目かは、もう数える気にもなれない。
──無理をするな、と言いながら、ティエリは一度たりとも自ら手を動かそうとはしなかった。
「きみは有能だから」と持ち上げ、「僕は不器用だから」と下げる。
その一連のやり取りで、彼は気遣いと信頼のつもりなのだ。
元々、クラリーヌは地方の子爵家の令嬢だった。
けれど、王都で開かれた舞踏会で、侯爵家の嫡男であるティエリに「きみの笑顔が美しい」と見初められ、婚約者として迎え入れられた。
それは家にとって大きな誉れであり、本人の意思など関係なく、彼のもとへ送られたのだ。
婚約者として、彼の邸で暮らし始めてからは毎日が戦いだった。
押し寄せる仕事の波をこなすのは、すべてクラリーヌ。
ティエリはその頑張りに「感謝しているよ」「きみがいて本当によかった」と微笑むだけで、手を貸すことはなかった。
けれど彼は、自分を思いやりのある男だと信じて疑っていない。
優しい言葉さえかけていれば、それだけで相手は救われると、本気で思っているのだ。
そして、その過程で一番つらいのは、ティエリの母──モンテクリュ侯爵夫人からの、容赦のない言葉の刃だった。
「あなたって本当に図々しいわね。まさかあの子にまで仕事を押し付けているんじゃないでしょうね?」
その場にいた誰が見ても、ティエリが仕事を押し付けているのは明白だった。
報告書の整理、記録簿の再筆、地方領からの書状への草案作成。
使用人の勤怠表や備品の申請書すら、すべてクラリーヌの机に回されている。
本来は文官が担当する書類も、執務の実務も、ティエリは「きみのほうが丁寧だから」と言って一度も手をつけたことがなかった。
それなのに──
「まったく、地方の子爵家なんてそんなものよね。貴族の嫡男に細々とした事務仕事をさせるなんて、教養も礼節も知らない証拠だわ」
侯爵夫人にとっては、どれほど重要な実務であろうと、それを誰がやっているかがすべてだった。
ティエリが怠けていようと、それを代わりに行うクラリーヌが「出過ぎた真似をしている」と断じられる。
「その髪の乱れ、顔色の悪さ……自覚してる? うちに恥をかかせるのはやめてちょうだい」
何気ない一言に、心がじわりと染みてくる。
けれど、クラリーヌは何も言い返すことなく、ただ黙々とペンを走らせた。
これはティエリの仕事でも、侯爵家の体面でもない。
ただ、クラリーヌが自分自身を保つための、唯一の矜持だった。
王城への使いも、本来は家臣か若い文官が担うべき仕事である。
けれど、あるとき急ぎの文書を届ける役が足りず、臨時でクラリーヌが派遣されたのが始まりだった。
そのとき、ティエリは軽く言ったのだ。
『すまないけど、ちょっとだけ頼めるかな。きみのように礼儀をわきまえた人間なら、先方にも安心して任せられるしね』
「ちょっとだけ」──その言葉は、ほんの数回のはずだった。
だが、結果としてそれは定例となり、今では週に何度も彼女が王城を往復している。
もちろん、それも夫人の中では浮ついた真似に過ぎなかった。
「外に出てばかりで浮ついてるんじゃないでしょうね。何を勘違いしてるのか知らないけれど、使いっぱしりをこなしたくらいで良い気にならないでちょうだい」
息子が彼女に押しつけた仕事であるにもかかわらず、まるでクラリーヌが出しゃばっているかのように見下される。
それでも、クラリーヌは黙って馬車に乗る。
任された仕事は、最後までやり遂げたい。
それが、ここにしか居場所のないクラリーヌにできる唯一のことだから。
その優しげな声を聞いたのは、クラリーヌが執務室の書類棚に手を伸ばしていたときだった。
振り返れば、白金の髪をなびかせたティエリ・モンテクリュが、涼しげな水色の瞳でこちらを見下ろしている。
クラリーヌはそっと微笑み、形ばかりの返事を返した。
亜麻色の髪が肩に揺れ、薄紫色の瞳がほんの一瞬、疲れをにじませる。
「……ええ、心配ありがとう」
言葉だけを取れば、優しさに満ちている。
けれど、その言葉が発せられるのは、彼が仕事の山を彼女の机に置いた直後だ。
「きみに任せたほうが早いし、きちんとしてるから助かるよ。僕が手を出すと、どうせぐちゃぐちゃになってしまうからね」
微笑を浮かべたまま、ティエリは自嘲気味に肩をすくめる。
まるでそれが合理的な判断であるかのように。
それが今日で何度目かは、もう数える気にもなれない。
──無理をするな、と言いながら、ティエリは一度たりとも自ら手を動かそうとはしなかった。
「きみは有能だから」と持ち上げ、「僕は不器用だから」と下げる。
その一連のやり取りで、彼は気遣いと信頼のつもりなのだ。
元々、クラリーヌは地方の子爵家の令嬢だった。
けれど、王都で開かれた舞踏会で、侯爵家の嫡男であるティエリに「きみの笑顔が美しい」と見初められ、婚約者として迎え入れられた。
それは家にとって大きな誉れであり、本人の意思など関係なく、彼のもとへ送られたのだ。
婚約者として、彼の邸で暮らし始めてからは毎日が戦いだった。
押し寄せる仕事の波をこなすのは、すべてクラリーヌ。
ティエリはその頑張りに「感謝しているよ」「きみがいて本当によかった」と微笑むだけで、手を貸すことはなかった。
けれど彼は、自分を思いやりのある男だと信じて疑っていない。
優しい言葉さえかけていれば、それだけで相手は救われると、本気で思っているのだ。
そして、その過程で一番つらいのは、ティエリの母──モンテクリュ侯爵夫人からの、容赦のない言葉の刃だった。
「あなたって本当に図々しいわね。まさかあの子にまで仕事を押し付けているんじゃないでしょうね?」
その場にいた誰が見ても、ティエリが仕事を押し付けているのは明白だった。
報告書の整理、記録簿の再筆、地方領からの書状への草案作成。
使用人の勤怠表や備品の申請書すら、すべてクラリーヌの机に回されている。
本来は文官が担当する書類も、執務の実務も、ティエリは「きみのほうが丁寧だから」と言って一度も手をつけたことがなかった。
それなのに──
「まったく、地方の子爵家なんてそんなものよね。貴族の嫡男に細々とした事務仕事をさせるなんて、教養も礼節も知らない証拠だわ」
侯爵夫人にとっては、どれほど重要な実務であろうと、それを誰がやっているかがすべてだった。
ティエリが怠けていようと、それを代わりに行うクラリーヌが「出過ぎた真似をしている」と断じられる。
「その髪の乱れ、顔色の悪さ……自覚してる? うちに恥をかかせるのはやめてちょうだい」
何気ない一言に、心がじわりと染みてくる。
けれど、クラリーヌは何も言い返すことなく、ただ黙々とペンを走らせた。
これはティエリの仕事でも、侯爵家の体面でもない。
ただ、クラリーヌが自分自身を保つための、唯一の矜持だった。
王城への使いも、本来は家臣か若い文官が担うべき仕事である。
けれど、あるとき急ぎの文書を届ける役が足りず、臨時でクラリーヌが派遣されたのが始まりだった。
そのとき、ティエリは軽く言ったのだ。
『すまないけど、ちょっとだけ頼めるかな。きみのように礼儀をわきまえた人間なら、先方にも安心して任せられるしね』
「ちょっとだけ」──その言葉は、ほんの数回のはずだった。
だが、結果としてそれは定例となり、今では週に何度も彼女が王城を往復している。
もちろん、それも夫人の中では浮ついた真似に過ぎなかった。
「外に出てばかりで浮ついてるんじゃないでしょうね。何を勘違いしてるのか知らないけれど、使いっぱしりをこなしたくらいで良い気にならないでちょうだい」
息子が彼女に押しつけた仕事であるにもかかわらず、まるでクラリーヌが出しゃばっているかのように見下される。
それでも、クラリーヌは黙って馬車に乗る。
任された仕事は、最後までやり遂げたい。
それが、ここにしか居場所のないクラリーヌにできる唯一のことだから。
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