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15話
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翌朝、曇りの空の下、アムール商会の別館の扉を叩いた。
重い扉が静かに開き、執事が彼女を通した。
リチャードは、いつものように机に向かっていたが、アリーシャの姿を見るなり立ち上がった。
「アリーシャ様、こんな朝早く、どうされたのです?」
彼の声に心配が感じ取れる。
アリーシャは微笑みを浮かべようとしたが、唇がわずかに震えた。
「お話ししたいことがあるのです。少しだけ、お時間を」
彼は頷き、お茶を二人分執事に頼んだ。
微かな花の香りが漂う静かな部屋。
その空気は、どこか昨日までとは違っていた。
「昨夜……旦那様と話をしました」
その言葉に、リチャードが僅かな動揺を示す。
「……そうですか」
「ええ。噂のこともすべて、ご存知でした。
でも、怒られはしませんでした。寧ろ、私を解き放つ、と」
リチャードの瞳が静かに揺れる。
「……解き放つ?」
「婚姻を、無効にすると仰いました。私を自由にしてくださるのだそうです」
リチャードはすぐには何も言わなかった。
ただ、彼女の前に歩み寄り、机越しにその手を取った。そして暫く沈黙してから問うた。
「……それで、貴女はどうされるのです?
本当に、自由になったとして、私のもとに来るおつもりですか?」
アリーシャは顔を上げた。
その瞳は、涙ではなく、澄んだ光を湛えていた。
「自由になっても、私は急いではいけないと思うのです。この《財団》を完成させるまでは、自分の気持ちに答えを出す資格がない気がして」
「……資格?」
「ええ。あなたが信じる理想に、私は本気で関わりたい。それを終えたとき、もしまだ……」
アリーシャは言葉を切り、わずかに笑った。
「もしまだ、あなたが私を待っていてくださるのなら……その時、答えを伝えたいと思います」
リチャードの手が、彼女の手を包み込む。
その掌の温もりに、アリーシャの心が少しだけ安らいだ。
「……約束しましょう。あなたがどんな道を選んでも、私はその傍らにいます。」
窓の外で、雲間から一筋の光が射した。
秋の朝の冷たい空気の中、二人の影が静かに重なる。
けれどその重なりは、まだ完全なものではなかった。
互いに想いながらも、歩むべき道を選んだ者たちの、穏やかで、そして痛いほど誠実な距離だった。
ーーーー
それから暫くして、私は侯爵邸を後にした。
旦那様は、最後に私ができることとして思いのほか多くの金額を用意してくださり、そのおかげで王都に新しい住まいを借りることができた。
女性の一人暮らしということもあり、警備の行き届いた建物を選んだ。
さらに旦那様は『君の傍には信頼できる者を』と、カンナにもまとまった額を渡し、私と共に行くよう言ってくださった。
部屋は正直、買うこともできた。
けれど、《財団》がこの先どう動いていくのかまだ見えなかったため、私はあえて(借りる)という形を選んだ。
いつかまた、どんな形であれ自分の足で歩き出す時が来ると感じていたのかもしれない。
その後も、私はリチャードさんと程よい距離を保ちながら仕事を続けていた。
ただ、彼は今、隣国に設立した商会の件で忙しく、なかなか王都に戻れない状況が続いている。
隣国の貴族たちによる妨害があり、彼が手掛けた商会の成功を快く思わない者たちが、こちらの《財団》にまで嫌がらせを仕掛けてきているらしい。
リチャードさんの商会によって隣国の貴族たちが営む商会が大きく損失を出している、それが原因だと聞いている。
「奥様、あ、いえ、アリーシャ様。リチャードさんは大丈夫でしょうか? 前に帰って来られた時も、ずいぶんお疲れのご様子でした」
カンナが心配そうに尋ねた。
「そうね、最初に根回しをしてくださっていた貴族の方が、あちらの高位貴族からの圧力で降りてしまったそうだから。今がきっと、一番苦しい時期でしょうね」
私も心配と、そして会えない淋しさを胸に抱えながら、それでも笑顔を作った。
「でも、きっと彼なら、なんとか乗り越えられるはずよ」
「そうですね。リチャードさんなら、きっと」
カンナも不安を隠すように微笑んでくれた。
その後しばらく、私は《財団》の仕事であちこちを飛び回る日々を送った。
戦災孤児の教育支援や、職業訓練施設の設立など、現場に足を運ぶことで見える課題も多かった。
そして、そんなある日の午後、ロビンソン伯爵とクラーク卿から呼び出しの手紙が届いた。
指定された場所へ向かうと、二人はすでに待っていた。
挨拶もそこそこに、クラーク卿が切り出した。
「その後、リチャード殿から連絡はありませんか?」
「いいえ。最近はお手紙もいただいていません。何か、ありましたか?」
そう尋ねると、ロビンソン伯爵が言いづらそうに口を開いた。
「実は今、《財団》にも圧力がかかっていましてな。リチャード殿との関係を断たなければ、先日提出した孤児たちの職業施設の認可を下ろさないと通達があったのです」
「そんな、どうして、そのようなことに?」
伯爵とクラーク卿は顔を見合わせ、重い沈黙のあとで口を開いた。
「やはり、隣国の高位貴族が絡んでいるようです。彼らはリチャード殿の商会に損害を受けた報復として、王都の財団活動にまで手を伸ばしているのです」
「何とかならないのですか?」
「我々も動いてはいます。ですが、これ以上は……」
ロビンソン伯爵は視線を落とし、言葉を濁した。
そして、静かに続けた。
「言いにくいことですが、アリーシャ様。そろそろ、決断の時かと」
私は深く息を吸い込み、視線を落とした。
リチャードさんの理想と、私の信念。
そのどちらも正しいのに、現実は二人を引き裂こうとしている。
「……少し、考えさせてください」
そう告げて、私は席を立った。
冷たい風が頬を撫でる。
空は灰色に沈み、その空に向かい、鳥たちが一斉に飛び立った。それはまるで何かの終わりを告げているように思えた。
重い扉が静かに開き、執事が彼女を通した。
リチャードは、いつものように机に向かっていたが、アリーシャの姿を見るなり立ち上がった。
「アリーシャ様、こんな朝早く、どうされたのです?」
彼の声に心配が感じ取れる。
アリーシャは微笑みを浮かべようとしたが、唇がわずかに震えた。
「お話ししたいことがあるのです。少しだけ、お時間を」
彼は頷き、お茶を二人分執事に頼んだ。
微かな花の香りが漂う静かな部屋。
その空気は、どこか昨日までとは違っていた。
「昨夜……旦那様と話をしました」
その言葉に、リチャードが僅かな動揺を示す。
「……そうですか」
「ええ。噂のこともすべて、ご存知でした。
でも、怒られはしませんでした。寧ろ、私を解き放つ、と」
リチャードの瞳が静かに揺れる。
「……解き放つ?」
「婚姻を、無効にすると仰いました。私を自由にしてくださるのだそうです」
リチャードはすぐには何も言わなかった。
ただ、彼女の前に歩み寄り、机越しにその手を取った。そして暫く沈黙してから問うた。
「……それで、貴女はどうされるのです?
本当に、自由になったとして、私のもとに来るおつもりですか?」
アリーシャは顔を上げた。
その瞳は、涙ではなく、澄んだ光を湛えていた。
「自由になっても、私は急いではいけないと思うのです。この《財団》を完成させるまでは、自分の気持ちに答えを出す資格がない気がして」
「……資格?」
「ええ。あなたが信じる理想に、私は本気で関わりたい。それを終えたとき、もしまだ……」
アリーシャは言葉を切り、わずかに笑った。
「もしまだ、あなたが私を待っていてくださるのなら……その時、答えを伝えたいと思います」
リチャードの手が、彼女の手を包み込む。
その掌の温もりに、アリーシャの心が少しだけ安らいだ。
「……約束しましょう。あなたがどんな道を選んでも、私はその傍らにいます。」
窓の外で、雲間から一筋の光が射した。
秋の朝の冷たい空気の中、二人の影が静かに重なる。
けれどその重なりは、まだ完全なものではなかった。
互いに想いながらも、歩むべき道を選んだ者たちの、穏やかで、そして痛いほど誠実な距離だった。
ーーーー
それから暫くして、私は侯爵邸を後にした。
旦那様は、最後に私ができることとして思いのほか多くの金額を用意してくださり、そのおかげで王都に新しい住まいを借りることができた。
女性の一人暮らしということもあり、警備の行き届いた建物を選んだ。
さらに旦那様は『君の傍には信頼できる者を』と、カンナにもまとまった額を渡し、私と共に行くよう言ってくださった。
部屋は正直、買うこともできた。
けれど、《財団》がこの先どう動いていくのかまだ見えなかったため、私はあえて(借りる)という形を選んだ。
いつかまた、どんな形であれ自分の足で歩き出す時が来ると感じていたのかもしれない。
その後も、私はリチャードさんと程よい距離を保ちながら仕事を続けていた。
ただ、彼は今、隣国に設立した商会の件で忙しく、なかなか王都に戻れない状況が続いている。
隣国の貴族たちによる妨害があり、彼が手掛けた商会の成功を快く思わない者たちが、こちらの《財団》にまで嫌がらせを仕掛けてきているらしい。
リチャードさんの商会によって隣国の貴族たちが営む商会が大きく損失を出している、それが原因だと聞いている。
「奥様、あ、いえ、アリーシャ様。リチャードさんは大丈夫でしょうか? 前に帰って来られた時も、ずいぶんお疲れのご様子でした」
カンナが心配そうに尋ねた。
「そうね、最初に根回しをしてくださっていた貴族の方が、あちらの高位貴族からの圧力で降りてしまったそうだから。今がきっと、一番苦しい時期でしょうね」
私も心配と、そして会えない淋しさを胸に抱えながら、それでも笑顔を作った。
「でも、きっと彼なら、なんとか乗り越えられるはずよ」
「そうですね。リチャードさんなら、きっと」
カンナも不安を隠すように微笑んでくれた。
その後しばらく、私は《財団》の仕事であちこちを飛び回る日々を送った。
戦災孤児の教育支援や、職業訓練施設の設立など、現場に足を運ぶことで見える課題も多かった。
そして、そんなある日の午後、ロビンソン伯爵とクラーク卿から呼び出しの手紙が届いた。
指定された場所へ向かうと、二人はすでに待っていた。
挨拶もそこそこに、クラーク卿が切り出した。
「その後、リチャード殿から連絡はありませんか?」
「いいえ。最近はお手紙もいただいていません。何か、ありましたか?」
そう尋ねると、ロビンソン伯爵が言いづらそうに口を開いた。
「実は今、《財団》にも圧力がかかっていましてな。リチャード殿との関係を断たなければ、先日提出した孤児たちの職業施設の認可を下ろさないと通達があったのです」
「そんな、どうして、そのようなことに?」
伯爵とクラーク卿は顔を見合わせ、重い沈黙のあとで口を開いた。
「やはり、隣国の高位貴族が絡んでいるようです。彼らはリチャード殿の商会に損害を受けた報復として、王都の財団活動にまで手を伸ばしているのです」
「何とかならないのですか?」
「我々も動いてはいます。ですが、これ以上は……」
ロビンソン伯爵は視線を落とし、言葉を濁した。
そして、静かに続けた。
「言いにくいことですが、アリーシャ様。そろそろ、決断の時かと」
私は深く息を吸い込み、視線を落とした。
リチャードさんの理想と、私の信念。
そのどちらも正しいのに、現実は二人を引き裂こうとしている。
「……少し、考えさせてください」
そう告げて、私は席を立った。
冷たい風が頬を撫でる。
空は灰色に沈み、その空に向かい、鳥たちが一斉に飛び立った。それはまるで何かの終わりを告げているように思えた。
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