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6話
十年の長い不在を経て、ついに侯爵が帰還した。
東の国境での戦いは、激戦の末、なんとか膠着状態へと落ち着いたのだという。侯爵領は、領主の帰還を祝い、久しぶりの賑わいに包まれた。
しかし、その帰還は、侯爵夫人の予想通り、平穏とは程遠いものだった。
侯爵の馬車が正門をくぐったとき、隣には、鮮やかな衣装を纏った一人の女性が堂々と乗っていた。男爵未亡人、クリスティアナである。
馬車を降り、侯爵は彼女を隣におき、悪びれる風もなく言ってのける。
「いや、止めても聞かなくてな。クリスティアナに、私が戦地でどれほど励まされたか。押しかけるのを無下に断れなかったのだ。まあ、とりあえず仲良くやってくれ」
侯爵は、侯爵夫人ジョアンナと、長身に成長したルカが並んで立つ出迎えの列の前に立ち、困ったような、しかしどこか満足げな笑みを浮かべた。
その言葉は、感謝を装いながら、本来の妻への見せつけのようでもあった。
ジョアンナは、十年もの間、侯爵家の威厳を守り続けてきた完璧な侯爵夫人として、威厳のある微笑みを浮かべたまま、一歩前に進み出た。
「お帰りなさいませ、旦那様。そして、クリスティアナ様。遠路はるばるのご帰還、ご苦労様でした。旦那様が大変、お世話になったようで感謝いたしますわ」
ジョアンナの態度は非の打ち所がなく、その格式と風格は、クリスティアナの華やかな装いを一瞬で色褪せさせた。クリスティアナは、ジョアンナの揺るぎない威厳に圧倒され、挨拶の言葉すら詰まらせた。
挨拶もそこそこに、クリスティアナは、十年越しの復讐を果たすべく、ルカに目を向けた。
「ああ、ルカ! こんなに大きくなって……! あなたは、わたくしの愛しい息子よ!」
クリスティアナは、感極まったようにルカに駆け寄り、抱きしめようとした。
その瞬間、ルカは一歩退いた。
ルカの視線は、クリスティアナの顔ではなく、彼女の背後に立つ侯爵、そして隣に立つ侯爵夫人ジョアンナへと向けられた。
「ルカ、どうしたのだ? 母上だぞ」
侯爵が困惑したように言った。
クリスティアナは、この機を逃すまいと、侯爵に向かって毅然と告げた。
「旦那様! 彼は、知っての通り、貴方様の子です! あの時、身分の壁に阻まれましたが、わたくしたちの愛の証として授かった、たった一人の息子なのです! わたくしは、貴方様が戦地で戦っている間に、息子を貴族として育てるために、侯爵夫人にこの子を託しました!」
クリスティアナの告白は、集まった使用人たちに激しい動揺をもたらした。
侯爵は、クリスティアナがルカを侯爵邸に置いてきたことは彼女から聞かされていたが、この場で公に、しかもジョアンナの前で告白するとは思っていなかったため、狼狽していた。
しかし、ルカの反応は、クリスティアナの計算を完全に裏切った。
ルカは、クリスティアナを冷たい目で見下ろすと、静かに、そして明確に口を開いた。
「母上」
ルカが発したその言葉は、クリスティアナに向けられたものではなかった。彼は、侯爵夫人ジョアンナに向かって、最も深い敬意を込めてそう呼んだ。
「母上。旦那様のご帰還、おめでとうございます。それから侯爵様、戦地でのお勤めお疲れ様でございます」
そして、ルカはクリスティアナに、初めて明確な言葉を向けた。
「クリスティアナ様。僕は、あなたを存じ上げません。僕の母は、この侯爵夫人ジョアンナ様でございます」
クリスティアナの顔から、血の気が引いた。彼女は、我が子の拒絶という、予想だにしない報いに、言葉を失った。
「僕が十歳の時、僕を置き去りにした女性に、今さら母親面をされても困ります。貴女は、僕を復讐の道具として使い、この侯爵家に混乱をもたらそうとしただけの、軽蔑すべき者です」
ルカの言葉には、十年分の侯爵夫人への感謝と、実母への憎悪が込められていた。
侯爵は、ルカの成長と、クリスティアナへの明確な敵意に愕然とした。
「ルカ! いったい何を言うのだ! この方は君の」
「旦那様」
ジョアンナが、初めて口を開いた。その声は、静かでありながら、その場の全てを支配する力を持っていた。
「ルカは、わたくしがこの十年、侯爵家の後継者として育て上げたわたくしの息子でございます。そして、彼は確かに貴方様の子です」
ジョアンナは、侯爵とクリスティアナを真っ直ぐ見つめた。
「ですが、侯爵家の血筋と、そうでない者とは、意味が違います。ルカの母親は、旦那様がこの屋敷を離れていた十年間、このわたくしでございます」
ジョアンナの勝利は、血縁ではなく、義務と献身によって積み重ねられたものだった。
その上クリスティアナ自身は侯爵家の血筋とはまったく関係ない存在だ。
クリスティアナは、その場で全身から力が抜け、泣き崩れた。彼女の復讐は、ルカという最大の武器によって、無残にも砕け散ったのだ。
侯爵は、この圧倒的な状況に、戦地での甘い愛が、侯爵領での妻の功績に比べ、いかに軽薄なものであったかを思い知った。彼は、十年の間に、最も大切なものを失っていたのだ。
東の国境での戦いは、激戦の末、なんとか膠着状態へと落ち着いたのだという。侯爵領は、領主の帰還を祝い、久しぶりの賑わいに包まれた。
しかし、その帰還は、侯爵夫人の予想通り、平穏とは程遠いものだった。
侯爵の馬車が正門をくぐったとき、隣には、鮮やかな衣装を纏った一人の女性が堂々と乗っていた。男爵未亡人、クリスティアナである。
馬車を降り、侯爵は彼女を隣におき、悪びれる風もなく言ってのける。
「いや、止めても聞かなくてな。クリスティアナに、私が戦地でどれほど励まされたか。押しかけるのを無下に断れなかったのだ。まあ、とりあえず仲良くやってくれ」
侯爵は、侯爵夫人ジョアンナと、長身に成長したルカが並んで立つ出迎えの列の前に立ち、困ったような、しかしどこか満足げな笑みを浮かべた。
その言葉は、感謝を装いながら、本来の妻への見せつけのようでもあった。
ジョアンナは、十年もの間、侯爵家の威厳を守り続けてきた完璧な侯爵夫人として、威厳のある微笑みを浮かべたまま、一歩前に進み出た。
「お帰りなさいませ、旦那様。そして、クリスティアナ様。遠路はるばるのご帰還、ご苦労様でした。旦那様が大変、お世話になったようで感謝いたしますわ」
ジョアンナの態度は非の打ち所がなく、その格式と風格は、クリスティアナの華やかな装いを一瞬で色褪せさせた。クリスティアナは、ジョアンナの揺るぎない威厳に圧倒され、挨拶の言葉すら詰まらせた。
挨拶もそこそこに、クリスティアナは、十年越しの復讐を果たすべく、ルカに目を向けた。
「ああ、ルカ! こんなに大きくなって……! あなたは、わたくしの愛しい息子よ!」
クリスティアナは、感極まったようにルカに駆け寄り、抱きしめようとした。
その瞬間、ルカは一歩退いた。
ルカの視線は、クリスティアナの顔ではなく、彼女の背後に立つ侯爵、そして隣に立つ侯爵夫人ジョアンナへと向けられた。
「ルカ、どうしたのだ? 母上だぞ」
侯爵が困惑したように言った。
クリスティアナは、この機を逃すまいと、侯爵に向かって毅然と告げた。
「旦那様! 彼は、知っての通り、貴方様の子です! あの時、身分の壁に阻まれましたが、わたくしたちの愛の証として授かった、たった一人の息子なのです! わたくしは、貴方様が戦地で戦っている間に、息子を貴族として育てるために、侯爵夫人にこの子を託しました!」
クリスティアナの告白は、集まった使用人たちに激しい動揺をもたらした。
侯爵は、クリスティアナがルカを侯爵邸に置いてきたことは彼女から聞かされていたが、この場で公に、しかもジョアンナの前で告白するとは思っていなかったため、狼狽していた。
しかし、ルカの反応は、クリスティアナの計算を完全に裏切った。
ルカは、クリスティアナを冷たい目で見下ろすと、静かに、そして明確に口を開いた。
「母上」
ルカが発したその言葉は、クリスティアナに向けられたものではなかった。彼は、侯爵夫人ジョアンナに向かって、最も深い敬意を込めてそう呼んだ。
「母上。旦那様のご帰還、おめでとうございます。それから侯爵様、戦地でのお勤めお疲れ様でございます」
そして、ルカはクリスティアナに、初めて明確な言葉を向けた。
「クリスティアナ様。僕は、あなたを存じ上げません。僕の母は、この侯爵夫人ジョアンナ様でございます」
クリスティアナの顔から、血の気が引いた。彼女は、我が子の拒絶という、予想だにしない報いに、言葉を失った。
「僕が十歳の時、僕を置き去りにした女性に、今さら母親面をされても困ります。貴女は、僕を復讐の道具として使い、この侯爵家に混乱をもたらそうとしただけの、軽蔑すべき者です」
ルカの言葉には、十年分の侯爵夫人への感謝と、実母への憎悪が込められていた。
侯爵は、ルカの成長と、クリスティアナへの明確な敵意に愕然とした。
「ルカ! いったい何を言うのだ! この方は君の」
「旦那様」
ジョアンナが、初めて口を開いた。その声は、静かでありながら、その場の全てを支配する力を持っていた。
「ルカは、わたくしがこの十年、侯爵家の後継者として育て上げたわたくしの息子でございます。そして、彼は確かに貴方様の子です」
ジョアンナは、侯爵とクリスティアナを真っ直ぐ見つめた。
「ですが、侯爵家の血筋と、そうでない者とは、意味が違います。ルカの母親は、旦那様がこの屋敷を離れていた十年間、このわたくしでございます」
ジョアンナの勝利は、血縁ではなく、義務と献身によって積み重ねられたものだった。
その上クリスティアナ自身は侯爵家の血筋とはまったく関係ない存在だ。
クリスティアナは、その場で全身から力が抜け、泣き崩れた。彼女の復讐は、ルカという最大の武器によって、無残にも砕け散ったのだ。
侯爵は、この圧倒的な状況に、戦地での甘い愛が、侯爵領での妻の功績に比べ、いかに軽薄なものであったかを思い知った。彼は、十年の間に、最も大切なものを失っていたのだ。
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