終焉の晩餐会:追放される悪役令息は、狂欲の執事と飢えた庭師を飼い慣らす

河野彰

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第二章:檻の中の小鳥――金貨と蜘蛛の糸

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 夜の帳が下りる頃、リュシアンはかつて愛した楽譜を閉じ、代わりに血の通わぬ数字が羅列された裏帳簿を開く。その震える指先は、今やインクの染みだけでなく、密売組織との接触で付着した薬物の粉末や、他者を陥れるために握った汚れた金貨の臭いに支配されていた。

「これだけで、これだけで……今月は凌げるはずだ」

 彼は独り言を呟きながら、没落しゆく家の紋章が刻まれた重い扉を抜ける。向かう先は、華やかな社交界ではなく、路地裏の湿った闇だ。かつては香水の香りに包まれていた彼は、今や安価な酒と阿片の、鼻を突くような饐えた臭いのなかに身を投じている。

 取引の場。リュシアンは、かつて自身の家の庭園を褒め称えていた下級貴族を冷徹に陥れる。「彼が禁制品を扱っている」という偽の情報を流し、憲兵の目を逸らさせた隙に、自らが手配した阿片を闇ルートへ流すのだ。
 相手が絶望の淵に沈み、連行されていく姿を物陰から見つめるリュシアンの紫の瞳には、ひび割れた鏡のような痛々しい光が宿っていた。良心が悲鳴を上げるたび、彼は自らの爪が肉に食い込むほど拳を握りしめ、その痛みを免罪符代わりに罪を重ねていく。

 深夜、自室に戻った彼は、誰にも見られぬよう吐き気に身をよじらせた。
 金策のために、かつて親交のあった友人に甘言を弄し、架空の投資話でなけなしの資産を奪った。その友人の、自分を信じ切った真っ直ぐな瞳を思い出すたびに、リュシアンは喉を掻きむしりたくなる。

「ああ! 神様! どうか僕を、僕を、殺してくださいっ」

 リュシアンは祈る。しかし、彼がどれほどその手を汚し、精神を磨り減らしても、屋敷の奥で贅沢を貪る父の欲望という穴は埋まることがない。
 月光に照らされた彼の銀髪は、どこか死人のように白く透けて見えた。
 人目を避けて街を奔走し、偽りの微笑みで毒を売り、夜通し数字を弄る日々。その過酷な労働と自己嫌悪は、彼の華奢な身体を内側から食い荒らしていく。
 彼がどれほど傷つき、崩れ落ちる寸前であるか――それを、背後に立つ影が見逃すはずもなかった。

「旦那様、またそんなに震えておられるのですね。せっかく手に入れた金貨を落としてしまいますよ」

 音もなく現れたフェラムが、冷えたリュシアンの肩にカシミアのガウンをかける。その手はいたわりを見せながらも、リュシアンが逃げ出さぬよう、その首筋を優しく、執拗に撫でるのだった。

 夜の闇が帳を下ろし、ローゼンベルグ家の古びた石壁は、その陰鬱な存在感を一層強く主張していた。リュシアンは、今日一日でまた一つ、友人への裏切りを重ねたばかりだった。貴族としての体面を保つためとはいえ、もういくつもの嘘と悪行に手を染めてきただろう。彼の寝室の窓から見える庭の白薔薇は、月光の下でさえどこか血の色を帯びているように見えた。

「旦那様、少しばかり顔色が悪うございます。お休みになる前に、温かいハーブティーでもいかがでしょう?」

 音もなく現れたフェラムが、恭しくそう尋ねた。その声は常に穏やかで、まるでリュシアンの心を慮っているかのようだ。しかし、その瞳の奥には、獲物を追い詰める捕食者の冷たい光が宿っていた。リュシアンは、フェラムの気遣いが、自分を縛り付けるための新たな鎖であることを無意識に感じ取っていた。

「いや、いい。もう、疲れたんだ」

 リュシアンは力なく首を振った。ここ数日、眠りにつくたびに悪夢にうなされ、汗だくで目を覚ます。友人たちの恨めしげな顔、金貨に群がる亡者の手、そして何よりも、自分自身が汚れていく様が、彼を苛んでいた。

 フェラムはそんなリュシアンの様子を一瞥すると、静かに部屋の隅にある書物棚へ向かった。そして、そこから一冊の古びた帳簿を取り出す。

「旦那様、恐れながら。先日、あなた様が手をつけられた禁制品の密売ですが……どうやら帳簿に些かの齟齬が生じているようです」

 その言葉に、リュシアンの心臓が大きく跳ねた。密売の帳簿は、彼が誰にも知られぬよう、完璧に偽装したはずだった。冷や汗が背筋を伝う。

「な、何を言っているんだ? それは、私が完璧に仕上げて……」

「ええ、そのはずでございます。しかし、どうやら私が手に入れた報告書によりますと、取引先の一つが憲兵隊の内偵を受けているとか。そして、その帳簿には、あなたの筆跡と酷似した、少々不自然な記載があるのだそうで」

 フェラムは淡々と告げた。その表情は、まるで明日の天気を話すかのように冷静だ。しかし、リュシアンにはそれが、巨大な蜘蛛が張り巡らせた糸が、じりじりと自分に絡みついてくる音のように聞こえた。

「ま、まさか。そんなはずは……」

 リュシアンは青ざめた顔で帳簿を奪い取り、必死にページを捲る。だが、そこにはフェラムが指摘した通り、不自然に修正された箇所がいくつもあった。それは、確かに自分の筆跡だ。だが、自分には、こんな修正をした記憶が、どこにもない。

「これは!? 誰が?」

 リュシアンの問いに、フェラムは静かに微笑んだ。

「さあ、誰でしょう。ですが、もしこの帳簿が明るみに出れば、旦那様は『裏切り者』として、密売組織からも、そして憲兵隊からも追われることになります。そうなれば、ローゼンベルグ家の名誉は完全に地に堕ち、あなたの命も……」
 
 フェラムの言葉は、リュシアンの耳に突き刺さる鋭い刃のようだった。絶望が彼の全身を支配する。彼はこの罠が、フェラムの仕業であることを無意識に察していた。しかし、それを問い詰めるだけの勇気も、もう彼には残されていなかった。

「どうすればいい? 僕は、どうすればいいんだ? フェラム」

 リュシアンは床に膝をつき、フェラムの足元に縋り付いた。金貨の輝きも、家門の誇りも、もはや彼を救う光にはならない。彼に残されたのは、目の前に立つこの男の、冷徹な支配だけだった。

「ご安心ください、旦那様。すべては私が解決いたします。ですが……その前に、あなた様には、私の言うことを一つ残らず、聞いていただかねばなりません」

 フェラムはかがみ込み、リュシアンの震える顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。紫の瞳は涙で潤み、恐怖に怯えきっている。その無防備な姿こそが、フェラムが求めていた最高の獲物だった。

「私を信じて下さい。旦那様、いえ私のプティ・ワゾー(小鳥)。あなたが、私なしでは生きていけないようにして差し上げましょう。そうすれば、もう誰かに裏切られることも、責められることもありません」

 フェラムの声は、甘い毒薬のようにリュシアンの心に染み渡った。
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