5 / 11
5話
しおりを挟む
遠い東の国境では、まるで計算されたかのような、仕組まれた秘密が育まれていた。
侯爵が出征して半年が過ぎた頃、戦地近くの古びた宿の一室で、侯爵と男爵未亡人は密かに再会を果たしていた。
男爵未亡人、クリスティアナは、ルカを侯爵家に置き去りにした後、すぐにこの地に潜伏していた。そして、戦況の悪化と、それに伴う侯爵の精神的な疲弊を待ったのだ。
「ああ、ジョナサン……!」
クリスティアナは、泥と血にまみれた軍服姿の侯爵に抱きつき、涙ながらに訴えた。彼女は、若き日の愛と、引き裂かれた悲劇を思い起こさせるような、弱々しくも情熱的な未亡人を演じた。
「君は、なぜこんな場所に……。それに戦地に赴く際、告げたはずだ。私は結婚せざるを得なくなったからと……」
侯爵の声は、疲労でかすれていた。
クリスティアナは、ルカの存在については一切触れず、ただ侯爵への深い愛情だけを示した。
「わたくしは、ただ貴方様がご無事であることを確かめたかっただけ。そして、この苦しい戦場で、心の安らぎとなる居場所を提供したかったのです。わたくしは貴方をひと時も忘れたことはありませんでした。どうか貴方を愛した一人の女として受け入れてください」
戦争の重圧、そして故郷から遠く離れた孤独は、侯爵の心を蝕んでいた。クリスティアナの存在は、彼にとって過去の甘い逃避場所であり、現実を忘れさせる鎮痛剤となった。
彼女は、侯爵が最も弱っている時に寄り添い、かつて周りからは認められなかった愛の炎を静かに燃やし続けた。侯爵は、クリスティアナの情熱と献身に、次第に心を許していった。
こうして、侯爵は妻の存在と義務から逃れるように、クリスティアナとの自由な愛と過去の愛に再び溺れていった。そして彼にとって彼女はなくてはならない存在となっていった。
それら全てがクリスティアナの計算通り進んでいった。
ーーーー
そして、まもなく十年の歳月が流れようとしていた。
侯爵は未だ戦地に留まり、時折、王都へ戻っては報告と補給を行うものの、侯爵家へは一度も帰ることはなかった。
それは妻への後ろめたさがあったからだった。
侯爵領は、完全に侯爵夫人と執事ジョゼフの采配によって治められていた。侯爵夫人による公正で的確な経営は、領民に絶大な信頼をもたらし、侯爵夫人こそが真の領主であると認識されていた。
ジョゼフを通じて、侯爵からは定期的に手紙が届いた。
『領地経営と、私の妻の責務を立派に果たしてくれていると、ジョゼフから報告を受けている。本当にありがとう、妻よ。君の献身には感謝している』
その手紙は、侯爵としての義務と感謝の言葉で満たされていたが、愛の言葉はどこにもなかった。妻は、彼の領地の管理者であり、感謝すべき従者のようなものだった。
一方、ルカは二十歳の若き青年に成長していた。
彼は、侯爵夫人による厳しいが愛情に満ちた教育を受け、非の打ち所のない侯爵家の後継者として育った。彼の振る舞いは品格があり、知性は冴え、その容姿は、若き日の侯爵を彷彿とさせた。
ルカは、侯爵夫人の献身的な愛情と、その気高い美しさを最も近くで見続けてきた。
侯爵夫人は、侯爵の不在という重い責任と孤独に、一言も弱音を吐かず耐え抜いてきた。
夜遅くまで執務室のランプを灯し、決して表情を崩さない強く美しい侯爵夫人。いつしかルカの瞳には、彼女の姿が理想の女性像として焼き付いていた。
ある夜、ルカが書類の提出のために執務室を訪れたとき、夫人は珍しく窓辺で、一人、夜空を見上げていた。
「奥様。まだお仕事を?」
「ええ、ルカ。もうこんな時間なのね」
彼女は振り返り、その疲労を隠しきれないわずかな翳りを見せた。ルカは、侯爵夫人に向かって抱いていた感情が、気づけば、継子としての敬愛だけでは済まなくなっていた。
「奥様。僕は……」
ルカは言いかけた言葉を飲み込んだ。それは、母として育ててくれた女性に対するものではなく、あってはならない男としての感情だった。
ルカは、侯爵夫人宛ての戦地にいる実の父が送ってきた冷たい感謝の手紙を何度も受け取っている。
彼は知っていた。侯爵夫人こそが、真の孤独の中にいることを。そして、その孤独を埋めるべきは、自分自身であるとずっと思っていた。いいや、そうしたいといつも思っていた。
「奥様。僕が、この領地を、そして貴女をお守りいたします。父上の代わりに」
ルカの言葉は、単なる使命感ではなかった。それは、侯爵夫人への深い愛情と、不在の父への複雑な感情が入り混じった、若き青年の誓いのようだった。
彼女は、ルカの瞳に宿る激しい情熱を読み取り、一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに侯爵夫人としての平静な微笑みに戻した。
「ありがとう、ルカ。貴方は本当に頼もしいわ。さあ、もう寝なさい」
この時彼女は、ルカの瞳の奥にある危険な情熱を見て見ぬふりをした。
侯爵の不在は、いつしか新たな愛を、血の繋がりを超えた愛を芽生えさせていた。
そして、その愛は、遠い戦地から帰還しようとしている侯爵の存在から、彼女自身を解放する鍵となるのかもしれない。
侯爵が出征して半年が過ぎた頃、戦地近くの古びた宿の一室で、侯爵と男爵未亡人は密かに再会を果たしていた。
男爵未亡人、クリスティアナは、ルカを侯爵家に置き去りにした後、すぐにこの地に潜伏していた。そして、戦況の悪化と、それに伴う侯爵の精神的な疲弊を待ったのだ。
「ああ、ジョナサン……!」
クリスティアナは、泥と血にまみれた軍服姿の侯爵に抱きつき、涙ながらに訴えた。彼女は、若き日の愛と、引き裂かれた悲劇を思い起こさせるような、弱々しくも情熱的な未亡人を演じた。
「君は、なぜこんな場所に……。それに戦地に赴く際、告げたはずだ。私は結婚せざるを得なくなったからと……」
侯爵の声は、疲労でかすれていた。
クリスティアナは、ルカの存在については一切触れず、ただ侯爵への深い愛情だけを示した。
「わたくしは、ただ貴方様がご無事であることを確かめたかっただけ。そして、この苦しい戦場で、心の安らぎとなる居場所を提供したかったのです。わたくしは貴方をひと時も忘れたことはありませんでした。どうか貴方を愛した一人の女として受け入れてください」
戦争の重圧、そして故郷から遠く離れた孤独は、侯爵の心を蝕んでいた。クリスティアナの存在は、彼にとって過去の甘い逃避場所であり、現実を忘れさせる鎮痛剤となった。
彼女は、侯爵が最も弱っている時に寄り添い、かつて周りからは認められなかった愛の炎を静かに燃やし続けた。侯爵は、クリスティアナの情熱と献身に、次第に心を許していった。
こうして、侯爵は妻の存在と義務から逃れるように、クリスティアナとの自由な愛と過去の愛に再び溺れていった。そして彼にとって彼女はなくてはならない存在となっていった。
それら全てがクリスティアナの計算通り進んでいった。
ーーーー
そして、まもなく十年の歳月が流れようとしていた。
侯爵は未だ戦地に留まり、時折、王都へ戻っては報告と補給を行うものの、侯爵家へは一度も帰ることはなかった。
それは妻への後ろめたさがあったからだった。
侯爵領は、完全に侯爵夫人と執事ジョゼフの采配によって治められていた。侯爵夫人による公正で的確な経営は、領民に絶大な信頼をもたらし、侯爵夫人こそが真の領主であると認識されていた。
ジョゼフを通じて、侯爵からは定期的に手紙が届いた。
『領地経営と、私の妻の責務を立派に果たしてくれていると、ジョゼフから報告を受けている。本当にありがとう、妻よ。君の献身には感謝している』
その手紙は、侯爵としての義務と感謝の言葉で満たされていたが、愛の言葉はどこにもなかった。妻は、彼の領地の管理者であり、感謝すべき従者のようなものだった。
一方、ルカは二十歳の若き青年に成長していた。
彼は、侯爵夫人による厳しいが愛情に満ちた教育を受け、非の打ち所のない侯爵家の後継者として育った。彼の振る舞いは品格があり、知性は冴え、その容姿は、若き日の侯爵を彷彿とさせた。
ルカは、侯爵夫人の献身的な愛情と、その気高い美しさを最も近くで見続けてきた。
侯爵夫人は、侯爵の不在という重い責任と孤独に、一言も弱音を吐かず耐え抜いてきた。
夜遅くまで執務室のランプを灯し、決して表情を崩さない強く美しい侯爵夫人。いつしかルカの瞳には、彼女の姿が理想の女性像として焼き付いていた。
ある夜、ルカが書類の提出のために執務室を訪れたとき、夫人は珍しく窓辺で、一人、夜空を見上げていた。
「奥様。まだお仕事を?」
「ええ、ルカ。もうこんな時間なのね」
彼女は振り返り、その疲労を隠しきれないわずかな翳りを見せた。ルカは、侯爵夫人に向かって抱いていた感情が、気づけば、継子としての敬愛だけでは済まなくなっていた。
「奥様。僕は……」
ルカは言いかけた言葉を飲み込んだ。それは、母として育ててくれた女性に対するものではなく、あってはならない男としての感情だった。
ルカは、侯爵夫人宛ての戦地にいる実の父が送ってきた冷たい感謝の手紙を何度も受け取っている。
彼は知っていた。侯爵夫人こそが、真の孤独の中にいることを。そして、その孤独を埋めるべきは、自分自身であるとずっと思っていた。いいや、そうしたいといつも思っていた。
「奥様。僕が、この領地を、そして貴女をお守りいたします。父上の代わりに」
ルカの言葉は、単なる使命感ではなかった。それは、侯爵夫人への深い愛情と、不在の父への複雑な感情が入り混じった、若き青年の誓いのようだった。
彼女は、ルカの瞳に宿る激しい情熱を読み取り、一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに侯爵夫人としての平静な微笑みに戻した。
「ありがとう、ルカ。貴方は本当に頼もしいわ。さあ、もう寝なさい」
この時彼女は、ルカの瞳の奥にある危険な情熱を見て見ぬふりをした。
侯爵の不在は、いつしか新たな愛を、血の繋がりを超えた愛を芽生えさせていた。
そして、その愛は、遠い戦地から帰還しようとしている侯爵の存在から、彼女自身を解放する鍵となるのかもしれない。
656
あなたにおすすめの小説
旦那様。私が悪女ならば、愛人の女は何になるのかしら?
白雲八鈴
恋愛
我が公爵家主催の夜会の最中。夫が愛人を連れてやってきたのです。そして、私を悪女という理由で離縁を突きつけてきました。
離縁して欲しいというのであれば、今まで支援してきた金額を全額返済していただけません?
あら?愛人の貴女が支払ってくれると?お優しいわね。
私が悪女というのであれば、妻のいる夫の愛人に収まっている貴女は何なのかしら?
婚約破棄から50年後
あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。
そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。
私のことを愛していなかった貴方へ
矢野りと
恋愛
婚約者の心には愛する女性がいた。
でも貴族の婚姻とは家と家を繋ぐのが目的だからそれも仕方がないことだと承知して婚姻を結んだ。私だって彼を愛して婚姻を結んだ訳ではないのだから。
でも穏やかな結婚生活が私と彼の間に愛を芽生えさせ、いつしか永遠の愛を誓うようになる。
だがそんな幸せな生活は突然終わりを告げてしまう。
夫のかつての想い人が現れてから私は彼の本心を知ってしまい…。
*設定はゆるいです。
冷たい王妃の生活
柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。
三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。
王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。
孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。
「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。
自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。
やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。
嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。
愛想を尽かした女と尽かされた男
火野村志紀
恋愛
※全16話となります。
「そうですか。今まであなたに尽くしていた私は側妃扱いで、急に湧いて出てきた彼女が正妃だと? どうぞ、お好きになさって。その代わり私も好きにしますので」
旦那様に愛されなかった滑稽な妻です。
アズやっこ
恋愛
私は旦那様を愛していました。
今日は三年目の結婚記念日。帰らない旦那様をそれでも待ち続けました。
私は旦那様を愛していました。それでも旦那様は私を愛してくれないのですね。
これはお別れではありません。役目が終わったので交代するだけです。役立たずの妻で申し訳ありませんでした。
【完結】わたしの欲しい言葉
彩華(あやはな)
恋愛
わたしはいらない子。
双子の妹は聖女。生まれた時から、両親は妹を可愛がった。
はじめての旅行でわたしは置いて行かれた。
わたしは・・・。
数年後、王太子と結婚した聖女たちの前に現れた帝国の使者。彼女は一足の靴を彼らの前にさしだしたー。
*ドロッとしています。
念のためティッシュをご用意ください。
二年間の花嫁
柴田はつみ
恋愛
名門公爵家との政略結婚――それは、彼にとっても、私にとっても期間限定の約束だった。
公爵アランにはすでに将来を誓い合った女性がいる。私はただ、その日までの“仮の妻”でしかない。
二年後、契約が終われば彼の元を去らなければならないと分かっていた。
それでも構わなかった。
たとえ短い時間でも、ずっと想い続けてきた彼のそばにいられるなら――。
けれど、私の知らないところで、アランは密かに策略を巡らせていた。
この結婚は、ただの義務でも慈悲でもない。
彼にとっても、私を手放すつもりなど初めからなかったのだ。
やがて二人の距離は少しずつ近づき、契約という鎖が、甘く熱い絆へと変わっていく。
期限が迫る中、真実の愛がすべてを覆す。
――これは、嘘から始まった恋が、永遠へと変わる物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる