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第三章
夏の約束
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夏休みになったら、一緒に氷張川の花火大会へ行こうと約束していた。
七月の終わりに毎年開催されている夏祭り。夜には氷張川のちょうど真上に花火が打ち上げられる。
美波はどうやら祭りが好きらしい。
小学生の頃は周りの目を気にして、俺と二人で一緒に行ったことはなかったけれど。今ではもう、彼女は俺と一緒にいることに何のためらいもない。
だから当日は、俺は朝からそわそわしていた。いくら中身が男とはいえ、好きな女の子と二人で花火大会へ行くのだ。俺だけが意識しているのは百も承知だが、それでも俺にとってこれは特別なデート以外の何ものでもない。
夕方五時に、俺は彼女の家まで迎えに行く予定だった。そういう約束をしていた。
けれど彼女は、それよりも早い時間に俺の家を突然訪ねてきた。
「……へへ。母さんとケンカしちゃった」
俺の家の前で、そう言って力なく笑った彼女の腕から、だらだらと赤い血が垂れていた。
自宅で母親と口論になり、感情的になって、暴れた拍子に食器が割れて、その破片で切ったらしい。手首から肘にかけて、小麦色の肌にはいくつもの切り傷ができていた。
幸い、俺の家には医療用の道具が何でも揃っている。すぐに応急処置をしたが、包帯を巻いた彼女の姿は痛々しかった。
「あーあ。せっかくかっこいい甚平を買ってきたのにな。母さんのせいで破れちゃった」
彼女が纏っているのは紺色の甚平だった。サイズは少し大きめで、あきらかに男性用のものである。これを着て祭りに行くのを彼女は楽しみにしていたようだが、その姿を見た母親に激怒されたようだ。
「なあ、美波。今日は……祭り会場まで行くのは諦めて、うちでゆっくりしていくか? 花火を見るだけなら、山の上からでも見られるだろ」
怪我のこともあるが、何より俺は彼女の精神面が心配だった。こんな状態のまま彼女を人混みの中へ連れていくのは気が引けた。
花火なら山の上からでも十分見える。桜ヶ丘への入口であるS字坂を上り切ったところに、見晴らしの良い公園がある。小さい子どもや老人のいる家庭は、そこから眺める場合も少なくない。
美波は少しだけ残念そうにしていたが、最終的には俺の提案を受け入れた。
「そうだね。それじゃあ、来年こそは一緒に祭り会場まで行こうね。今度はちゃんとした男物の浴衣を買って、母さんにも見つからないようにするから」
そうして夏はあっという間に過ぎていった。
秋が去って冬が来て、やがてまた桜の花が芽吹く頃、俺たちは中学二年生になった。
下級生が入学し、それまで二人きりだった演劇同好会にもまさかの入会希望者が現れる。
どうやら去年の文化祭で披露した演劇が意外と好評だったようで、ゴールデンウィークに突入するまでには新たに三人のメンバーが加わった。
「そろそろ受験のことも考えなきゃいけない時期になってきたな」
梅雨が明け、再び夏休みが近づいてきたある日。俺が何気なくそう言うと、美波は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく吹き出して笑った。
「なんか、凪って変わったよね」
例によって二人で沈み橋の縁に座っていると、彼女がそんなことを言い出した。
「俺が?」
正直、ここ二年ほどの美波の変化が激しすぎて周りが霞んでいるけれど、彼女から見れば、俺も少しは何かが変わっているのだろうか。
「うん。だって小学生の時はさ、凪ってほとんど授業もサボってたじゃん。宿題も全然やってこなかったし、先生に怒られても気にしてなかったし。なのに今じゃ、自分から受験のことに目を向けてるもんね。後輩に対してだって意外と面倒見が良いし。昔、クラスで浮いてたのが嘘みたい」
振り返ってみれば彼女の言う通り、俺は小学校の時とは全く違う生活を送っていた。毎日の授業は当たり前のように受けているし、成績だって悪くはない。いつのまにか友達もできて、先日は生まれて初めて女の子から告白もされた。
そして美波は、どちらかといえば悪い意味で変わったのかもしれない。
スカートを穿くのを嫌がり、普段から学校指定の制服を身につけることはほとんどない。教師に注意されても反抗し、家ではそれが元で母親と何度もケンカをしている。周りからも奇異な目で見られ、今では懇意にしている友人も少ない。
「美波も変わったよな。昔はあれだけ周りの目を気にしてたのに。最近は『男っぽさ』を隠しもしないし、クラスで浮いてるようにも見えるけど、それは気にならないのか?」
「別に気にしてないよ。わざわざ仮面を被って人に好かれようとするよりは、ありのままの自分を曝け出して嫌われた方がまだ良いし。仮面を好きになってもらったって、それは本当の僕じゃないんだから」
「前に言ってた、好きな女の子からも嫌われてもいいのか?」
この質問をするのは、少し勇気がいった。
美波が片想いしている相手は女子であり、その子の恋愛対象はおそらく男子だ。もともと叶わぬ恋だと美波自身も諦めているようだが、同性同士の友人としてなら、美波の振る舞い次第で良い関係を築くことも可能だろう。
けれど彼女は、
「いいんだ。女として受け入れられるくらいなら、男として嫌われた方がまだマシだから」
そう言って、近くに咲いていたヒメジョオンの花を手に取ると、真ん中の黄色い部分を親指と人差し指で挟んで潰し、『あっかんべー』をさせる。
やっぱり聞かない方が良かったかな、と俺は思った。
女として受け入れられるくらいなら、男として嫌われた方がいい——そんな彼女の主張は、彼女に対する俺の想いを真っ向から否定するものだった。
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