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07.提案
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モンテクリュ家を出た翌日、クラリーヌはラシャンブル子爵家の屋敷へと戻った。
けれど、そこで待っていたのは、労りの言葉でも、慰めでもなかった。
「なんてことをしてくれたの……っ!」
出迎えるなり、母の声が怒鳴りつけるように響く。
屋敷の玄関先、まだ使用人たちが控えている前で、それは容赦なく降ってきた。
「貴族の娘が、婚約者に見限られるなんて……どれだけ恥をかかせれば気が済むの!? あなたのせいで、家の評判がどうなると思ってるの!」
「子爵家の身で侯爵家に嫁げるなど、奇跡に近い縁談だったんだぞ」
父もまた、冷え切った声で言った。
「倒れたから婚約破棄だ? なら倒れるな。体調管理もできないで、無理をするなという言葉を守れないのは、相手に失礼なんだよ」
クラリーヌは、ただ黙って立っていた。
何も言い返さなかった。
きっと、何を言っても無意味だとわかっていたから。
家族は、失敗した娘を完全に見限っていた。
モンテクリュ侯爵家との婚約を破棄されたことは、彼らにとって家の面目を潰す大失態だった。
クラリーヌは今や、汚点そのものでしかない。
ある日、応接間の扉越しに聞こえた声は、静かながら残酷だった。
「……王都に残しておけば噂が広がるだけ」
「修道院に送るか、誰か事情を知らない年寄りの後妻にでも」
「とにかく、早く始末をつけないと恥が深くなるわ」
「娘をどうするか」ではない。
「どう処理するか」という会話だった。
その夜のことだった。
「荷物をまとめなさい。明日の朝には出すから」
母の言葉はあまりにあっさりとしていて、もはや何の感情も含まれていなかった。
それがかえって、決定的だった。
クラリーヌは静かに頷き、自室に戻ると、使い込んだ手提げ鞄に衣類をたたみながら詰めていく。
命じられるまま、感情も抜け落ちた指先で、ただ、淡々と。
もう、何も考えたくなかった。
戸口の下で、冷たい風がわずかに入り込む。
灯りの揺れるその静寂を破ったのは、屋敷の裏口を叩く、控えめな音だった。
「ご無沙汰しております」
控えめな声と共に姿を見せたのは、ジュリアンだった。
旅装のまま、あたたかな冬用の外套を纏っている。
以前と変わらぬ穏やかな目で佇む彼に、クラリーヌは目を見開く。
「……なぜ、ここに……?」
戸惑いながら問うクラリーヌに、彼は短く答えた。
「噂を耳にしました。だから、来ました」
その声に、嘲りも同情もない。
ただ、まっすぐな意志だけがあった。
「あなたが追われるようにして屋敷を離れ、誰にも必要とされないように扱われている──そう聞いて、居ても立っても居られずやって来ました」
クラリーヌは何も言えなかった。
否定も、肯定も、できなかった。
ただ、胸の奥に、もう何も残っていないはずの心に、ほんのわずかな温もりが差し込むのを感じる。
そんな彼女を見て、ジュリアンは一歩、踏み出した。
「……提案させてください。よろしければ、私の故郷に来ませんか。身分も、肩書きも、過去もすべて関係なく、ただあなた自身を必要とする場所が、そこにあります」
声が震えそうになるのを、クラリーヌは懸命にこらえる。
この人だけが、自分を責めなかった。
利用するための価値ではなく、ひとりの人間として見てくれた。
それが、どれほど救いになったか。
「……はい」
小さく、けれどはっきりと、クラリーヌは答えた。
涙は落ちない。
それはきっと、希望の重さで胸がいっぱいになったから──。
けれど、そこで待っていたのは、労りの言葉でも、慰めでもなかった。
「なんてことをしてくれたの……っ!」
出迎えるなり、母の声が怒鳴りつけるように響く。
屋敷の玄関先、まだ使用人たちが控えている前で、それは容赦なく降ってきた。
「貴族の娘が、婚約者に見限られるなんて……どれだけ恥をかかせれば気が済むの!? あなたのせいで、家の評判がどうなると思ってるの!」
「子爵家の身で侯爵家に嫁げるなど、奇跡に近い縁談だったんだぞ」
父もまた、冷え切った声で言った。
「倒れたから婚約破棄だ? なら倒れるな。体調管理もできないで、無理をするなという言葉を守れないのは、相手に失礼なんだよ」
クラリーヌは、ただ黙って立っていた。
何も言い返さなかった。
きっと、何を言っても無意味だとわかっていたから。
家族は、失敗した娘を完全に見限っていた。
モンテクリュ侯爵家との婚約を破棄されたことは、彼らにとって家の面目を潰す大失態だった。
クラリーヌは今や、汚点そのものでしかない。
ある日、応接間の扉越しに聞こえた声は、静かながら残酷だった。
「……王都に残しておけば噂が広がるだけ」
「修道院に送るか、誰か事情を知らない年寄りの後妻にでも」
「とにかく、早く始末をつけないと恥が深くなるわ」
「娘をどうするか」ではない。
「どう処理するか」という会話だった。
その夜のことだった。
「荷物をまとめなさい。明日の朝には出すから」
母の言葉はあまりにあっさりとしていて、もはや何の感情も含まれていなかった。
それがかえって、決定的だった。
クラリーヌは静かに頷き、自室に戻ると、使い込んだ手提げ鞄に衣類をたたみながら詰めていく。
命じられるまま、感情も抜け落ちた指先で、ただ、淡々と。
もう、何も考えたくなかった。
戸口の下で、冷たい風がわずかに入り込む。
灯りの揺れるその静寂を破ったのは、屋敷の裏口を叩く、控えめな音だった。
「ご無沙汰しております」
控えめな声と共に姿を見せたのは、ジュリアンだった。
旅装のまま、あたたかな冬用の外套を纏っている。
以前と変わらぬ穏やかな目で佇む彼に、クラリーヌは目を見開く。
「……なぜ、ここに……?」
戸惑いながら問うクラリーヌに、彼は短く答えた。
「噂を耳にしました。だから、来ました」
その声に、嘲りも同情もない。
ただ、まっすぐな意志だけがあった。
「あなたが追われるようにして屋敷を離れ、誰にも必要とされないように扱われている──そう聞いて、居ても立っても居られずやって来ました」
クラリーヌは何も言えなかった。
否定も、肯定も、できなかった。
ただ、胸の奥に、もう何も残っていないはずの心に、ほんのわずかな温もりが差し込むのを感じる。
そんな彼女を見て、ジュリアンは一歩、踏み出した。
「……提案させてください。よろしければ、私の故郷に来ませんか。身分も、肩書きも、過去もすべて関係なく、ただあなた自身を必要とする場所が、そこにあります」
声が震えそうになるのを、クラリーヌは懸命にこらえる。
この人だけが、自分を責めなかった。
利用するための価値ではなく、ひとりの人間として見てくれた。
それが、どれほど救いになったか。
「……はい」
小さく、けれどはっきりと、クラリーヌは答えた。
涙は落ちない。
それはきっと、希望の重さで胸がいっぱいになったから──。
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