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08.求婚
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ベルモント大公家の領地に足を踏み入れたとき、クラリーヌの胸には、明確な決意があった。
誰かに救われるためでも、庇護を求めるためでもない。
ここで働き、自分の手で、もう一度立ち上がる──それだけを信じて、この地へ来たのだ。
「無理のない範囲で、手伝っていただけることがあればと。……ジュリアンさまからの伝言です」
そう伝えたのは、大公家の女官長だった。
過去の肩書きも事情も、詮索されなかった。ただ「働く意思」をきちんと受け止めてくれたことが、何より嬉しかった。
最初に任されたのは、文書の整理と記録の書き写し。
小さな机と控えめな席からの再出発だったが、クラリーヌは与えられた仕事に誠実に向き合った。
やがて、屋敷内でささやかに名が広まっていった。
「記録が整って、確認が楽になった」
「彼女に通すと、文面の不備がなくなる」
「あの方の対応は丁寧で品がある」
褒め言葉のために働いているわけではなかった。
けれど、その言葉たちは、かつて誰からも求められなかった自分が──今はここにいてもいいと認められている証のように思えた。
そんなある日のこと。
夕方の回廊で報告書を抱えていたクラリーヌの前に、ふいに湯気の立つカップが差し出された。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのはジュリアンだった。
「冷える廊下で、長く立ち仕事をされていたでしょう。温かいものを。……ミントとシナモン、どちらもお好きでしたよね」
彼の声はあくまで穏やかで、控えめだった。
特別な言葉はなくとも、そのさりげない気遣いが胸に染みる。
クラリーヌは静かに礼を述べてカップを受け取った。
手のひらに広がるぬくもりが、身体の芯まで届くようだ。
その日を境に、ジュリアンはときおり、何かの折にクラリーヌの前に現れた。
過干渉ではなく、ただ必要なときに必要な分だけ寄り添う姿勢に、クラリーヌの心も少しずつ開かれていった。
与えられた居場所ではなく、自分で築いた場所。
その実感が、静かにクラリーヌの中に根づいていった。
春の気配が色濃くなりはじめた頃、クラリーヌは南庭に呼び出された。
咲き始めたばかりの白い花が風に揺れるその場所に、ジュリアンは立っていた。
「お疲れさまです。……少し、お時間をいただけますか」
彼は変わらず穏やかな声でそう言い、クラリーヌが頷くのを見届けてから、一拍の静寂の後に続けた。
「そろそろ、名乗らせていただいてもよいでしょうか。私は、ベルモント大公家の第三公子──ジュリアン・ベルモントです。修行の一環で身分を伏せ、王城で騎士として勤めておりました」
クラリーヌは、驚きに息を呑んだ。
けれど、混乱や怒りはなかった。
思い返せば、彼の立ち居振る舞いは常に落ち着いていて、誰よりも周囲に気を配り、過剰に何かを主張することがなかった。
──ああ、やっぱり。
それが、クラリーヌの胸に浮かんだ正直な感想だった。
ジュリアンは、咲き始めた白い花の向こうで、しばし迷うように目を伏せた。
そして意を決したように、まっすぐクラリーヌを見つめる。
「……あなたの姿を見て、私は何度も心を打たれてきました」
その声音は、静かで、けれどひとつひとつの言葉が深く胸に響いた。
「自分の立場を嘆くことなく、与えられた仕事に黙々と向き合い、誰かのために、見返りも求めず力を尽くすその姿を、私はずっと見てきました。あなたが誰よりも真摯で、誠実な人であることを……ずっと」
ジュリアンは、少しだけ息をつくと、穏やかな笑みを浮かべた。
「私は、そんなあなたの人柄に、そして背筋を伸ばして歩こうとする強さに、心から惹かれました。地位でも立場でもなく、あなたという人そのものに──」
彼は一歩、クラリーヌの前に進み出る。
春の風が静かに吹き抜ける中、真っすぐに言葉を重ねた。
「──クラリーヌ・ラシャンブル嬢。どうか、これからの人生を、私と共に歩んでいただけませんか?」
その言葉には、飾りも虚勢もなかった。
ただ、彼女を一人の人間として大切にしたいという、誠意だけが宿っている。
クラリーヌは、その言葉を胸にしっかりと受け止めた。
過去に投げかけられた薄っぺらい気遣いとはまるで違う、本当に行動で示し、さりげなく寄り添ってくれた人の声だった。
「……あなたが、私のことをそう見ていてくれたなんて、驚きです。でも、嬉しい。……この地で、ようやく自分の価値を信じられるようになったのは、あなたのおかげです」
胸の奥に積もっていた迷いや不安が、風に溶けていくようだった。
「あなたは、口先ではなく、行動で示してくれました。私の弱さも、努力も、ちゃんと見てくれた。……そんな人は、他に誰もいなかった」
クラリーヌはそっと微笑み、真っすぐにジュリアンを見返す。
「はい。……私も、あなたとなら前を向いていけます。あなたとなら──心からそう思えるんです」
ようやく見つけた、自分の足で立てる場所。
誰にも否定されず、ただ在ることを認めてくれる人と、並んで歩ける未来。
クラリーヌの瞳には、確かな光が宿っていた。
それは、春の陽射しよりもあたたかく、迷いのない輝きだった。
誰かに救われるためでも、庇護を求めるためでもない。
ここで働き、自分の手で、もう一度立ち上がる──それだけを信じて、この地へ来たのだ。
「無理のない範囲で、手伝っていただけることがあればと。……ジュリアンさまからの伝言です」
そう伝えたのは、大公家の女官長だった。
過去の肩書きも事情も、詮索されなかった。ただ「働く意思」をきちんと受け止めてくれたことが、何より嬉しかった。
最初に任されたのは、文書の整理と記録の書き写し。
小さな机と控えめな席からの再出発だったが、クラリーヌは与えられた仕事に誠実に向き合った。
やがて、屋敷内でささやかに名が広まっていった。
「記録が整って、確認が楽になった」
「彼女に通すと、文面の不備がなくなる」
「あの方の対応は丁寧で品がある」
褒め言葉のために働いているわけではなかった。
けれど、その言葉たちは、かつて誰からも求められなかった自分が──今はここにいてもいいと認められている証のように思えた。
そんなある日のこと。
夕方の回廊で報告書を抱えていたクラリーヌの前に、ふいに湯気の立つカップが差し出された。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのはジュリアンだった。
「冷える廊下で、長く立ち仕事をされていたでしょう。温かいものを。……ミントとシナモン、どちらもお好きでしたよね」
彼の声はあくまで穏やかで、控えめだった。
特別な言葉はなくとも、そのさりげない気遣いが胸に染みる。
クラリーヌは静かに礼を述べてカップを受け取った。
手のひらに広がるぬくもりが、身体の芯まで届くようだ。
その日を境に、ジュリアンはときおり、何かの折にクラリーヌの前に現れた。
過干渉ではなく、ただ必要なときに必要な分だけ寄り添う姿勢に、クラリーヌの心も少しずつ開かれていった。
与えられた居場所ではなく、自分で築いた場所。
その実感が、静かにクラリーヌの中に根づいていった。
春の気配が色濃くなりはじめた頃、クラリーヌは南庭に呼び出された。
咲き始めたばかりの白い花が風に揺れるその場所に、ジュリアンは立っていた。
「お疲れさまです。……少し、お時間をいただけますか」
彼は変わらず穏やかな声でそう言い、クラリーヌが頷くのを見届けてから、一拍の静寂の後に続けた。
「そろそろ、名乗らせていただいてもよいでしょうか。私は、ベルモント大公家の第三公子──ジュリアン・ベルモントです。修行の一環で身分を伏せ、王城で騎士として勤めておりました」
クラリーヌは、驚きに息を呑んだ。
けれど、混乱や怒りはなかった。
思い返せば、彼の立ち居振る舞いは常に落ち着いていて、誰よりも周囲に気を配り、過剰に何かを主張することがなかった。
──ああ、やっぱり。
それが、クラリーヌの胸に浮かんだ正直な感想だった。
ジュリアンは、咲き始めた白い花の向こうで、しばし迷うように目を伏せた。
そして意を決したように、まっすぐクラリーヌを見つめる。
「……あなたの姿を見て、私は何度も心を打たれてきました」
その声音は、静かで、けれどひとつひとつの言葉が深く胸に響いた。
「自分の立場を嘆くことなく、与えられた仕事に黙々と向き合い、誰かのために、見返りも求めず力を尽くすその姿を、私はずっと見てきました。あなたが誰よりも真摯で、誠実な人であることを……ずっと」
ジュリアンは、少しだけ息をつくと、穏やかな笑みを浮かべた。
「私は、そんなあなたの人柄に、そして背筋を伸ばして歩こうとする強さに、心から惹かれました。地位でも立場でもなく、あなたという人そのものに──」
彼は一歩、クラリーヌの前に進み出る。
春の風が静かに吹き抜ける中、真っすぐに言葉を重ねた。
「──クラリーヌ・ラシャンブル嬢。どうか、これからの人生を、私と共に歩んでいただけませんか?」
その言葉には、飾りも虚勢もなかった。
ただ、彼女を一人の人間として大切にしたいという、誠意だけが宿っている。
クラリーヌは、その言葉を胸にしっかりと受け止めた。
過去に投げかけられた薄っぺらい気遣いとはまるで違う、本当に行動で示し、さりげなく寄り添ってくれた人の声だった。
「……あなたが、私のことをそう見ていてくれたなんて、驚きです。でも、嬉しい。……この地で、ようやく自分の価値を信じられるようになったのは、あなたのおかげです」
胸の奥に積もっていた迷いや不安が、風に溶けていくようだった。
「あなたは、口先ではなく、行動で示してくれました。私の弱さも、努力も、ちゃんと見てくれた。……そんな人は、他に誰もいなかった」
クラリーヌはそっと微笑み、真っすぐにジュリアンを見返す。
「はい。……私も、あなたとなら前を向いていけます。あなたとなら──心からそう思えるんです」
ようやく見つけた、自分の足で立てる場所。
誰にも否定されず、ただ在ることを認めてくれる人と、並んで歩ける未来。
クラリーヌの瞳には、確かな光が宿っていた。
それは、春の陽射しよりもあたたかく、迷いのない輝きだった。
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