《完結》 どうぞ、私のことはお気になさらず

ヴァンドール

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14話

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 数日後、アムール商会の別館では、アリーシャ、リチャード、そしてクラーク卿とロビンソン伯爵が集まっていた。
 新たな慈善計画の資金運用について話し合うための、正式な会合だった。

 しかし、部屋に漂う空気には、どこか微かなざらつきがあった。
 誰も口にはしないものの、すでに社交界で囁かれている噂が、四人の間に見えない影を落としていた。

「本当に、夫人がこれほど熱心に取り組まれるとは思いませんでしたな」

 ロビンソン伯爵が穏やかに言う。だがその目の奥には、探るような光があった。

「お褒めにあずかり光栄です。けれど、私ひとりの力では到底ここまでは参りませんでした。
 リチャードさんの尽力あってのことです」

 アリーシャは微笑んで答える。
 その言葉にリチャードが軽く頷くと、伯爵の視線が一瞬だけ二人の間を行き来した。

「お二人は、随分と息が合っておられるようだ」

 その言葉に場の空気がわずかに凍る。
 クラーク卿が、すぐに空気を和らげるように笑いを添えた。

「まあまあ、伯爵。息が合うのは良いことですよ。
 事業というのは、理念と実務の両輪が噛み合ってこそ動くものです」

 そして彼は、アリーシャに向けて意味深な微笑を見せた。

「それにしても、貴女のような方が、この街のためにここまで動かれるとは。
 ウィルフォード侯爵も、鼻が高いでしょうな」

 アリーシャは一瞬だけ息を呑んだ。
 だがすぐに、優雅な笑みを取り戻す。

「どうでしょう? あの方は、私のすることにあまり興味を示しません。
 でも、それでいいのです。私には私のすべきことがありますから」

 その静かな言葉に、リチャードがちらりと彼女を見る。
 彼の目に宿るのは尊敬か、あるいはそれ以上のものか、アリーシャ自身にも分からなかった。

 ふと、ロビンソン伯爵が小さく咳払いをした。

「それにしても、奥様。世間というのは恐ろしいものです。
 貴女ほどの方でも、何かと噂を立てられる。お心を煩わせてはおりませんかな?」

 アリーシャはカップを持つ手を止めた。
 室内の空気が、静かに張りつめる。

「ええ、耳にはしております。ですが、私は恥じることなど何もしておりません。
 《財団》のために動くことが、たとえどう言われようとも正しいと信じています」

 その言葉に、クラーク卿が真剣な眼差しで頷いた。

「立派なお考えだ。私は貴女の誠実さを知っている。
 どうか、何があっても信念を曲げないでいただきたい」

 アリーシャは微かに微笑んだ。
 その笑みの奥には、わずかな疲れと、それでも崩れぬ強さがあった。

 だがそのときーー
 会議室の外で、扉の影からひとりの人物がその様子を見つめていた。
 黒い外套の下、固く結ばれた唇。
 その目に宿る光は、痛みと怒りと、どうしようもない後悔だった。

 ウィルフォード侯爵。

 噂を確かめるために足を運んだ彼は、扉の向こうの笑顔をただ見つめていた。
 そして、自分の心が静かに軋む音を聞いた。

ーーーー

 その夜、アリーシャが屋敷に戻ると、玄関の灯はすでに落とされていた。
 静まり返った廊下に、時計の針の音だけが響いている。

 部屋に入ると、暖炉の前に人影があった。
 振り返ったその姿に、アリーシャは息をのむ。

「旦那様……」

 ウィルフォード侯爵は、背を向けたまま低く言った。

「今日、アムール商会に行っていたそうだな」

「はい、財団の件で、クラーク卿とロビンソン伯爵もご一緒でした」

「そうか……」

 短い返答。
 その声に怒気はない。ただ、どこか疲れた響きがあった。
 アリーシャはその背中を見つめ、静かに近づく。

「噂のこと、耳にされたのですね」

 侯爵はわずかに肩を震わせた。
 それでも振り返らずに、暖炉の炎を見つめたまま言う。

「噂、か。
 いや、ただ君があの男と並んでいるのを見た」

 アリーシャの胸の奥に、微かな痛みが走る。
 彼が《見た》と言ったその声に、怒りではなく、どうしようもない哀しみが滲んでいた。

「誤解ですわ。私たちは」

 と言いかけると

「わかっている」

 彼はその言葉を遮った。
 そして、ようやくゆっくりと振り向く。

 その瞳には、かつて女性たちを虜にしていた強さも傲慢さもなかった。
 ただ、一人の男の、疲れ切った誠実さだけがあった。

「わかっている。君がそういう人間でないことも。
 けれど……君が彼といる時の顔を見て、
 私はもう、君を縛る資格がないと思った」

 アリーシャは言葉を失う。
 炎の明かりが彼の横顔を淡く照らし、その影が少しだけ揺れた。

「旦那様……」

「私は、君に酷いことばかりしてきた。
 自分の都合で妻を選び、心を置き去りにした。
 今になってようやく、何を失ったのかがわかった」

 彼は静かに笑った。
 その笑みは、悔いと優しさの入り混じったものだった。

「アリーシャ。
 君を自由にしてやりたい。
 婚姻を無効にしようと思う」

 部屋の中に、時計の音が再び響く。
 アリーシャは唇を震わせながら、ようやく言葉を紡いだ。

「そんな……お気持ちは嬉しいけれど、私は……」

「いいんだ。
 もう、誰かを恨むほど若くはない。
 ただ、あの時の君の笑顔を思い出してしまってな。
 あれをもう一度見るには、私は、邪魔な存在なんだろう」

 アリーシャは静かに首を振った。
 涙はなかった。ただ、胸の奥で何かがゆっくりと崩れていった。

 侯爵は最後に一歩、彼女に近づき、低く囁くように言った。

「どうか幸せに。本当なら夫である私が、君を幸せにすべきだったのに、取り返しの出来ない過ちを何度も繰り返してしまった。済まなかった」

 そう告げて、背を向ける。
 扉の向こうで足音が遠ざかる音がした。

 アリーシャはその場に立ち尽くし、ただ炎を見つめた。
 燃え落ちていく薪の音が、彼の背中の余韻のように、静かに部屋を満たしていた。


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