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8話
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香水店での騒動から数日後、
屋敷は久方ぶりに穏やかな空気を取り戻していた。
コック長はいつもより少し豪華な食事を振る舞い、若いメイドの二人は玄関を磨き上げ、メイド長は花を飾っている。
「まるで別の屋敷みたいですね」
アラン様が窓辺で微笑んだ。
「そうですわね、以前はもっと暗かった、というより正確には、空気が重く感じられました」
わたくしは飲み物を注ぎながら答えた。
それにしても、アラン様の所作はどうにも猫っぽい。
陽だまりに座る癖も、時折ティーカップの縁を爪でなぞむ癖も。
ふと目をやると、窓辺で尻尾が、ではなく、
長い指先が優雅にカーテンをいじっていた。
「やっぱり、今でも信じられないわ」
わたくしは小さく息をついた。
「あなたがあの、ニールだったなんて」
「僕もですよ」
アラン様は少し笑った。
「あなたの香水実験が、まさか解呪になるとは思いませんでした」
「偶然ですわ。とはいえ、花粉と月光樹の樹液の組み合わせが鍵だったのですもの。学会に出したら面白いかもしれませんね」
「その時はぜひ助手にしてください」
冗談めかした声の奥に、どこか照れくさそうな響きがあった。
ふと、彼がわたくしを見つめた。
「あなたは覚えていないかもしれませんが」
「え?」
「猫だった頃、あなたはよく話しかけてくれたんですよ。今日の紅茶は渋すぎますわねとか、トーマスさんはまた帳簿を見て溜息ですのとか」
わたくしは思わず口元を覆った。
「ま、まさか全部聞いていたのですの?」
「はい。聞くだけでなく、膝の上で寝ながら、ずいぶん慰められました」
その言葉に、胸の奥がほんのり熱くなる。慰めた? わたくしが? ただの猫ちゃんだと思っていたからですわ。
「だから、今こうして人の姿に戻れて嬉しいのです。あなたとの会話をまた、楽しめるから。尤もあの頃は聞くことが専門だったのですがね。それでも僕なりに猫の鳴き声では答えていたんですよ、ニャーとかね」
そう言って、彼は微笑んだ。
彼の穏やかな笑みが、午後の光に溶けていく。
その姿はまるで、長い夢から覚めたばかりの少年のようだった。
ーーーー
外出から戻ったエドモントは、まだ外套を脱ぎもせず、玄関でひとり立ち尽くしていた。
トーマスが口を開こうとしたが、彼は手で制した。
「マーガレットは、どこにいる」
「王都の警備隊に拘束されております。香水事業に関する毒物使用の件で、正式に調査が始まったとのことです」
その報告を受けても、エドモントは驚いた様子もみせなかった。既に知っているかの様に。
やがて、無言のまま外套の裾を翻し、馬車に乗り込む。
そして、王都の留置所。
薄暗い部屋の中で、マーガレットは机に両肘をついていた。
かつて輝いていた金の髪も、いまは埃をかぶった絹のように艶を失っている。
扉の音に顔を上げ、ゆっくりと微笑んだ。
「来てくれたのね、エドモント」
「お前が罪に問われたと聞いた。尤も随分前から察してはいたのだがな」
「罪? あら、それほどのことかしら」
彼女は首を傾け笑った。だが、その笑みはもう、光を失っていた。
「香水の保存剤、あれは毒だった。乳母一家が死に、弟が行方不明になった。それを、お前は知っていたそうだな」
彼女はその事には答えず、話を変えた。
「ねえ、エドモント。あなたは香りというものを勘違いしているわ。人を魅了するのは香りではなく、錯覚よ。あなたも私に、そんな錯覚を見ていただけ」
「もういい、人を殺しておいてお前に罪の意識はないのか? 元々そういう女だったんだな。気づかぬふりをしていた俺も悪かったが。それに侯爵家の財務顧問や乳母たちが亡くなった時の医者ともお前は関係を持っていたらしいな、本当の《悪女》はとうやらマーガレット、お前だったのだな」
エドモントの声は低く掠れていた。
彼は懐から小さな封筒を取り出し、机の上に置く。
「これが最後だ。お前の持ち分と手切れ金だ」
マーガレットはゆっくりと封筒に手を伸ばし、微かに笑う。
「やっぱり、あなたらしいわね。こういう時でさえ清算という言葉がよく似合う」
「俺は、お前を愛していた」
「ええ、知ってるわ。でもその愛はただ、年上の女に対する憧れよ。愛とは違う錯覚だわ。それに今の貴方は昔とは違い、若い子を求めている。だから過去形なのね」
言葉の一つ一つが、まるで硝子のように冷たく響く。
エドモントは視線を落とし、短く息を吐いた。
「もう会うことはない。お前のことは忘れる」
「そうね。でも私の作った香りは、あなたの記憶に残るはずよ、この先もずっと。」
その声を最後に、扉が閉まる。
外の光がわずかに差し込む。
エドモントとマーガレットの関係は、こうして終わった。
愛でもなく、憎しみでもなく、ただひとつの終焉として。
屋敷は久方ぶりに穏やかな空気を取り戻していた。
コック長はいつもより少し豪華な食事を振る舞い、若いメイドの二人は玄関を磨き上げ、メイド長は花を飾っている。
「まるで別の屋敷みたいですね」
アラン様が窓辺で微笑んだ。
「そうですわね、以前はもっと暗かった、というより正確には、空気が重く感じられました」
わたくしは飲み物を注ぎながら答えた。
それにしても、アラン様の所作はどうにも猫っぽい。
陽だまりに座る癖も、時折ティーカップの縁を爪でなぞむ癖も。
ふと目をやると、窓辺で尻尾が、ではなく、
長い指先が優雅にカーテンをいじっていた。
「やっぱり、今でも信じられないわ」
わたくしは小さく息をついた。
「あなたがあの、ニールだったなんて」
「僕もですよ」
アラン様は少し笑った。
「あなたの香水実験が、まさか解呪になるとは思いませんでした」
「偶然ですわ。とはいえ、花粉と月光樹の樹液の組み合わせが鍵だったのですもの。学会に出したら面白いかもしれませんね」
「その時はぜひ助手にしてください」
冗談めかした声の奥に、どこか照れくさそうな響きがあった。
ふと、彼がわたくしを見つめた。
「あなたは覚えていないかもしれませんが」
「え?」
「猫だった頃、あなたはよく話しかけてくれたんですよ。今日の紅茶は渋すぎますわねとか、トーマスさんはまた帳簿を見て溜息ですのとか」
わたくしは思わず口元を覆った。
「ま、まさか全部聞いていたのですの?」
「はい。聞くだけでなく、膝の上で寝ながら、ずいぶん慰められました」
その言葉に、胸の奥がほんのり熱くなる。慰めた? わたくしが? ただの猫ちゃんだと思っていたからですわ。
「だから、今こうして人の姿に戻れて嬉しいのです。あなたとの会話をまた、楽しめるから。尤もあの頃は聞くことが専門だったのですがね。それでも僕なりに猫の鳴き声では答えていたんですよ、ニャーとかね」
そう言って、彼は微笑んだ。
彼の穏やかな笑みが、午後の光に溶けていく。
その姿はまるで、長い夢から覚めたばかりの少年のようだった。
ーーーー
外出から戻ったエドモントは、まだ外套を脱ぎもせず、玄関でひとり立ち尽くしていた。
トーマスが口を開こうとしたが、彼は手で制した。
「マーガレットは、どこにいる」
「王都の警備隊に拘束されております。香水事業に関する毒物使用の件で、正式に調査が始まったとのことです」
その報告を受けても、エドモントは驚いた様子もみせなかった。既に知っているかの様に。
やがて、無言のまま外套の裾を翻し、馬車に乗り込む。
そして、王都の留置所。
薄暗い部屋の中で、マーガレットは机に両肘をついていた。
かつて輝いていた金の髪も、いまは埃をかぶった絹のように艶を失っている。
扉の音に顔を上げ、ゆっくりと微笑んだ。
「来てくれたのね、エドモント」
「お前が罪に問われたと聞いた。尤も随分前から察してはいたのだがな」
「罪? あら、それほどのことかしら」
彼女は首を傾け笑った。だが、その笑みはもう、光を失っていた。
「香水の保存剤、あれは毒だった。乳母一家が死に、弟が行方不明になった。それを、お前は知っていたそうだな」
彼女はその事には答えず、話を変えた。
「ねえ、エドモント。あなたは香りというものを勘違いしているわ。人を魅了するのは香りではなく、錯覚よ。あなたも私に、そんな錯覚を見ていただけ」
「もういい、人を殺しておいてお前に罪の意識はないのか? 元々そういう女だったんだな。気づかぬふりをしていた俺も悪かったが。それに侯爵家の財務顧問や乳母たちが亡くなった時の医者ともお前は関係を持っていたらしいな、本当の《悪女》はとうやらマーガレット、お前だったのだな」
エドモントの声は低く掠れていた。
彼は懐から小さな封筒を取り出し、机の上に置く。
「これが最後だ。お前の持ち分と手切れ金だ」
マーガレットはゆっくりと封筒に手を伸ばし、微かに笑う。
「やっぱり、あなたらしいわね。こういう時でさえ清算という言葉がよく似合う」
「俺は、お前を愛していた」
「ええ、知ってるわ。でもその愛はただ、年上の女に対する憧れよ。愛とは違う錯覚だわ。それに今の貴方は昔とは違い、若い子を求めている。だから過去形なのね」
言葉の一つ一つが、まるで硝子のように冷たく響く。
エドモントは視線を落とし、短く息を吐いた。
「もう会うことはない。お前のことは忘れる」
「そうね。でも私の作った香りは、あなたの記憶に残るはずよ、この先もずっと。」
その声を最後に、扉が閉まる。
外の光がわずかに差し込む。
エドモントとマーガレットの関係は、こうして終わった。
愛でもなく、憎しみでもなく、ただひとつの終焉として。
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