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乱暴に部屋から飛び出して来たアラキノの鬼気迫る表情に、玄関口にいたジルたちは狼狽えた。
「アラキノ、どうしたの!」
ジルの声に構うことなく、アラキノは階段を駆け上る。
師は、廊下の奥にあるあの部屋にはいないとわかっていた。
アラキノが階段を登り切った時には、それはもう既に始まっていた。
探すまでもなく、床に膝をついて、アラキノの部屋の前にぐったりと座り込む師の姿があった。壁についた手が、見る見るうちに細くなり、皺が寄っていく。まるで急速に老いて、枯れていくようだった。
「師匠!」
「……おや、はやかったね、アラキノ」
アラキノはその身体をそっと支える。触れただけで折れるのではないかと思ったが、そうはならなかった。
たどたどしい足音を立てながら歩く師を支えたまま慎重に運び、すぐそこにある自室のベッドに横たえた。その間にも、どんどん師の身体は枯れ衰えていく。
「師匠、これは……」
「なるほど、精霊の加護が消えると、こうなるのか……面白いと思わないかい、アラキノ」
力なく横たわった師が、いたずらが成功した子供のように笑う。その音は、遠い世界の出来事のようにアラキノの耳をかすめるだけで、真面目に鼓膜を揺らさない。
――もう、間に合わない。
アラキノの勘が、そう告げている。それでも、青年の心はそれに抗おうとする。
「っ、ヴォルトゥニカ!」
覚えたばかりの雷光の精霊の名を呼ぶが、続く言葉が出てこなかった。どんな魔術でもこの事態を打開することはできないとわかっていた。
「……ようやく、時が来た」
急速な変化、それも、死へと向かう変化の最中だというのに、ユーダレウスの眼差しはいつにもまして穏やかだった。その視線の先では、青白い光の帯が優雅に宙を揺蕩っている。
責められているわけでもないのに、アラキノは俯いた。変化を続ける師の姿を見ていられなかった。
隣に並びたかった、それだけなのに。そんなことを願ったばっかりに、大事な人を喪うのか、自分は。
だって、そうだろう。この人から精霊の加護を奪ったのはおそらく――。
「傍においで、アラキノ」
まねかれるまま、アラキノは師の枕元に跪いた。その動きはぎこちなく、身体の全てが凍ったように強張っていた。
「どうして……」
「その顔は初めて見たなあ」
自分が今どんな顔をしているのかなど、どうでもよかった。相も変わらず、自分を揶揄うようなことばかり言うその声音が秋の暮れの枯れ葉のようで、やせ細っていく姿に縋り付きたくなるのを抑えるのに忙しかったからだ。
「大丈夫。お前のせいじゃない。すべて、私のしたことだ。私が仕組んだことだ……ようやく、彼らの名を、呼んでくれたね」
その言葉に、アラキノの聴覚が一瞬消えた。聞き返す決心をする前に、師は言葉の続きを繰り出す。
「やっと、彼らの渇望を、満たしてやれた」
どうして。どうしてそんなことを。
初めて味わう泥濘のような絶望に苛まれるアラキノの頬に、力ない指が触れた。
「あの子たちは、もうずっと、名を呼ばれることを望んでいた……誰でもない、アラキノ、お前に呼ばれることを」
師の手が、アラキノの髪を一束つまんだ。続けて、見開いたままで強張った鋭い目元に枯れた親指が触れる。
どちらも精霊が特別愛する色をしていると、師はいつも言っていた。
触れていた手が離れ、師が干からびた喉で咳込んだ。息をするたびに、ひゅうひゅうと、木枯らしのような音がした。
止める手立てはないのだろうか。師ならば、何か知っているのではないだろうか。
しかし、アラキノが口をきく前に、師が先に言葉を紡ぐ。
意図的に遮られている。アラキノはそれに気が付いていたが、師の声を押しのけることはできなかった。
「……遅かれ早かれ、いずれこうなるだろうとは思っていたんだ。お前の色は、彼らにとって、狂おしいほどに魅力的だから」
だから、師についていた精霊たちは、あんなにも簡単にアラキノに靡いたとでもいうのか。瞳と髪の色が気に入った、たかがそんなことで。そもそも先に結んでいた契約があるというのに。
一気にアラキノの身体の内側が燃えた。
「そんな、そんな理不尽がまかり通るわけが……っ!」
「アラキノ、これを理不尽と思うのは、人間の都合だ。彼らにとっては、こうなることが当たり前で、本能なんだ」
窘めるときの顔をした師の指が、額に突きつけられる。もやもやとした感覚が不快で、アラキノはぐっと眉間に皺を寄せた。
「お前が、ものを食べるのと同じ……眠るのと同じ……息をするのと同じ。酷い渇きを潤すものが目の前にあったから、手を伸ばした。それを、誰が責められる?」
ゆっくりと皺を伸ばすように、かさついた親指がアラキノの眉の間を滑る。
「忘れてないだろうね、アラキノ。そもそも、彼らの道理を曲げていたのは、我々の方だ」
だから、契約の破棄は精霊に決定権を預けられる。そうすることで、彼らの自由を守るために。
頭では理解していた。彼ら精霊自身も自らの本能に抗えないのだということもわかっていた。
それでも心では飲み込めずに、アラキノは黙り込む。精霊への怒りではない。ただ、この場に降りかかっている、自分にとっての理不尽への駄々だった。
横たわるその人は何を思ったのだろうか。明るく聞こえる声色で「それにしても」と呟いた。アラキノが無意識に視線で反応すると、青い色の瞳が嵌る目元が緩んだ。
「三種もの精霊の名を一度に呼ぶとは……アラキノ、あの場所で、お前には何が見えたか、教えておくれ」
あの場所。やはり、この人も同じ道を辿ったのだ。
わずかな逡巡の後、アラキノは震える喉を堪えて師の知的探究心を満たすために口を開いた。
「……白い、平原です。遠くに、光の柱が見えました。精霊たちは、狼の姿で……」
「狼か、いいね。格好いい。鎖……あの白いひらひらはどうなった?」
「狼に、多分、雷光に舐められて弱っていました。その後で俺が……俺が、魔術を成功させたら、解けて消えました」
相槌を打ちながら静かに聞いていた師の青い瞳が色を変える。
一瞬、その瞳の中にきらめく星が散ったような気がして、アラキノは目を見張る。もっとよく見ようと瞬きをした間に、その色は元の平凡な青に戻っていた。
「……素晴らしい。上出来だ」
アラキノは自慢げに微笑む師を見下ろした。
先ごろ、アラキノの頬を愛しげに撫でた指は、最早、人の皮を張り付けた棒切れだった。
終わる。この人が終わってしまう。それは、アラキノにとってまごうことなき恐怖だった。いつもの師の手が、情けなく震える自分の手を握ってはくれないかと願う自分に辟易した。
「恐ろしい、思いをさせて……すまないね、アラキノ」
誰よりも長い時を生きていたこの魔術師は、死を恐れていなかった。
そして今、好奇心の赴くままにそこへ旅立とうとしている。
この人はずっと、安らぎを求める仄暗い願望ではなく、ひたすら知的探究心を満たしたい精神のもとで、それを求めていたのだ。気が付いてしまったアラキノの短い嘆息がやけにうるさく響く。
口では申し訳なさそうに謝っているくせに、その顔は途方もないほどに満ち足りた顔をしているのが良い証拠だ。
けれど、今まで『ユーダレウス』は、自らの手でそれを手に入れることはしなかった。
人としての倫理観がはたらいたのかもしれない。アラキノが推察した通り、不死だったのかもしれない。あるいは、精霊の加護がそうさせなかったのかもしれない。
だからなのか。
この人が自分を拾い育ててくれたのは、己を旅立たせてくれる弟子を探していただけだったのか。自分はまんまとその企みに嵌ってしまったのか。
アラキノは震えを止めるために唇を噛む。薄く血の味が滲んだ。
すべての弟子たちにとって、そして存在を知る者にとって、『ユーダレウス』は完璧そのものだった。こんな風に弱り切って死の床に臥すだなんて、一番相応しくない存在だった。
そして、アラキノにとって師は、母であり、父であった。愛と名のつくものを感じられる、唯一の存在だった。
自分の弟子が心から信頼し慕っていることを知りながら、なんという惨いことをさせるのか。それとも、自分がこうして慕っていることすら、優しい嘘に育まれた偽りだということか。
何て身勝手な。酷い人だ。嘘つき。
いくつも、思いつくままに恨み言を投げつけたかった。けれど、どの言葉も喉の奥に詰まって、一つも外には出てこなかった。
何故なら、今アラキノが思い描いたようなことは、ここで横たわる人の心には微塵もないという事を、身をもって知っているからだ。
いつだって、触れてくるその手は温かく、向けられる思いやりは全て真摯だった。泣きたくなるほど柔らかい眼差しは、素直な愛情に満たされていた。
『ユーダレウス』は弟子の一人一人を我が子のように愛し、人として向き合い、育み、そして、いつ訪れるのか、来るかどうかもわからない終わりの日を、旅立つ日が来ることを、ただのんびりと待っていた。それだけだ。
そうした日々の中で、ある晩偶然見つけた子供が、精霊に特別愛される色を二つも持っていて、その子供は自ら魔術師になることを望み、師のような不死を望んだ。
度重なる偶然。それは、悠久を生きた『ユーダレウス』にとって、そして契約していたふたりの精霊にとって、最初で最後の好機であった。それだけのことだ。
『それだけ』のはずなのに、アラキノは胸に重い罪悪感を抱えていた。
「身勝手な師匠で……幻滅したかい?」
アラキノの胸の内に蔓延る罪悪感を、師は全て自分の身勝手の一言で押し流そうとする。
「……お前に、永劫を押し付けた私を、許してほしい」
アラキノは「そんなことはない、選んだのは俺だ」と言葉を並べて必死に首を横に振った。
――流させるものか。これは、この罪の意識は、後悔は、苦しみは、俺が背負うべきものだ。
それを背負って持って行かれてしまったら、この手にはもう、何も残らない気がした。
首を振るアラキノの手の甲を、皺が寄り、血管の浮いた手が駄々っ子をなだめる手つきでゆったりと叩く。急速に老いた手だったが、覚えのある温度にアラキノはわずかに安堵した。
「アラキノ……この世界をどう思う?」
落ち込みすぎた末弟子の気を逸らそうとしているのだろうか。
唐突に場違いなことを問いかけられて、アラキノはにわかに苛立った。横たわるその人を睨めば、申し訳なさそうな眼差しが返され、ばつの悪い思いで俯く羽目になった。
この世界をどう思うかだなんて。そんなこと、答えられるわけがなかった。
アラキノの中に色濃く残るのは『ユーダレウス』のいる世界だけだ。この先に見たかった世界も『ユーダレウス』が存在している世界だった。アラキノにとって、世界は『ユーダレウス』がいなくては成立しない。
――行くな、生きて。どうしても行くというのなら、自分も。
溢れた想いが頬を伝う。師を睨みつけて縋る目に、もう決して叶わない虚しい願いを込めた。
アラキノの言いたいことが分かったのか、困ったように『ユーダレウス』は真新しい皺の刻まれた目尻を下げる。
「おいで、アラキノ」
そう言って、腕を伸ばそうとするその人にはもう、起き上がってアラキノを抱き締める力は残っていなかった。
代わりに、アラキノがその枯れた身体を抱き締めた。不用意に力を籠めたら、安い砂糖菓子のように崩れてしまいそうで恐ろしかった。
師に抱き締められたことは数えきれないが、こうして抱き締めた事は初めてだった。ふわりと、薬草の爽やかな香りが鼻をかすめる。美しく、そしてありふれた色だった髪は、いつの間にか真珠のように真っ白になって艶めいていた。
「あんなに、小さかったのに……随分と大きくなったもんだ」
愛しげに呟くその声にはもう、芯がない。身体と同じように、不意に崩れてしまいそうな声だった。
「アラキノ。私の、さいごの弟子」
さいご。改めてその言葉が師の口から出たことに、ぐっと喉が引き攣った。苦しくて、師の服を握る手に力を込めた。
「まったく、こんなに悲しませて……お前の師匠は、とんだ悪党だ」
「……まさか。俺の師は、俺が知る限り、最高の魔術師です」
少しも笑えない軽口に、アラキノは大真面目にそう言い返してやった。腕の中で、師がふっ、ふっ、と短く息を吐いたのを感じた。多分、笑ったのだと思った。
こんな時でもこの人は笑うのかと、頭の片隅の妙に落ち着いた部分が感心していた。
「本当に、お前は、優しい子だ……優しいついでに、もう一つ、わがままを言おうかな」
末の弟子の腕に抱かれたまま、師は残りの力を振り絞るように声を張った。
「アラキノ。お前に私の杖と……『ユーダレウス』……この名を託す。受け取ってくれるかい?」
改めて与えられるまでもなく、杖も、名も、とっくにアラキノを主としていた。精霊たちの真の名を呼んだその瞬間から、そう決まっていた。
それを師がわざわざ言葉にしたのは、アラキノの後ろで呆然としている二人の弟子に知らせる為だった。
異議を唱える者はいない。正確には、二人共、急なことに事態が飲み込めずに、口をきける状態ではなかっただけかもしれない。しかし、たとえ普段通りであっても、彼らは師の取り決めに文句など言うことはなかっただろう。
銀の髪が散る肩越しに二人の姿を確認した師は、アラキノに青い瞳を戻す。問いかけるようなその眼差しに、アラキノは震える歯を食いしばり、神妙に頷いた。もはや、師の最期の望みを叶えるという選択肢のみが、アラキノの前に存在していた。
師は、受け入れたアラキノの頬を月色の髪を巻き込んで撫でた。皺の寄った手の甲に雫が伝った。
もう、この手がこうして褒めてくれることはなくなる。アラキノは、触れているその手がベッドに落ちないように、掴んで自らの頬に押し付けた。
「……お前の、旅路に、幸いあれ」
『ユーダレウス』だったその人は、望みのすべてを叶え、いつも通り穏やかに笑った。
そして、ひっそりと末の弟子の腕の中で眠りについた。
永劫目覚めることのない眠り。この世界からの旅立ち。
その瞬間は、本当に呆気ないものだった。
じわじわと、深い哀しみと絶望がアラキノの喉を締め上げる。
「っ、あ、あなたの、旅路の先に……光あれ……っ」
どうにか絞り出した祈りの言葉は、おそらく、目を閉じたその人にしか届かなかっただろう。
終ぞ、アラキノが一番望んでいた言葉を、誇りであるというその一言を、師が口にすることはなかった。そんなことを、気にする暇すらなかった。
そうして、初めてアラキノの名を呼んだ『ユーダレウス』は、現れた時と同じだけ唐突に、アラキノの世界からいなくなった。
「アラキノ、どうしたの!」
ジルの声に構うことなく、アラキノは階段を駆け上る。
師は、廊下の奥にあるあの部屋にはいないとわかっていた。
アラキノが階段を登り切った時には、それはもう既に始まっていた。
探すまでもなく、床に膝をついて、アラキノの部屋の前にぐったりと座り込む師の姿があった。壁についた手が、見る見るうちに細くなり、皺が寄っていく。まるで急速に老いて、枯れていくようだった。
「師匠!」
「……おや、はやかったね、アラキノ」
アラキノはその身体をそっと支える。触れただけで折れるのではないかと思ったが、そうはならなかった。
たどたどしい足音を立てながら歩く師を支えたまま慎重に運び、すぐそこにある自室のベッドに横たえた。その間にも、どんどん師の身体は枯れ衰えていく。
「師匠、これは……」
「なるほど、精霊の加護が消えると、こうなるのか……面白いと思わないかい、アラキノ」
力なく横たわった師が、いたずらが成功した子供のように笑う。その音は、遠い世界の出来事のようにアラキノの耳をかすめるだけで、真面目に鼓膜を揺らさない。
――もう、間に合わない。
アラキノの勘が、そう告げている。それでも、青年の心はそれに抗おうとする。
「っ、ヴォルトゥニカ!」
覚えたばかりの雷光の精霊の名を呼ぶが、続く言葉が出てこなかった。どんな魔術でもこの事態を打開することはできないとわかっていた。
「……ようやく、時が来た」
急速な変化、それも、死へと向かう変化の最中だというのに、ユーダレウスの眼差しはいつにもまして穏やかだった。その視線の先では、青白い光の帯が優雅に宙を揺蕩っている。
責められているわけでもないのに、アラキノは俯いた。変化を続ける師の姿を見ていられなかった。
隣に並びたかった、それだけなのに。そんなことを願ったばっかりに、大事な人を喪うのか、自分は。
だって、そうだろう。この人から精霊の加護を奪ったのはおそらく――。
「傍においで、アラキノ」
まねかれるまま、アラキノは師の枕元に跪いた。その動きはぎこちなく、身体の全てが凍ったように強張っていた。
「どうして……」
「その顔は初めて見たなあ」
自分が今どんな顔をしているのかなど、どうでもよかった。相も変わらず、自分を揶揄うようなことばかり言うその声音が秋の暮れの枯れ葉のようで、やせ細っていく姿に縋り付きたくなるのを抑えるのに忙しかったからだ。
「大丈夫。お前のせいじゃない。すべて、私のしたことだ。私が仕組んだことだ……ようやく、彼らの名を、呼んでくれたね」
その言葉に、アラキノの聴覚が一瞬消えた。聞き返す決心をする前に、師は言葉の続きを繰り出す。
「やっと、彼らの渇望を、満たしてやれた」
どうして。どうしてそんなことを。
初めて味わう泥濘のような絶望に苛まれるアラキノの頬に、力ない指が触れた。
「あの子たちは、もうずっと、名を呼ばれることを望んでいた……誰でもない、アラキノ、お前に呼ばれることを」
師の手が、アラキノの髪を一束つまんだ。続けて、見開いたままで強張った鋭い目元に枯れた親指が触れる。
どちらも精霊が特別愛する色をしていると、師はいつも言っていた。
触れていた手が離れ、師が干からびた喉で咳込んだ。息をするたびに、ひゅうひゅうと、木枯らしのような音がした。
止める手立てはないのだろうか。師ならば、何か知っているのではないだろうか。
しかし、アラキノが口をきく前に、師が先に言葉を紡ぐ。
意図的に遮られている。アラキノはそれに気が付いていたが、師の声を押しのけることはできなかった。
「……遅かれ早かれ、いずれこうなるだろうとは思っていたんだ。お前の色は、彼らにとって、狂おしいほどに魅力的だから」
だから、師についていた精霊たちは、あんなにも簡単にアラキノに靡いたとでもいうのか。瞳と髪の色が気に入った、たかがそんなことで。そもそも先に結んでいた契約があるというのに。
一気にアラキノの身体の内側が燃えた。
「そんな、そんな理不尽がまかり通るわけが……っ!」
「アラキノ、これを理不尽と思うのは、人間の都合だ。彼らにとっては、こうなることが当たり前で、本能なんだ」
窘めるときの顔をした師の指が、額に突きつけられる。もやもやとした感覚が不快で、アラキノはぐっと眉間に皺を寄せた。
「お前が、ものを食べるのと同じ……眠るのと同じ……息をするのと同じ。酷い渇きを潤すものが目の前にあったから、手を伸ばした。それを、誰が責められる?」
ゆっくりと皺を伸ばすように、かさついた親指がアラキノの眉の間を滑る。
「忘れてないだろうね、アラキノ。そもそも、彼らの道理を曲げていたのは、我々の方だ」
だから、契約の破棄は精霊に決定権を預けられる。そうすることで、彼らの自由を守るために。
頭では理解していた。彼ら精霊自身も自らの本能に抗えないのだということもわかっていた。
それでも心では飲み込めずに、アラキノは黙り込む。精霊への怒りではない。ただ、この場に降りかかっている、自分にとっての理不尽への駄々だった。
横たわるその人は何を思ったのだろうか。明るく聞こえる声色で「それにしても」と呟いた。アラキノが無意識に視線で反応すると、青い色の瞳が嵌る目元が緩んだ。
「三種もの精霊の名を一度に呼ぶとは……アラキノ、あの場所で、お前には何が見えたか、教えておくれ」
あの場所。やはり、この人も同じ道を辿ったのだ。
わずかな逡巡の後、アラキノは震える喉を堪えて師の知的探究心を満たすために口を開いた。
「……白い、平原です。遠くに、光の柱が見えました。精霊たちは、狼の姿で……」
「狼か、いいね。格好いい。鎖……あの白いひらひらはどうなった?」
「狼に、多分、雷光に舐められて弱っていました。その後で俺が……俺が、魔術を成功させたら、解けて消えました」
相槌を打ちながら静かに聞いていた師の青い瞳が色を変える。
一瞬、その瞳の中にきらめく星が散ったような気がして、アラキノは目を見張る。もっとよく見ようと瞬きをした間に、その色は元の平凡な青に戻っていた。
「……素晴らしい。上出来だ」
アラキノは自慢げに微笑む師を見下ろした。
先ごろ、アラキノの頬を愛しげに撫でた指は、最早、人の皮を張り付けた棒切れだった。
終わる。この人が終わってしまう。それは、アラキノにとってまごうことなき恐怖だった。いつもの師の手が、情けなく震える自分の手を握ってはくれないかと願う自分に辟易した。
「恐ろしい、思いをさせて……すまないね、アラキノ」
誰よりも長い時を生きていたこの魔術師は、死を恐れていなかった。
そして今、好奇心の赴くままにそこへ旅立とうとしている。
この人はずっと、安らぎを求める仄暗い願望ではなく、ひたすら知的探究心を満たしたい精神のもとで、それを求めていたのだ。気が付いてしまったアラキノの短い嘆息がやけにうるさく響く。
口では申し訳なさそうに謝っているくせに、その顔は途方もないほどに満ち足りた顔をしているのが良い証拠だ。
けれど、今まで『ユーダレウス』は、自らの手でそれを手に入れることはしなかった。
人としての倫理観がはたらいたのかもしれない。アラキノが推察した通り、不死だったのかもしれない。あるいは、精霊の加護がそうさせなかったのかもしれない。
だからなのか。
この人が自分を拾い育ててくれたのは、己を旅立たせてくれる弟子を探していただけだったのか。自分はまんまとその企みに嵌ってしまったのか。
アラキノは震えを止めるために唇を噛む。薄く血の味が滲んだ。
すべての弟子たちにとって、そして存在を知る者にとって、『ユーダレウス』は完璧そのものだった。こんな風に弱り切って死の床に臥すだなんて、一番相応しくない存在だった。
そして、アラキノにとって師は、母であり、父であった。愛と名のつくものを感じられる、唯一の存在だった。
自分の弟子が心から信頼し慕っていることを知りながら、なんという惨いことをさせるのか。それとも、自分がこうして慕っていることすら、優しい嘘に育まれた偽りだということか。
何て身勝手な。酷い人だ。嘘つき。
いくつも、思いつくままに恨み言を投げつけたかった。けれど、どの言葉も喉の奥に詰まって、一つも外には出てこなかった。
何故なら、今アラキノが思い描いたようなことは、ここで横たわる人の心には微塵もないという事を、身をもって知っているからだ。
いつだって、触れてくるその手は温かく、向けられる思いやりは全て真摯だった。泣きたくなるほど柔らかい眼差しは、素直な愛情に満たされていた。
『ユーダレウス』は弟子の一人一人を我が子のように愛し、人として向き合い、育み、そして、いつ訪れるのか、来るかどうかもわからない終わりの日を、旅立つ日が来ることを、ただのんびりと待っていた。それだけだ。
そうした日々の中で、ある晩偶然見つけた子供が、精霊に特別愛される色を二つも持っていて、その子供は自ら魔術師になることを望み、師のような不死を望んだ。
度重なる偶然。それは、悠久を生きた『ユーダレウス』にとって、そして契約していたふたりの精霊にとって、最初で最後の好機であった。それだけのことだ。
『それだけ』のはずなのに、アラキノは胸に重い罪悪感を抱えていた。
「身勝手な師匠で……幻滅したかい?」
アラキノの胸の内に蔓延る罪悪感を、師は全て自分の身勝手の一言で押し流そうとする。
「……お前に、永劫を押し付けた私を、許してほしい」
アラキノは「そんなことはない、選んだのは俺だ」と言葉を並べて必死に首を横に振った。
――流させるものか。これは、この罪の意識は、後悔は、苦しみは、俺が背負うべきものだ。
それを背負って持って行かれてしまったら、この手にはもう、何も残らない気がした。
首を振るアラキノの手の甲を、皺が寄り、血管の浮いた手が駄々っ子をなだめる手つきでゆったりと叩く。急速に老いた手だったが、覚えのある温度にアラキノはわずかに安堵した。
「アラキノ……この世界をどう思う?」
落ち込みすぎた末弟子の気を逸らそうとしているのだろうか。
唐突に場違いなことを問いかけられて、アラキノはにわかに苛立った。横たわるその人を睨めば、申し訳なさそうな眼差しが返され、ばつの悪い思いで俯く羽目になった。
この世界をどう思うかだなんて。そんなこと、答えられるわけがなかった。
アラキノの中に色濃く残るのは『ユーダレウス』のいる世界だけだ。この先に見たかった世界も『ユーダレウス』が存在している世界だった。アラキノにとって、世界は『ユーダレウス』がいなくては成立しない。
――行くな、生きて。どうしても行くというのなら、自分も。
溢れた想いが頬を伝う。師を睨みつけて縋る目に、もう決して叶わない虚しい願いを込めた。
アラキノの言いたいことが分かったのか、困ったように『ユーダレウス』は真新しい皺の刻まれた目尻を下げる。
「おいで、アラキノ」
そう言って、腕を伸ばそうとするその人にはもう、起き上がってアラキノを抱き締める力は残っていなかった。
代わりに、アラキノがその枯れた身体を抱き締めた。不用意に力を籠めたら、安い砂糖菓子のように崩れてしまいそうで恐ろしかった。
師に抱き締められたことは数えきれないが、こうして抱き締めた事は初めてだった。ふわりと、薬草の爽やかな香りが鼻をかすめる。美しく、そしてありふれた色だった髪は、いつの間にか真珠のように真っ白になって艶めいていた。
「あんなに、小さかったのに……随分と大きくなったもんだ」
愛しげに呟くその声にはもう、芯がない。身体と同じように、不意に崩れてしまいそうな声だった。
「アラキノ。私の、さいごの弟子」
さいご。改めてその言葉が師の口から出たことに、ぐっと喉が引き攣った。苦しくて、師の服を握る手に力を込めた。
「まったく、こんなに悲しませて……お前の師匠は、とんだ悪党だ」
「……まさか。俺の師は、俺が知る限り、最高の魔術師です」
少しも笑えない軽口に、アラキノは大真面目にそう言い返してやった。腕の中で、師がふっ、ふっ、と短く息を吐いたのを感じた。多分、笑ったのだと思った。
こんな時でもこの人は笑うのかと、頭の片隅の妙に落ち着いた部分が感心していた。
「本当に、お前は、優しい子だ……優しいついでに、もう一つ、わがままを言おうかな」
末の弟子の腕に抱かれたまま、師は残りの力を振り絞るように声を張った。
「アラキノ。お前に私の杖と……『ユーダレウス』……この名を託す。受け取ってくれるかい?」
改めて与えられるまでもなく、杖も、名も、とっくにアラキノを主としていた。精霊たちの真の名を呼んだその瞬間から、そう決まっていた。
それを師がわざわざ言葉にしたのは、アラキノの後ろで呆然としている二人の弟子に知らせる為だった。
異議を唱える者はいない。正確には、二人共、急なことに事態が飲み込めずに、口をきける状態ではなかっただけかもしれない。しかし、たとえ普段通りであっても、彼らは師の取り決めに文句など言うことはなかっただろう。
銀の髪が散る肩越しに二人の姿を確認した師は、アラキノに青い瞳を戻す。問いかけるようなその眼差しに、アラキノは震える歯を食いしばり、神妙に頷いた。もはや、師の最期の望みを叶えるという選択肢のみが、アラキノの前に存在していた。
師は、受け入れたアラキノの頬を月色の髪を巻き込んで撫でた。皺の寄った手の甲に雫が伝った。
もう、この手がこうして褒めてくれることはなくなる。アラキノは、触れているその手がベッドに落ちないように、掴んで自らの頬に押し付けた。
「……お前の、旅路に、幸いあれ」
『ユーダレウス』だったその人は、望みのすべてを叶え、いつも通り穏やかに笑った。
そして、ひっそりと末の弟子の腕の中で眠りについた。
永劫目覚めることのない眠り。この世界からの旅立ち。
その瞬間は、本当に呆気ないものだった。
じわじわと、深い哀しみと絶望がアラキノの喉を締め上げる。
「っ、あ、あなたの、旅路の先に……光あれ……っ」
どうにか絞り出した祈りの言葉は、おそらく、目を閉じたその人にしか届かなかっただろう。
終ぞ、アラキノが一番望んでいた言葉を、誇りであるというその一言を、師が口にすることはなかった。そんなことを、気にする暇すらなかった。
そうして、初めてアラキノの名を呼んだ『ユーダレウス』は、現れた時と同じだけ唐突に、アラキノの世界からいなくなった。
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