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2 予感
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──幼い頃、メルキオの不注意で怪我をした。
その時についた小さな傷が、今も額にうっすら残っている。
九歳だった彼は、涙を浮かべながら言った。
「大人になったら、リアと結婚して責任取るよ。本当にごめん」
「じゃあ、大人になっても同じ気持ちなら、結婚しましょう」
私はそう答えた。
──なぜなら、私は“前世の記憶”を持っていたから。
前の人生で、私は結婚に失敗している。
人の心は、時とともに簡単に変わってしまう。
それを痛いほど知っていた。
けれど、あの誠実なメルキオなら約束を果たしてくれる。
そう信じていた。
だから、彼がティオラと親しくしていても──嫉妬する必要なんて、ないはずだった。
……なのに。
胸の奥がざらついて、嫌な予感がどうしても拭えなかった。
◆◆◆
午後の授業は選攻ごとに分かれている。
メルキオとティオラは音楽教室へ向かっていた。
肩を寄せて歩く二人の背中は、まるで恋人同士みたいだった。
──ティオラは侯爵家との婚約が決まってから、他の男性と親しくしないよう言われていたはずなのに。
今の彼女は、そんな忠告などなかったかのようにメルキオの腕に手を掛けている。
今だけ、我慢すればいい。
いずれメルキオは私と結婚する。
だって、それは“約束”なのだから。
「リア、早く行こうよ」
親友のレインの声に、私ははっとして顔を上げた。
「ごめん、すぐ行くわ」
二人で美術工芸の教室へ向かう。
絵具の匂いと木を削る音、金属を叩く音が混ざる、私の大好きな空間だ。
席につくと、レインは彫刻刀を手に取り、私はスケッチブックを開く。
前の人生でも、私は可愛いものが好きだった。
離婚して傷ついた心を癒してくれたのは、小さな動物のグッズたちだった。
この世界には、そんな可愛いものがない。
だから私は描く。
リボンをつけた猫、帽子をかぶったウサギ──見ているだけで心が和む、私だけの小さな世界。
窓の外から風に乗ってピアノの音が流れてきた。
──メルキオの得意な曲、「初恋」。
……まさか、ティオラに向けて弾いてるの?
「ねぇ、今日は雑貨屋に寄る日でしょ?」
レインが微笑んで言う。
「うん、今日も絵がたくさん描けたし」
私の絵を、雑貨屋の店主は「可愛いわね」と言って買い取ってくれる。
レインは私の絵をもとに、ちっちゃな木彫りの人形を作っていて、それも買い取ってくれる。
この世界では“可愛い”はまだ芸術として認められない。
美術の先生にも最初は呆れられたけれど、今ではもう何も言われなくなった。
──私は、私の好きなものを描く。
たとえ誰に笑われても。
◆◆◆
授業が終わると、いつものようにメルキオが迎えに来た。
けれど今日は、その隣にティオラがいる。
「ねぇ、前みたいに一緒に帰ってもいいかしら? 一人だとちょっと不安なの」
甘い声で言うティオラに、メルキオはあっさりうなずいた。
「しばらくは僕たちと帰った方がいいと思うんだ。リアも、そう思うよね?」
──“僕たち”じゃなくて、ティオラは“あなた”と帰りたいのよ。
そう言いかけた言葉を、私は呑み込む。
「今日は買い物があるの。レインと帰るから、どうぞご自由に」
少し冷たく言い放つと、二人はわずかに顔をこわばらせた。
「……そう。じゃあ、ティオラを送っていくよ。また明日ね、リア」
「ええ、さようなら」
笑顔で見送る私を、ティオラは振り返りざまに「クスッ」と笑った。
「いいのリア?」
「ええ、彼の初恋は、なかなか吹っ切れないみたいだから」
「メルキオったら、昨日までと別人みたい」
「ティオラに頼られて浮かれてるのよ。あの子、利用してるだけなのに」
「ううん、あれは“鷹の目”よ。獲物を逃がす気なんて、これっぽっちもなさそう」
「……ティオラは上昇志向の塊だもの。メルキオじゃ、相手にならないわ」
婚約を解消されたティオラは、きっとガルシオ侯爵家よりも上を狙っている。
そして、彼女を溺愛するお祖父様が、その願いを叶えてしまうのだろう。
──そう思っていた。
けれど、私のその考えが間違っていたと気づくのは、そう遠くない日のことだった。
その時についた小さな傷が、今も額にうっすら残っている。
九歳だった彼は、涙を浮かべながら言った。
「大人になったら、リアと結婚して責任取るよ。本当にごめん」
「じゃあ、大人になっても同じ気持ちなら、結婚しましょう」
私はそう答えた。
──なぜなら、私は“前世の記憶”を持っていたから。
前の人生で、私は結婚に失敗している。
人の心は、時とともに簡単に変わってしまう。
それを痛いほど知っていた。
けれど、あの誠実なメルキオなら約束を果たしてくれる。
そう信じていた。
だから、彼がティオラと親しくしていても──嫉妬する必要なんて、ないはずだった。
……なのに。
胸の奥がざらついて、嫌な予感がどうしても拭えなかった。
◆◆◆
午後の授業は選攻ごとに分かれている。
メルキオとティオラは音楽教室へ向かっていた。
肩を寄せて歩く二人の背中は、まるで恋人同士みたいだった。
──ティオラは侯爵家との婚約が決まってから、他の男性と親しくしないよう言われていたはずなのに。
今の彼女は、そんな忠告などなかったかのようにメルキオの腕に手を掛けている。
今だけ、我慢すればいい。
いずれメルキオは私と結婚する。
だって、それは“約束”なのだから。
「リア、早く行こうよ」
親友のレインの声に、私ははっとして顔を上げた。
「ごめん、すぐ行くわ」
二人で美術工芸の教室へ向かう。
絵具の匂いと木を削る音、金属を叩く音が混ざる、私の大好きな空間だ。
席につくと、レインは彫刻刀を手に取り、私はスケッチブックを開く。
前の人生でも、私は可愛いものが好きだった。
離婚して傷ついた心を癒してくれたのは、小さな動物のグッズたちだった。
この世界には、そんな可愛いものがない。
だから私は描く。
リボンをつけた猫、帽子をかぶったウサギ──見ているだけで心が和む、私だけの小さな世界。
窓の外から風に乗ってピアノの音が流れてきた。
──メルキオの得意な曲、「初恋」。
……まさか、ティオラに向けて弾いてるの?
「ねぇ、今日は雑貨屋に寄る日でしょ?」
レインが微笑んで言う。
「うん、今日も絵がたくさん描けたし」
私の絵を、雑貨屋の店主は「可愛いわね」と言って買い取ってくれる。
レインは私の絵をもとに、ちっちゃな木彫りの人形を作っていて、それも買い取ってくれる。
この世界では“可愛い”はまだ芸術として認められない。
美術の先生にも最初は呆れられたけれど、今ではもう何も言われなくなった。
──私は、私の好きなものを描く。
たとえ誰に笑われても。
◆◆◆
授業が終わると、いつものようにメルキオが迎えに来た。
けれど今日は、その隣にティオラがいる。
「ねぇ、前みたいに一緒に帰ってもいいかしら? 一人だとちょっと不安なの」
甘い声で言うティオラに、メルキオはあっさりうなずいた。
「しばらくは僕たちと帰った方がいいと思うんだ。リアも、そう思うよね?」
──“僕たち”じゃなくて、ティオラは“あなた”と帰りたいのよ。
そう言いかけた言葉を、私は呑み込む。
「今日は買い物があるの。レインと帰るから、どうぞご自由に」
少し冷たく言い放つと、二人はわずかに顔をこわばらせた。
「……そう。じゃあ、ティオラを送っていくよ。また明日ね、リア」
「ええ、さようなら」
笑顔で見送る私を、ティオラは振り返りざまに「クスッ」と笑った。
「いいのリア?」
「ええ、彼の初恋は、なかなか吹っ切れないみたいだから」
「メルキオったら、昨日までと別人みたい」
「ティオラに頼られて浮かれてるのよ。あの子、利用してるだけなのに」
「ううん、あれは“鷹の目”よ。獲物を逃がす気なんて、これっぽっちもなさそう」
「……ティオラは上昇志向の塊だもの。メルキオじゃ、相手にならないわ」
婚約を解消されたティオラは、きっとガルシオ侯爵家よりも上を狙っている。
そして、彼女を溺愛するお祖父様が、その願いを叶えてしまうのだろう。
──そう思っていた。
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