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4話
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旦那様が出立されてから、侯爵家は文字通り戦時体制に入った。
東の国境が劣勢を強いられる中、わたくしは侯爵夫人として、そして留守を預かる領主の代理として、領地の経営に全力を注いだ。
朝一番に執務室に入り、ジョゼフと帳簿を突き合わせる。戦費調達のための特別税の徴収と、兵糧の安定供給は、わたくしに課せられた最も重い責務だった。
「春の小麦の収穫は予想を上回りましたが、軍への供出分を差し引くと、領民に残る食糧が逼迫しかねません。奥様、備蓄米を一部開放すべきでしょうか」
ジョゼフの言葉に、わたくしはすぐさま判断を下す。
「いいえ。戦況が長期化した場合、備蓄米は最後の砦よ。その代わり、領内の狩猟免許を一時的に緩めさせて。肉類を流通させることで、小麦への依存度を下げ、民の不安を和らげましょう」
「かしこまりました。すぐに声明を出します」
わたくしは、ただお屋敷の顔として微笑んでいればよかった日々とは違い、領民の生活、軍の兵糧そして侯爵家の財政を、すべてこの手で管理しなければならなかった。夜遅くまで書斎の明かりが消えることはなかった。その光は、わたくし自身の決意の表れでもあった。
そんな張り詰めた日々の唯一の安らぎが、ルカの存在だった。
ルカは、侯爵家の教育係が音を上げるほど好奇心旺盛で活発な子供だったが、わたくしに対しては、どこか遠慮がちではあったが、少しの愛情を求める姿勢を見せた。
わたくしは、執務の合間を縫って、ルカの部屋を訪れることにした。
「ルカ。今日の勉強はどうだったかしら?」
「あのね、奥様! 『歴史』はね、難しい言葉がたくさんあるけど、剣と鎧の話は面白かったよ!」
ルカはわたくしの膝に飛び乗ろうとせず、小さな体をソファの隅に寄せ、尊敬と緊張が混じった瞳でわたくしを見上げた。
「そう。では、侯爵家を築いた初代様が、どうして剣を振るったのか、知っている?」
「ええと……」
わたくしは、ルカに侯爵家の歴史を絵物語のように語り聞かせた。それは、侯爵家の義務と責任、そして侯爵領民を守るための誇りを伝える時間でもあった。
ルカは、わたくしが話す間、一言も聞き漏らすまいとするように、じっと顔を見つめ続けた。
ある日、ルカが侍女に連れられて庭を散歩しているとき、わたくしは窓辺で彼の姿を偶然見かけた。ルカは、庭師が手入れを終えたばかりの薔薇の枝に気づき、興味深そうにそっと指を伸ばした。
その瞬間、庭師が慌てて声を上げる。
「坊ちゃま、危のうございます! 棘があります!」
ルカはびくりと手を引っ込めると、しゅんと肩を落とし、地面を見つめてしまった。
わたくしは執務の手を止め、庭へ降りていった。
「ルカ」
「奥様……」
顔を上げたルカは、どこか不安げで、わたくしを見る目が揺れていた。
わたくしは彼のそばにしゃがみ、すぐ近くに咲いていた棘のないスイトピーを一輪そっと摘んだ。
その柔らかな花を、ルカの小さな手にそっと乗せる。
「侯爵家の人間は、常に慎重であるべきなの。美しいものに手を伸ばす時でもじっくりと観察し安全を確認しなければいけないの。それにね、本当に大切なものは、力いっぱい掴むんじゃなくて、こうして優しく守るのよ」
ルカはスイトピーを両手で包み込み、こくりと静かにうなずいた。そしてルカの顔が笑顔に変わった。
彼は、わたくしの言葉の意味を全て理解できたわけではないだろう。しかし、こうして少しずつ学んでいけばいい。わたくしはその手助けをし続けよう。
(それにしても不思議なことにルカはあの日、母親に置き去りにされた日以来、母親の話を一切してこないわ)
わたくしは思い切って、ルカに切り出した。
「ルカ、我慢することはないのよ。お母様に会いたくはないの?」
少し考えてから。
「うーん、だってここの方が楽しもん!」
(その一言が全てだと思った。母親に、ルカは遊んでもらったことさえなかったのだと理解した。ならわたくしはルカに愛情を教え、優しく人の痛みの分かる子に育てなければ)
この日、わたくしはそう心に誓った。
ーーーー
最近のルカはわたくしや周りの人達の努力もあって
「奥様、お話しに来たよ!」
と叫びながら執務室に入ってくるようになり、わたくしが疲れてソファに座っていると、何の躊躇もなくわたくしの膝に乗り、その髪の毛に触れて遊ぶようになった。そしてルカは屈託のない笑顔を向ける。
「奥様は、パパが帰ってきても、ずっと一緒にいてくれる?」
ルカのまっすぐな質問に、胸が締め付けられた。この子は、母親から受けることのなかった愛情を最近では、わたくしに求めているようだった。わたくしは、ルカの小さな頭を優しく撫でた。
「ええ、ルカ。わたくしは、ずっとこの屋敷であなたを見守っているわ。あなたが立派な侯爵家の跡継ぎになるまでね」
ルカは満足そうに笑い、わたくしの首に腕を回して抱きついた。
その温もりは、わたくしの胸の奥深くにあった孤独や不安を、少しずつ溶かしていくのを感じさせた。
ルカの母親がわたくしの家庭を壊すために放った矢は、いつの間にか、わたくしにとってかけがえのない宝物へと変わりつつあった。
東の国境が劣勢を強いられる中、わたくしは侯爵夫人として、そして留守を預かる領主の代理として、領地の経営に全力を注いだ。
朝一番に執務室に入り、ジョゼフと帳簿を突き合わせる。戦費調達のための特別税の徴収と、兵糧の安定供給は、わたくしに課せられた最も重い責務だった。
「春の小麦の収穫は予想を上回りましたが、軍への供出分を差し引くと、領民に残る食糧が逼迫しかねません。奥様、備蓄米を一部開放すべきでしょうか」
ジョゼフの言葉に、わたくしはすぐさま判断を下す。
「いいえ。戦況が長期化した場合、備蓄米は最後の砦よ。その代わり、領内の狩猟免許を一時的に緩めさせて。肉類を流通させることで、小麦への依存度を下げ、民の不安を和らげましょう」
「かしこまりました。すぐに声明を出します」
わたくしは、ただお屋敷の顔として微笑んでいればよかった日々とは違い、領民の生活、軍の兵糧そして侯爵家の財政を、すべてこの手で管理しなければならなかった。夜遅くまで書斎の明かりが消えることはなかった。その光は、わたくし自身の決意の表れでもあった。
そんな張り詰めた日々の唯一の安らぎが、ルカの存在だった。
ルカは、侯爵家の教育係が音を上げるほど好奇心旺盛で活発な子供だったが、わたくしに対しては、どこか遠慮がちではあったが、少しの愛情を求める姿勢を見せた。
わたくしは、執務の合間を縫って、ルカの部屋を訪れることにした。
「ルカ。今日の勉強はどうだったかしら?」
「あのね、奥様! 『歴史』はね、難しい言葉がたくさんあるけど、剣と鎧の話は面白かったよ!」
ルカはわたくしの膝に飛び乗ろうとせず、小さな体をソファの隅に寄せ、尊敬と緊張が混じった瞳でわたくしを見上げた。
「そう。では、侯爵家を築いた初代様が、どうして剣を振るったのか、知っている?」
「ええと……」
わたくしは、ルカに侯爵家の歴史を絵物語のように語り聞かせた。それは、侯爵家の義務と責任、そして侯爵領民を守るための誇りを伝える時間でもあった。
ルカは、わたくしが話す間、一言も聞き漏らすまいとするように、じっと顔を見つめ続けた。
ある日、ルカが侍女に連れられて庭を散歩しているとき、わたくしは窓辺で彼の姿を偶然見かけた。ルカは、庭師が手入れを終えたばかりの薔薇の枝に気づき、興味深そうにそっと指を伸ばした。
その瞬間、庭師が慌てて声を上げる。
「坊ちゃま、危のうございます! 棘があります!」
ルカはびくりと手を引っ込めると、しゅんと肩を落とし、地面を見つめてしまった。
わたくしは執務の手を止め、庭へ降りていった。
「ルカ」
「奥様……」
顔を上げたルカは、どこか不安げで、わたくしを見る目が揺れていた。
わたくしは彼のそばにしゃがみ、すぐ近くに咲いていた棘のないスイトピーを一輪そっと摘んだ。
その柔らかな花を、ルカの小さな手にそっと乗せる。
「侯爵家の人間は、常に慎重であるべきなの。美しいものに手を伸ばす時でもじっくりと観察し安全を確認しなければいけないの。それにね、本当に大切なものは、力いっぱい掴むんじゃなくて、こうして優しく守るのよ」
ルカはスイトピーを両手で包み込み、こくりと静かにうなずいた。そしてルカの顔が笑顔に変わった。
彼は、わたくしの言葉の意味を全て理解できたわけではないだろう。しかし、こうして少しずつ学んでいけばいい。わたくしはその手助けをし続けよう。
(それにしても不思議なことにルカはあの日、母親に置き去りにされた日以来、母親の話を一切してこないわ)
わたくしは思い切って、ルカに切り出した。
「ルカ、我慢することはないのよ。お母様に会いたくはないの?」
少し考えてから。
「うーん、だってここの方が楽しもん!」
(その一言が全てだと思った。母親に、ルカは遊んでもらったことさえなかったのだと理解した。ならわたくしはルカに愛情を教え、優しく人の痛みの分かる子に育てなければ)
この日、わたくしはそう心に誓った。
ーーーー
最近のルカはわたくしや周りの人達の努力もあって
「奥様、お話しに来たよ!」
と叫びながら執務室に入ってくるようになり、わたくしが疲れてソファに座っていると、何の躊躇もなくわたくしの膝に乗り、その髪の毛に触れて遊ぶようになった。そしてルカは屈託のない笑顔を向ける。
「奥様は、パパが帰ってきても、ずっと一緒にいてくれる?」
ルカのまっすぐな質問に、胸が締め付けられた。この子は、母親から受けることのなかった愛情を最近では、わたくしに求めているようだった。わたくしは、ルカの小さな頭を優しく撫でた。
「ええ、ルカ。わたくしは、ずっとこの屋敷であなたを見守っているわ。あなたが立派な侯爵家の跡継ぎになるまでね」
ルカは満足そうに笑い、わたくしの首に腕を回して抱きついた。
その温もりは、わたくしの胸の奥深くにあった孤独や不安を、少しずつ溶かしていくのを感じさせた。
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