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20 来訪の目的
しおりを挟む「凶悪な暴れ竜ね」
そこには、皇帝ワッツァが立っていた。
セティの顔から、血が音を立てて引いていくのがわかった。わたしも似たようなものだったろう。
セティだけは守りたい。彼は、わたしの弟のような存在だ。大した力もないのに、わたしを迎えに来てくれた、可愛い弟。
普通の妻なら、夫を諫めることができるだろう。
けれどわたしは、ワッツァに愛されている妻ではない。
この結婚は機能していない。実質わたしは、雇われたベビーシッターに過ぎない。
残虐な竜王を説得する力などない。
幸い、彼は、対ロシュフォイユ同盟のことは、聞いていなかったらしい。整った浅黒い顔に不気味な笑みを浮かべ、ワッツァは全く別の話を始めた。
「実は、お前をこの国に迎え入れる前に聞いたのだが、メレンクール王の長女には、芳しからぬ噂があってな。なんでも大層淫乱で、男と見れば誰かれ構わず手を出すという話だった。これは、メレンクールからの隊商の商人聞いた。お前が喜ぶからと、装飾品を運んできたのだ。追い返したがな」
「な……」
衝撃のあまり、固まってしまった。
わたしが、淫乱?
男なら見境なく手を出すって?
「にもかかわらず、妃に迎えてやった恩も忘れて、このざまか?」
ワッツァは、ゆったりとした袍をなびかせ、袴をはいている。頭には冠までつけていた。
「政務の途中で連れて来られたのだが、来た甲斐があったというものだ。その男は、お前の従者だろう? 以前、結納の品を持って、メレンクール王から遣わされてきた一団の中にいた。まさか従者にまで手を出していたとはな」
「彼女が淫乱ではないことは、貴方が一番よくご存知でしょう!」
言い返したのは、驚いたことに、セティだった。まるで自分が侮辱されたかのように、ひどく激した口調だ。
わたしは驚いた。あの、自分からは何一つ、やろうとしなかったセティが? 穏やかで、どちらかというと気の弱い少年だったセティが。
仁王立ちになってワッツァを睨み、なおもセティは続ける。
「あなたは、彼女の夫だ。妻が淫乱でなかったことが、すぐにわかったはずだ」
言い返されると思っていなかったのだろう。ワッツァはぽかんとしている。
ややあって、彼は、余裕ありげな笑みを浮かべた。
「初夜のことを言っているのかな? さて、どうであろう。貴人は下々の者に、閨の様子を語らぬものゆえ」
「しらばくれるな! デジレに謝罪しろ。彼女の名誉を傷つけるな!」
ああ、セティは知らないのだ。
わたしが、形だけの妃であることを。
タスイマ島の離宮でワッツァが床を共にしたのは、わたしではなく、カミラという女官なのだ。わたしは一人、冷たい床に横たわり、竜の性欲の激しさに怯えていた。
ワッツァがふんと鼻を鳴らす。
「威勢がいいことだ。だが、目の前で密会の現場を見せつけられたら、夫として、このままにしておくわけにはいかない」
言い終わる前に、ぱらぱらと数人の衛兵が駆け寄ってきた。
「この男を捉えよ」
「はっ!」
セティに向かって、一斉に飛び掛かる。
「セティ!」
思わず叫んだ。
「お願い、止めて!」
セティに駆け寄ろうとしたわたしは、衛兵の一人に腕を掴まれた。
「放して! セティ!」
身を捩って兵士の手を振りほどこうとする。だが、びくともしない。
「見せつけてくれるなあ」
感心したように、わざとらしくワッツァが嘆いてみせた。
「それが、妻が夫の前ですることか」
がっくりとわたしは項垂れた。
わたしが彼の「妃」である間、メレンクールの国は安泰だ。父も、義母も異母妹たちも、身の安全は保障される。ワッツァがわたしを妻と呼ぶのなら、それはむしろ喜ぶべきことなのだ。逆らってはならない。
意外なことに、襲い来る衛兵を、セティは次々と投げ飛ばした。
彼がここまで戦えるとは、正直思わなかった。
そういえば、セティは王立の騎士団に入団していたのだと、今更ながらに思い出した。
けれど、多勢に無勢だ。
衛兵の一人が彼の懐に入った。胸を激しく殴られ、セティは声もなく頽《くずお》れてしまった。
心臓を冷たい手で掴まれた気がした。
「セティ! セティ!」
金切り声で叫ぶ。
セティはぐったりとして動かない。顔が切れ、血が流れている。あの体の曲げ具合は、どこか骨折しているのではないか。
「地下牢へぶち込んでおけ」
不浄なものを見るように眉間に皺をよせ、ワッツァが命じた。
「はっ!」
衛兵たちはあっという間に、傷ついたセティを連れ去っていった。
「話は聞いたぞ」
衣擦れの音を立て、ワッツァが向き直った。
「この宮殿を出て、メレンクールへ逃れようとしていたな。それは、契約違反ではないのかね?」
わたしは唇を噛み締めた。
実際は、セティの誘いは断ったわけだけど、全てを彼の罪にすることはできない。
「メレンクール王も、とんだタヌキだな。結婚するなら娘を差し出すと言っておきながら、婚家から盗み出そうとするとは」
「すべてわたしが悪いのです。わたしが至らなかったばかりに、陛下にご迷惑をおかけしました」
ふん、とワッツァは鼻を鳴らした。
「お前が祖国へ逃げ帰れば、メレンクールはその日のうちに、滅びるであろう。天は火を放ち、雷電が空を伝い、大地は焦土となる。人も動物も、一瞬で形を失い、蒸発する。後には、有毒な気が全てを覆うのみ。荒廃した国土には、今後数千年に亘って生きとし生けるものは立ち入ることができない」
わたしは震えあがった。
「どうか、どうかメレンクールに安寧を。わたしは決してロシュフォイユとその皇帝には逆らいません」
「賢い選択だ」
まだ不愉快そうだったが、それでもワッツァはそう言った。
「ですから、お願いです。どうかセティを……」
言いかけてすぐ、それが藪蛇だったと悟った。
「まだ言うか!」
鎮まりかけた怒りが再燃した。
ワッツァの目が、再び赤く光る。
「自分の持ち物を盗みに来たコソ泥を、簡単に許すと思うか? あの男には、地下牢で生涯を終えてもらう。脆弱な人間には、そう長くもち堪えられまい」
深く深く、わたしは頭を垂れた。
セティは、兄であり、弟でもある存在だ。その彼が、地下牢で死を待つのを、わたしはどうすることもできないというのか。
せめて、本当の意味でワッツァの妃であったなら!
今更ながらに、自分の魅力のなさ、ダメさ加減が悔しくてならない。
わたしの絶望を、従順の証と見たのだろうか。ワッツァの機嫌が幾分治った。
「本来ならこの場で嚙み殺すところだったのだ。だが、宮殿を血で汚すことは好まぬゆえ」
そのまますたすたと歩き出す。
これだけは言わなければならないとわたしは思った。
「陛下。バートラフは、貴方がいらっしゃるのを、今か今かと待ち焦がれていました。ひどい熱が出ているのです」
ワッツァの足が止まった。
「今日、俺が何しに来たかわかるか?」
くるりと振り返る。
赤い目が、恐ろしい光を放った。
「出来損ないの半竜を殺しに来たのだ。義兄弟の契りを結んだオーギュストだけではなく、お前をさらいに来た輩にまで貶められる無能さは、もはや許すことができない」
息が、詰まった。
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