もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

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第2章 さよならのない別れ

2-3 記憶の渚で(前)

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 奥の部屋に移る前、佐伯さんは何度も写真を見つめていた。
「もし、千鶴と美咲に会えたとして」
 佐伯さんが不安そうに言った。
「私は何と言えばいいのでしょうか。十五年も待たせてしまって⋯⋯」
 夏希が優しく口を開いた。
「佐伯さん、お二人は怒ってなんかいないと思います。きっと、佐伯さんが自分たちを愛し続けてくれたことを知っているから」
 琴音さんが穏やかに付け加えた。
「愛は時間を超えるものです。どれだけ月日が流れても、愛の前では意味をなしません」
 佐伯さんは深呼吸をした。その肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。
 琴音さんが部屋の準備を整えてくれる。行灯が静かに灯され、薄い線香の香りが神聖な空気を作り出していく。いつもとは違う、特別な空間。
「段階的に進めましょう」
 夏希が僕の言葉を伝えた。
「最初は穏やかな記憶から。いきなり津波の恐怖と向き合う必要はありません」
 佐伯さんが頷くと、琴音さんが静かに言った。
「今日体験するのは、愛に満ちた海です。美咲ちゃんが貝殻を拾った、あの優しい海」
 奥の部屋で、円形の畳に座る。琴音さんが佐伯さんに優しく説明した。
「写真、ボイスメール、間取り図を、しっかりと持っていてください。それらが道しるべになります」
 佐伯さんは三つの大切な宝物を胸に抱いた。まるで、家族の魂を抱きしめるみたいに。
 夏希が僕の誘導を伝える。
「まず、穏やかな記憶から始めましょう。美咲ちゃんの笑い声、千鶴さんのピアノの音色、日曜日のカレーの匂いを思い出してください」
 佐伯さんは目をそっと閉じた。
「美咲が貝殻を見つけて、手を叩いて喜んでいた顔⋯⋯千鶴がショパンの『雨だれ』を弾いていた午後⋯⋯家族三人でテーブルを囲んだ夕食」
 僕も目を閉じて、佐伯さんの記憶に深く意識を向ける。すると、温かい記憶の波動がじんわりと感じられ始めた。結婚式での幸せそうな笑顔。美咲の誕生の瞬間の感動。家族での海辺の散歩。何気ない日常の中にある、深くて美しい愛情。
 そして、震災前日のボイスメール。『また後で連絡するから』
 その約束された「後で」が、今、ここで実現しようとしていた。
 世界がゆっくりと変わり始める。
 最初に現れたのは、海を見下ろす小さな白い家だった。
 二階建ての温かい家。一階のリビングには夕日がやわらかく差し込み、キッチンからはカレーの香ばしい匂いとショパンの美しいメロディーが聞こえてくる。二階の美咲の部屋の窓からは、まだ穏やかな夕暮れの海がきれいに見えている。
「あ⋯⋯」
 佐伯さんが息を呑んだ。
「我が家だ。まさに、あの頃のままの」
 僕たちは家の玄関に立っていた。記憶の中の家は、愛情で満たされていた。壁にも、空気にも、すべてに家族の愛が染み付いている。
「お帰りなさい」
 玄関のドアを開けると、千鶴さんの記憶が迎えてくれた。エプロンをつけて、いつものように優しく微笑んでいる。ボイスメールで聞いた通りの、愛に満ちた美しい声だった。
「千鶴⋯⋯」
 佐伯さんの声が詰まった。
「パパ!」
 階段から美咲ちゃんの記憶が嬉しそうに駆け下りてきた。六歳の小さな体で、佐伯さんに飛び込んでくる。
「おかえりなさい、パパ!今日ね、海で綺麗な貝殻をたくさん見つけたの!すごくすごく綺麗なの!」
 佐伯さんは美咲ちゃんの記憶をぎゅっと抱きしめた。確かにそこに温かさがあった。小さな体の感触、甘い子供の匂い、無邪気な笑い声。十五年間恋しくて恋しくて仕方なかった、すべて。
「そうか、美咲。どんな貝殻を見つけたんだい?」
「うん!見せてあげる!」
 美咲ちゃんの記憶が嬉しそうに小さな袋を取り出す。
「お気に入りの貝殻がいっぱいなの」
 千鶴さんの記憶がキッチンから明るく声をかけた。
「あなた、お疲れ様。今日は日曜日だから、美咲の大好きなカレーよ」
 佐伯さんが懐かしそうに尋ねた。
「人参は抜いてあるんだろうね?」
「もちろん」
 千鶴さんの記憶が愛しそうに笑った。
「でも、今度は少しずつでも食べられるように頑張ろうね、美咲」
「うーん、人参はなんか変な味がするんだもん」
 美咲ちゃんの記憶が困ったような可愛い顔をする。
 佐伯さんは涙を流していた。でも、それは悲しみの涙じゃなかった。深い愛情と懐かしさに満ちた、温かい涙だった。十五年間待ち続けた再会の涙。
「ずっと、この時間を思い出していました」
 佐伯さんが震え声で言った。
「毎日、家に帰ってくるたびに。二人がいない家に帰るたびに」
 千鶴さんの記憶が優しく微笑んだ。
「私たちも、ずっとあなたのことを想っていたのよ」
「パパは、お仕事で疲れてるのに、いつも私のお話を聞いてくれたね」
 美咲ちゃんの記憶が嬉しそうに言った。
 僕は佐伯さんの記憶をより深く感じ取った。この家での無数の瞬間。朝の慌ただしい時間、夕食の団らん、美咲を寝かしつける時間、千鶴との静かな会話。すべてが愛情に満ちていた。本当に幸せな家族だったんだ。
 でも、記憶の奥で、別の感情も感じられた。海への恐れ。津波のトラウマ。それを乗り越えなければ、本当の別れはできない。僕にとって、これが一番難しい部分になるだろう。
「佐伯さん」
 佐伯さんはゆっくりと振り返り、僕の姿を初めて見て、目を大きく見開いた。
「あなたが⋯⋯記憶式の⋯⋯」
 驚きと、本当にいたのだという安堵感が混じった表情で、佐伯さんは僕を見つめた。
「初めまして」
 僕は静かに言った。
「海を見に行きませんか?」
 佐伯さんの顔が少し強張った。
「海は⋯⋯まだ怖いのです」
「大丈夫です。最初は怖い海ではありません。美咲ちゃんと一緒に散歩した、あの美しい夕暮れの海です」
 美咲ちゃんの記憶が佐伯さんの手をそっと引いた。
「パパ、一緒に海を見に行こう!今日拾った一番綺麗な貝殻、見せたいの!」
「あの夕暮れの散歩、毎日楽しかったわね」
 千鶴さんの記憶も優しく微笑んで頷いた。
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