27 / 38
第三章
第三章 ~『魔物暴走』~
しおりを挟む緑が鬱蒼と茂る森の中、木々の葉が昼間の陽光を遮り、地面には暗い影が広がっている。
その中を、息を切らしながら走ってきたヴェルスタンは、倒木の影に身を潜めた。
「はぁっ、はぁ……ここまで来れば……」
彼は地面に膝をつき、手のひらで額の汗を乱暴に拭う。呼吸が荒く、体は震えているが、その震えは疲労よりも、絶望から来るものだ。
ここはシュトラール辺境領でも人が滅多に足を踏み入れない禁域に近い森だ。街道からもかなり外れており、地図にも載らないほどの場所だ。
「街からも離れた……ここなら、そう簡単には見つからない」
ひとまずの安堵が胸を満たしかけたそのとき、遠くで不気味な鳥の鳴き声が響く。森に住む魔物は夜行性のものも多い。だが昼間でも油断はできない。
ヴェルスタンは背後をちらりと振り返り、剣の柄に手をかけながらも呟く。
「だが、ある意味では安心か……」
もし人海戦術を使って森を探されれば、居場所を特定されるのも時間の問題だ。しかしこの森の中なら、魔物の脅威があるため、実力者以外は踏み込めない。人数に頼った探索ができないのだ。
「……とはいえ、油断もできない。緊張は拭えんな」
倒木に背を預け、空を見上げるが、木々の枝が視界を塞ぎ、空など一欠けらも見えない。まるで世界から隔絶されたような閉塞感が、彼の胸を締めつける。
「いや、逃げ切れたとしても、私は終わりか……」
盗賊に扮して商人を襲った証拠を握られたのだ。もう言い逃れはできない。王家に使える執務官としての立場は諦めなければならない。
「エリス、あの女さえいなければ……」
録音がなければ、のらりくらりと釈明できた。だがエリスの機転によって、それは封じられてしまった。
「このままではアストレア殿下も私を見限るに違いない」
冷酷で成果主義的な人物だ。役立たずの部下に情をかけるはずもない。
「いや、見限るどころか……口封じされても……」
最悪の可能性が脳裏をよぎる。
ヴェルスタンはアストレアの直近として、彼の悪事に付き合ってきた。それが表に出る危険を犯すはずもない。口を割る前に何らかの対処をするはずだ。
「私は……殺されるかもしれない……」
その言葉は冗談でも妄想でもない。背筋を冷たいものが流れ、肩が震える。もはや、王都に戻ることもできず、辺境にもいられない。
「こんなはずでは、なかったのに……」
顔を覆い、嗚咽のような呻きが漏れる。かつては有能な執務官と持て囃され、アストレアの側近として将来を嘱望されていた男が、今や魔物の潜む森でひとり震えている。
「……惨めだな、私は」
口から自然とこぼれた言葉に、唇がひきつる。
そのときだった。
遠くから獣の遠吠えが届く。腹の底に響くような咆哮に、ヴェルスタンの背筋が凍る。
「やはり魔物がいたか」
即座に立ち上がり、腰の剣に手をかける。
気配は一つでは足りない。獣の影が地面を走り、そして、茂みが割れた。
牙を剥いた銀灰色の狼が、一気に飛びかかってくる。その目は血走り、腹を空かせた猛獣のものだった。
「腐っても私は近衛兵だ!」
ヴェルスタンの剣が横に薙がれ、狼の体が空中で切り裂かれる。血飛沫が宙を舞い、土に濃い染みを作る。
直後、二体目が斜めから飛び込んでくる。ヴェルスタンは身を屈め、その勢いを利用して背後から斬り上げた。
「遅いんだよ!」
吠える暇もなく、二体目の狼も倒れる。最後の一体が距離を取って唸り声を上げるが、それ以上は近づかない。勝てないと悟ったのか、遠くへ逃げ去っていく。
ヴェルスタンは呼吸を整えながら、倒れた狼を見下ろす。血の匂いが鼻をつき、剣先から赤い滴がぽたぽたと落ちる。
「まだ息があるのか。さすがは魔物、しぶといな」
ヴェルスタンは、血まみれの狼を見下ろしていた。息は浅く、断末魔のような喘ぎがその喉から漏れている。
だがヴェルスタンは魔物を憐れんだりはしない。むしろ、利用価値があると閃きが浮かぶ。
(そうだ……私には魔術がある……)
ヴェルスタンは魔物の精神に干渉し、意志を奪い、本能だけを暴走させる魔術を扱えた。
王都の審問官に「悪魔の能力」とまで評された異端の魔術は、あまりに影響が大きすぎるため、今までは使用を封じてきた。
「どうせ破滅するのなら、全部壊してやるさ……この領地ごと、地に堕としてやる」
ヴェルスタンは片手を魔物に向け、黒い霧を吹き出す。
すると瀕死だった狼の身体が痙攣し、よろめくように足を踏み出した。苦しげに吠えるその声は、もはや理性の影すら残していない。
瞳が赤黒く染まり、牙は伸び、肉体が異様に膨れあがる。
「……いい子だ。そのまま街へ向かえ。暴れて、壊して、恐怖を刻み込め」
狼が咆哮を上げ、走り出す。ヴェルスタンはそれを見送りながら、にやりと笑う。
「この森なら魔物に困ることはない」
彼は森の奥に目を向け、木々の間に潜む気配を感じ取る。この数え切れないほどの魔物を街で暴れさせれば、きっと領地の評判は地に落ちる。
「見ていろ、エリス、クラウス! 私を追い詰めたことを後悔させてやる!」
森の中でヴェルスタンが叫ぶ。怨嗟の籠もった声は、樹木に反射して反響するのだった。
161
あなたにおすすめの小説
醜貌の聖女と呼ばれ、婚約破棄されましたが、実は本物の聖女でした
きまま
恋愛
王国の夜会で、第一王子のレオンハルトから婚約破棄を言い渡された公爵令嬢リリエル・アルヴァリア。
顔を銀の仮面で隠していることから『醜貌の聖女』と嘲られ、不要と切り捨てられた彼女は、そのまま王城を追われることになる。
しかし、その後に待ち受ける国の運命は滅亡へと向かっていた——
偽りの呪いで追放された聖女です。辺境で薬屋を開いたら、国一番の不運な王子様に拾われ「幸運の女神」と溺愛されています
黒崎隼人
ファンタジー
「君に触れると、不幸が起きるんだ」――偽りの呪いをかけられ、聖女の座を追われた少女、ルナ。
彼女は正体を隠し、辺境のミモザ村で薬師として静かな暮らしを始める。
ようやく手に入れた穏やかな日々。
しかし、そんな彼女の前に現れたのは、「王国一の不運王子」リオネスだった。
彼が歩けば嵐が起き、彼が触れば物が壊れる。
そんな王子が、なぜか彼女の薬草店の前で派手に転倒し、大怪我を負ってしまう。
「私の呪いのせいです!」と青ざめるルナに、王子は笑った。
「いつものことだから、君のせいじゃないよ」
これは、自分を不幸だと思い込む元聖女と、天性の不運をものともしない王子の、勘違いから始まる癒やしと幸運の物語。
二人が出会う時、本当の奇跡が目を覚ます。
心温まるスローライフ・ラブファンタジー、ここに開幕。
【完結】辺境伯の溺愛が重すぎます~追放された薬師見習いは、領主様に囲われています~
深山きらら
恋愛
王都の薬師ギルドで見習いとして働いていたアディは、先輩の陰謀により濡れ衣を着せられ追放される。絶望の中、辺境の森で魔獣に襲われた彼女を救ったのは、「氷の辺境伯」と呼ばれるルーファスだった。彼女の才能を見抜いたルーファスは、アディを専属薬師として雇用する。
偽聖女と追放された私は、辺境で定食屋をはじめます~こっそり生活魔法で味付けしていたら、氷の騎士団長様が毎日通ってくるんですけど!?~
咲月ねむと
恋愛
【アルファポリス女性向けHOTランキング1位達成作品!!】
あらすじ
「役立たずの偽聖女め、この国から出て行け!」
聖女として召喚されたものの、地味な【生活魔法】しか使えず「ハズレ」の烙印を押されたエリーナ。
彼女は婚約者である王太子に婚約破棄され、真の聖女と呼ばれる義妹の陰謀によって国外追放されてしまう。
しかし、エリーナはめげなかった。
実は彼女の【生活魔法】は、一瞬で廃墟を新築に変え、どんな食材も極上の味に変えるチートスキルだったのだ!
北の辺境の地へ辿り着いたエリーナは、念願だった自分の定食屋『陽だまり亭』をオープンする。
すると、そこへ「氷の騎士団長」と恐れられる冷徹な美形騎士・クラウスがやってきて――。
「……味がする。お前の料理だけが、俺の呪いを解いてくれるんだ」
とある呪いで味覚を失っていた彼は、エリーナの料理にだけ味を感じると判明。
以来、彼は毎日のように店に通い詰め、高額な代金を置いていったり、邪魔する敵を排除したりと、エリーナを過保護なまでに溺愛し始める。
最強の騎士団長と騎士たちに胃袋を掴んで守られながら、エリーナは辺境で幸せなスローライフを満喫中?
虐げられた聖女は精霊王国で溺愛される~追放されたら、剣聖と大魔導師がついてきた~
星名柚花
恋愛
聖女となって三年、リーリエは人々のために必死で頑張ってきた。
しかし、力の使い過ぎで《聖紋》を失うなり、用済みとばかりに婚約破棄され、国外追放を言い渡されてしまう。
これで私の人生も終わり…かと思いきや。
「ちょっと待った!!」
剣聖(剣の達人)と大魔導師(魔法の達人)が声を上げた。
え、二人とも国を捨ててついてきてくれるんですか?
国防の要である二人がいなくなったら大変だろうけれど、まあそんなこと追放される身としては知ったことではないわけで。
虐げられた日々はもう終わり!
私は二人と精霊たちとハッピーライフを目指します!
無一文で追放される悪女に転生したので特技を活かしてお金儲けを始めたら、聖女様と呼ばれるようになりました
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
スーパームーンの美しい夜。仕事帰り、トラックに撥ねらてしまった私。気づけば草の生えた地面の上に倒れていた。目の前に見える城に入れば、盛大なパーティーの真っ最中。目の前にある豪華な食事を口にしていると見知らぬ男性にいきなり名前を呼ばれて、次期王妃候補の資格を失ったことを聞かされた。理由も分からないまま、家に帰宅すると「お前のような恥さらしは今日限り、出ていけ」と追い出されてしまう。途方に暮れる私についてきてくれたのは、私の専属メイドと御者の青年。そこで私は2人を連れて新天地目指して旅立つことにした。無一文だけど大丈夫。私は前世の特技を活かしてお金を稼ぐことが出来るのだから――
※ 他サイトでも投稿中
婚約破棄された宮廷薬師、辺境を救い次期領主様に溺愛される
希羽
恋愛
宮廷薬師のアイリスは、あらゆる料理を薬学と栄養学に基づき、完璧な「薬膳」へと昇華させる類稀なる才能の持ち主。
しかし、その完璧すぎる「効率」は、婚約者である騎士団の副団長オスカーに「君の料理には心がない」と断じられ、公衆の面前で婚約を破棄される原因となってしまう。
全てを失ったアイリスが新たな道として選んだのは、王都から遠く離れた、貧しく厳しい北の辺境領フロスラントだった。そこで彼女を待っていたのは、謎の奇病に苦しむ領民たちと、無骨だが誰よりも民を想う代理領主のレオン。
王都で否定された彼女の知識と論理は、この切実な問題を解決する唯一の鍵となる。領民を救う中で、アイリスは自らの価値を正当に評価してくれるレオンと、固い絆を結んでいく。
だが、ようやく見つけた安住の地に、王都から一通の召喚状が届く。
婚約破棄された竜好き令嬢は黒竜様に溺愛される。残念ですが、守護竜を捨てたこの国は滅亡するようですよ
水無瀬
ファンタジー
竜が好きで、三度のご飯より竜研究に没頭していた侯爵令嬢の私は、婚約者の王太子から婚約破棄を突きつけられる。
それだけでなく、この国をずっと守護してきた黒竜様を捨てると言うの。
黒竜様のことをずっと研究してきた私も、見せしめとして処刑されてしまうらしいです。
叶うなら、死ぬ前に一度でいいから黒竜様に会ってみたかったな。
ですが、私は知らなかった。
黒竜様はずっと私のそばで、私を見守ってくれていたのだ。
残念ですが、守護竜を捨てたこの国は滅亡するようですよ?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる