呪われた黒猫と蔑まれた私ですが、竜王様の番だったようです

シロツメクサ

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22.竜の涙

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落ちていくアダン様にしがみついた時、ノエルに深い考えなんて何もなかった。ただ、彼をもう二度と離しはしないという硬い決意と──────────微かな声ではあったけれど、間違いなくノエルのことを見て、気がついてくれたという喜びだけがそこにあって。

つまるところ──────客観的に見て二人揃って墜落している、という事実を、どうにかする術はただの黒猫の獣人であるノエルは持ち得なかったわけで。いくら浮遊する魔術を魔女にかけてもらっていたとはいえ、当然それでアダン様まで持ち上げられるわけではなく。かといって、離すなんて選択肢があるわけもない。だからノエルにできたのは精々、体躯が比べ物にならないと知りながらアダン様を守るようにきつく抱きしめて、毛を逆立てながらぎゅっと目を瞑るくらいなもので──────……

けれど強い風を感じながらも、覚悟していたような衝撃がなかったことに、耳を完全にぺたりと伏せていたノエルは辺りに静寂が広がってから、おそるおそる瞼と耳を持ち上げた。まず目に入ったのは、こちらを取り巻く魔女達と─────泣きそうな顔をしている、深緑の瞳を持つ初老の男性。けれどそれも、ふわりとそこかしこから巻き上がった風と、それに運ばれるようにして周囲を囲み始めた赤い雫に遮られてしまった。思わず驚いたように身体が跳ねて、けれど酷く熱を持った掌にそれを押し止められる。まるで縋るような、痛いほどに力強いそれに、ノエルははっと顔を上げた。そうして漸くノエルの目に映ったのは──────……この世の何よりも美しい、黄金のいろ。それから、ノエルを一心に、瞬きすら忘れて射貫く宝石のような瞳。ただ先ほどと違うのは、ノエルの何倍も大きかったその体躯が、すっかり人の形に戻っていることだ。触れた服の奥から、確かな鼓動が伝わってきて。

──────……アダン様。

人の姿に戻ってもなお、ノエルの身体をすっかり覆ってしまえるほどに大きなその身体の熱を感じながら、ノエルは先ほどの温度を失った血まみれの硬い鱗を思い出して、その無事を悟り安堵からじわりと視界が滲んだ。けれどそれが溢れ落ちる前に、宙へと舞い上がっていた彼が流した血が、円を描くようにしてアダン様の元へ集約し、触れる直前に次々と吸い込まれるようにして消えていく。ノエルは思わず目を見開いてそれを見つめていたけれど、アダンの瞳孔が開いたままの視線はただ一心に、黒猫の獣人である少女のことだけを射貫いていた。やがて主の元を離れていた血液の形をした魔力の塊達が元の場所へと帰り終わったとき、アダンは漸く、酷く震えた、未だ夢を揺蕩うかのような声で口を開いた。

「────────────……ノエル……?」

「は、はい」

そんな状況ではないと分かりつつ、助かったと分かってしまえば彼の腕の中に抱きすくめられていることが気恥ずかしくて、ノエルは何とか返事を返しつつも頬を染めつつ身動ぎをしたけれど、驚くほどに身体が動かなくて思わず困惑した。─────抱きすくめられているというより、これは拘束されていると言ったほうが正しいかもしれない。どうにもならないと悟り、ただ羞恥からぺたりと耳を伏せていたノエルは、何の前触れもなくその黒い耳に確かめるように触れられて、思わずぴぇ、という変な声を上げた。猫の姿の時と変わらず、辿々しい手つきでそこを撫でられて、いくらなんでも今は喉を鳴らしちゃだめ、と咄嗟に必死で自分の本能と格闘を始めたノエルは、もう一度名前を呼ばれて我に返るとぴんとその耳と尾を立てた。

「ノエル」

「は、はい……」

「……俺は、まだ……今際の夢でも、見ているのかな……──────一度だって、ノエルが獣人だったらいいのになんて、考えたこと、なかったのに……」

酷く華奢で、艶やかな黒の耳と尻尾を持った、赤目のとても美しい少女。ノエルが獣人になったのなら、間違いなくこんな姿だろうと思わせるような。アダンはただの一度だって、ノエルがノエル以外のものであればなんて、考えたことなどなかったのに─────それなのに。この上なく、その身を形作る全てが美しいと思ってしまう。この少女に、惹かれ、恋焦がれてしまう。アダンの呆然とした呟きに、黒猫の獣人の少女は─────……ノエルは、少しだけ不安げな顔をした。

「あ……あの、アダン様。……獣人の私じゃ、だめ、ですか……?ま、前の姿の方が、アダン様は……」

鈴を転がすような声を微かに震わせ、へにゃ、と耳をしおらせながらも、無意識なのかいじらしくアダンの身体に尾を絡めてくる少女に、アダンは胃の腑が煮えるような感覚を覚えた。これが死にゆくアダンの夢だと言うのならば、なぜアダンの番は今更そんな馬鹿みたいなことで、こんなにも不安げに瞳を揺らしているのだろう。今更、姿形なんてそんなもの─────。アダンがノエルに求めたものは、ずっと、ずっとただ一つだけだったと、知っているはずなのに。けれど、偽物でもいいと求めたそれを押し付けて、押し付けたから、アダンの、この世の何より愛しい番は。ノエルは─────……ほろ、と唐突にエメラルドの瞳から涙を溢した己の番に、ノエルは目を見開いた。

「────……ノエル」

「ア、アダン様……」

思わず手を伸ばして拭ったそれは、けれどキリがなく次から次に伝い落ちて、まるで雨のようにノエルに降り注いでいく。ルビーの瞳を揺らすノエルに形容し難い感情が湧いて、アダンはきつく、きつく少女を抱きしめた。息も危ういような慟哭の中で、アダンは血を吐くような声で、行き先を無くした想いを吐き出していく。

「何で、……いやだ、嫌だ、いかないで……ノエル……ノエ、ル……ッどうして、……お、俺を、置いて……ッいや、だ……!」

「…………ッ」

加減なく抱きしめられる苦しさよりも。絶望と悲哀に塗れた愛しい人の絶叫の方が、余程ノエルの胸をずたずたに切り裂いた。息をするのがやっとなほどに強く抱きしめられているせいで、ノエルは何も言葉を返すことができない。それでも何か応えて差し上げたくて、夢なんかじゃないことを証明したくて、ノエルはその華奢な腕を伸ばして必死にアダン様の広い背中を抱きしめ返した。そうするとアダン様は肩を揺らして、更にノエルを縛める力が強くなったけれど、お互い力を緩めようなんて考えは少しもなかった。

「……、ノエル……も、もう、嘘でも、あいしてほしいなんて、言わないから……!つれてって。俺もつれてって……ノエルがいるなら、地獄だって、いい。────これが、夢でも構わないから……このまま────……どうか……っ」

涙に酷く滲んで掠れた声で、アダン様がそんなことを言うから。ずっと、ずっと自分にはそんな資格はないと堪えていたのに、とうとう耐えきれなくてノエルはほろほろとルビーの瞳を溶かした。ただ一瞬のことだと思っていたとか、他にやりようがなかっただとか、そんなことは何の言い訳にもならない。アダン様を、この世の誰より愛おしい、大切にしたい人を。こんなことを言わせてしまうくらいに傷付けたのだと、今になってノエルは痛いほどに理解していた。どんなに追い詰められていたって、あんな方法を取ってはいけなかった──────愛する人がある日突然居なくなる恐怖を、痛みを悲しみを。ノエルは、確かに知っていたはずなのに。

それでも。あの時、身寄りがなくて両親のあとを追ってしまおうかと考えたノエルが生きながらえたのは、二人の優しさを、暖かさを、途切れさせたくないと願ったから。二人に疑いようもないほど注がれた愛が、あの日絶望に暮れたノエルのことを生かし、それをアダン様という希望が継いだ。今、これ以上ないほど幸運なことに、ノエルはここで愛しい人の腕の中にいて、間違いなく息をしているのだから─────今度は、ノエルがアダン様を掬い上げる番だ。アダン様に負けないほどに、必死に彼の背にしがみつきながら、息もやっとな中必死に声を絞り出した。

「アダン様……おねが、っ顔を、……見せて……」

途切れ途切れの、か細い声。それを耳にして初めて、アダンは力を入れすぎていたことに気がつき、ほんの少しだけその腕を緩めた。それでも漸く身動ぎが許される程度の窮屈さだったけれど、ノエルがアダンの胸から顔を出し、ぷは、と久しぶりに大きく呼吸するには十分だった。間近で濡れたエメラルドとルビーの瞳が交錯して、それがあまりに美しいから、二人は僅かに息を呑んで─────それから、滲んだノエルの赤い瞳が、ふわりと。砂糖を溶かしたような甘さを伴って緩められた。アダンは、そこに映る感情を悟って思わず息を詰めた。ずっと、ずっと、アダンがノエルに狂おしいほどに向け続けて、何万分の一でも構わないからどうか、ノエルにも同じものを向けてほしいと願って。偽りでもいいと強要するほどに、ずっと、……ずっと─────……

揺れたアダンのエメラルドの瞳から視線を逸らすことなく、やっと、やっと伝えることができるという万感の思いと、ありったけの愛しさを込めて。ノエルはまるで内緒話でもするみたいに──────甘やかな声で囁いた。


「──────────アダン様。私、あなたのことがだいすきです。愛しています。だから……これからずっとずっと、何があっても、いっしょに生きてください」


遅くなって、ごめんなさい。でも夢でもいいなんて言わないで、もしこれが夢だったら、私も泣いちゃいます。

そう言って困ったように、それでも幸せそうに微笑む少女に、アダンは感情よりも先に、本能が。──────何百年、狂いそうな時間の果て、命を捨てかけるほどの絶望の果て。求め続けたものが漸く、本当に漸く与えられたと知って────────言葉もなく。ほろほろと壊れたように流れ続ける雫を、竜の腕の中の黒猫の少女は、何度だってその細い指先で優しく拭った。

「アダン様。たくさん、たくさん伝えないといけないことがあるけれど───────まずは。私と出逢ってくれて、本当に……本当に、ありがとうございます。黒猫の私に躊躇いなく愛を注いでくれて、どれほどに救われたか……────あなたは、私の幸福そのものです」

柔らかに、与えるのが当然のような声色で与えられるそれに、……アダンはとても応える言葉が見つからなくて、縋り付くように少女を掻き抱いた。────そんなの、そんなもの。アダンの方が、何倍も。気が遠くなるほどに。……この美しくて愛らしい黒猫を、それに与えられる全てを、どれほどに……────本当に、これは夢ではないのだろうか。触れる感触も、優しくて甘い香りも、その温もりも。五感の全てがこれを現実だと言っているけれど、それでも未だにアダンは信じられなかった。だって、こんなに幸福で、都合の良い現実が──────本当にあると言うのなら。

そんなの─────……生きていてよかった、なんて、陳腐な言葉しか見つからない。

───────今は、今だけは。戻り始めた正気が、尽きない疑問やすべきことを投げかける声も、どこか遠くで聞いていたけれど。それでもアダンは今だけはと、漸く手の中に収まった少女をまるで翼に仕舞い込むようにして、今は人の姿を取っている腕の中にきつく、きつく掻き抱いてその首筋にただ顔を寄せた。クルル、と酷く嬉しそうに喉を鳴らしながら、アダンは何度も、何度も腕の中の幸福を確かめて。

─────おれのもの。これは、ぜんぶ、おれの。漸く、漸く─────……

くすぐったそうに身を捩りながらも、アダンの番はその尾を大きく緩やかに揺らしながら、嬉しそうにルビーのような瞳を緩めて大人しく腕の中に収まっている。目眩がしそうなその幸福の中、アダンは己の気がすむまで、それが本当に現実だと理解するまで二人、いつまでも身を寄せ合っていた。







─────アダン様を、取り戻すことができて。ずっとずっと伝えたくて、信じて欲しくて仕方がなかった想いを、漸く言うことができて。ノエルは本当に、心の底から幸せだったけれど、それでも当然今の状況全てを忘れ去ることなんてできないわけで。主に、四方から注がれ続けている視線が、それを許してはくれない。アダン様が竜の姿で振りまいたという血は、先程アダン様の身体にある程度戻っていくのを目にしたけれど、もう国は大丈夫なのかも確認しないわけにはいかないし、アダン様の肩越しに、ぼろぼろと二人に負けず劣らず涙を溢してこちらを見つめる初老の男性を見つけてしまえば尚のことだった。

「ア、アダン様……」

すっかり微動だにせずノエルを抱き込んでいるアダンの背中を、促すように優しく撫でると、アダンはゆっくり、名残惜しさを隠そうともせずに顔を上げた。ただ、腕の力は少しも緩まってはいない。目線だけでノエルの促す方向を見て、そこに初老の男性を映すと微かにそのエメラルドの瞳が見開かれた。

「……ジスラン……」

「っっあだ、あだんざま……お、おじゃまして、もうしわけ、……で、でも、ほ、ほんとうに、爺は、う、ぐず……っよ、よぐぞごぶじで…………お、おべで、おめでどうございばず……っっっ」

「────……うん。ありがとう」

アダン様がジスランと呼んだ臣下の方は、顔がとっくに涙でぐちゃぐちゃになって何を言っているのか半分も聞き取れなかったけれど、それでも溢れんばかりの喜びは痛いほどに伝わってきて。アダン様もそれが分かったのか、その宝石のような瞳が微かに緩められた。その表情から感じ取れるのは、長い年月を重ねた末の信頼だ。やっぱりあの臣下の方は、アダン様に深い信頼を寄せられている人らしい。ジスランさん、彼の大切な人、と脳内に刻み込んでいると、アダン様は彼が落ち着くのを少し待ってから、私を痛いほどに抱きしめたままに、素早く被害の確認と指示を始めた。勿論彼の傍にいられるのは嬉しいけれど人目があるのは恥ずかしいし、何より話し辛いだろうと一度起きあがろうと試みたけれど、驚くほどに身体が動かなくてノエルは断念し、大人しく彼の腕の中に収まっていることにした。

流れるように交わされる言葉の端々を聞き取るに、もうアダン様が掛けた古代魔術は解除されているらしく、あちこちに振りまいた魔力────竜の血も、アダン様の元に集約されたようだった。そして、アダン様が破壊よりも血を振り撒くことに注力した影響で、奇跡的に現時点で死者はいないと聞いて、ノエルは腰が抜けそうなほどに安堵した。彼が何をしていても、絶対に共に背負うと決めていたけれど────それでもノエルが原因で誰かが命を落としていたら、その重さは本当に、途方もないものになっていただろう。とはいえ当然怪我人もいれば建物や森林の被害も甚大なわけで、それは対処しなければならないけれど──────少なくとも、命を落としたら二度と取り返しなどつかないのだから、比べ物にならない。ノエルが安堵の息を吐いている間に、一通り対処や指示を受け終えたジスランさんは深く、深く一礼し、それからその深緑の瞳を酷く優しく緩めて、ただ一度ノエルのことを見た。その時に─────ああこの人は、本当にノエルがアダン様の元に戻ってきたことを喜んでくれているんだな、と悟って。足早に去っていくその背中を見送りながら、ノエルはアダン様が彼を信頼する理由が分かるような気がした。


「……ノエル」

アダン様に僅かに硬い声で呼びかけられて、ノエルははっと顔を上げた。ずっと虚だったそのエメラルドの瞳は、時間が経ったことで僅かに落ち着いたのか、────それともノエルが逃れようもなくアダンの腕の中にいるからか、今は確かに理性の光が宿っている。でもよりその瞳に濃く映るのは────不安と恐怖だった。ノエルに呼びかける声は、どんなに抑えてもどうしようもなく震えていて。

「────……正直、まだ……君が、腕の中から消えてしまうんじゃないかとずっと、……恐ろしいんだ。これが、本当に現実なのかどうかも。だって、俺は、確かに見たんだ。……確認もした。ノエルはあの時、……確かに……っ」

ひゅぅ、と息を詰めたアダン様に、ノエルは慌てて精一杯腕を伸ばしてその背を撫でた。頼りないほどに優しいその手つきも、そこから感じる温度も、これが現実だとアダンに確かに伝えている。けれど、アダンのこの世の何より愛しい小さな黒猫が命を落としたのだって、鮮烈な現実だったはずだ。悪夢であればいいと、幻覚であればいいと願うことすらも、あの時のアダンには許されなかった────番がこの世から消えたということから、目を逸らすことなんてできるはずがなくて。でも、今この腕の中にいる黒猫獣人の美しい少女だって、間違いなくノエルだ。姿形がどんなに変わろうと、アダンが番のことを分からないはずがない。だから────……

「……ノエル、俺は……本当は、君が傍にいてくれるなら、俺を────愛していると言ってくれるなら、細かいことはどうだっていい。でも……君がまた、どんなに抱きしめていてもこの手をすり抜けていくんじゃないかと思うと……────恐ろしくて、どうにかなりそうなんだ。だから……聞かせてほしい。一体何があったのか。……どうして、その姿になったのかも」

声を震わせながら、エメラルドの瞳を揺らして、アダンは腕の中の少女に懇願した。正気を取り戻しても、いまだその瞳の奥には拭えない猜疑心が渦巻いている。求めて、狂うほどに求めて、漸く手に入れたと思えばそれは手からこぼれ落ちて。それを繰り返したアダンの心は今だって深い傷を負っていて、それはただの一度も、腕の中の少女を離すことができないほどに。そしてその恐怖は、今一番近いところにいるノエルにも当然伝わっていた。この深い深い傷をつけたのは、間違いなくノエルだ。癒すのにどれほど時間がかかるか分からないけれど、ノエルはそれに、誠実に向き合うと決めていた。ルビーのような瞳に決意を込めて、黒猫の少女は頷きはっきりと応えた。

「────────はい。長い話になるかもしれないけれど……最初から全て、お話しします。どうか聞いてください、私が思っていたこと、……辿った道を、全部」




たまに前後関係があやふやになったり、ずっと後から注釈を入れたり、思い返してつい言葉が詰まったり。ノエルの話は決して聞きやすいものではなかったと思うけれど、アダン様はただの一度も口を挟むことはなかった。そのエメラルドの瞳は一度だってノエルから逸らされることはなかったから、ちゃんと聞いているのか不安になるようなことはなかったけれど、それでもこんな説明でちゃんと理解してもらえているか心配になる。けれどその瞳がノエルが話すことを促していると感じたから、ノエルは必死に、この腕の中に辿り着くまでの長い旅路を語った。

──────黒猫の獣人であるノエルは、厄災を運び込む能力を抑えるために、魔女に姿を変えてもらって。けれど魔女とはぐれてしまった末に、王宮に迷い込んで、番であるアダン様に出会って。

番に厄災を齎すなんて絶対に耐えられなかったから逃げようとしたけれど、うまくいかなくて。だから魔女が迎えに来てくれた時、彼女にとても懐いているような素振りをしてみせた。その時は竜人が番に対してどういう考えを持っているのか知らなくて、それが最善だと思っていたから。

けれど魔女の元で知識を得て、竜人のこと、竜人の番のこと、それから黒猫の獣人が持つ本当の力を知って。ノエルの両親と魔女の師匠の、過去の縁を見て。──────アダン様の傍にいてはいけない理由が、なくなって。

でも黒猫の姿のままでは逆鱗の儀ができないから、元の姿に戻る方法のうち、時間はかかってしまうけれど安全なものを選ぼうとした。けれどそれの準備が終わる前に──────……アダン様が、ノエルを迎えに来たから。

現状を打破する方法が、他に浮かばなくて。その中で、逆鱗の儀ができないことに絶望するアダン様を、見たくなくて。言い訳はいくらでも並べられるけれど、結果は変わらない。どう言い繕ったってノエルは、間違いなく愚かな選択をしたのだから。

伝わっただろうか。信じてもらえただろうか。そんな不安を抱きながらも、漸く一息吐いたノエルは顔を上げて、ルビーの瞳で揺れるエメラルドの瞳を真っ直ぐに見返した。

「─────……アダン様。私が無知だったせいで、あなたのことをたくさん……本当にたくさん傷つけました。許してほしいとは、言えないけれど……でも、どうか信じてください。私も一目見た瞬間に、あなたが番だと分かりました。私には何の力もなかったけれど、それでもアダン様のことを守りたかった。今にして思えば、それはアダン様のことを、傷つけるだけに終わってしまったけれど……」

へにゃ、と耳と尻尾が悲しげに力を失ったけれど、それでもノエルは悲しげに赤い瞳を揺らしながらも、目を逸らすことはしなかった。アダン様に伝えなくてはいけないことが、たくさんある。一番は、ノエルの愛を伝えること。そして、その中の一つは────

「────────ごめんなさい、アダン様。誤解させて、遠ざけて、傷つけて。本当は、私に言う資格なんてないのかもしれないけど……」

ずっと、ずっと、ノエルはアダン様に謝りたかった。最初からもう少し、ノエルが彼のことについて知っていたら。恐れずに、彼と関わりを持っていたら。たらればに意味はないと知っていても、こんなに遠回りをせずに済んだんじゃないかと思わずにはいられない。謝って事が済むには、ノエルの行動が人々に与えた影響はあまりに大きいけれど、それでも伝えなければいけなかった。言い切ってつい視線を下げてしまうほどには、彼の反応が怖かったけれど────逃げてはいけない。例えどれほどの謗りを受けるとしても、それは全て、ノエルが受けるべきものなのだから。

────────ノエルの話の終わりを悟り、アダンは暫く、咀嚼するように沈黙した後。躊躇いがちに、それでも堪えきれなかったように、酷く優しくノエルの黒く美しい長髪を指ですいた。思わずはっと顔を上げたノエルのルビーの瞳に映るエメラルドの瞳は、酷く優しく、暖かな色を帯びていて。

「……一度にたくさんのことを聞いたから、理解しきれていないところがあるかもしれないし、いくつか確認したいこともある。でも、これだけは確かだ──────俺は、ノエルの正体がなんだって、構わなかったんだよ。俺に本当にどれほどの厄災を齎すことがあろうと、君が傍にいてくれたなら、俺は喜んでそれを受け入れた。本当は悪魔で、魂を渡せと言われることがあったって、俺は心から喜んで明け渡しただろう。そんなもので、君が傍にずっといてくれると言うのなら。─────だから」

僅かに声を震わせたアダン様は、ぎゅう、とノエルを腕の中に抱き込んだ。今度は痛くないよう加減されたそれは、それでもアダン様の香りも酷く早まる鼓動も、鮮明にノエルに伝えてきて、思わず顔に熱が集まってしまう。

「……もう二度と。俺のためだと言いながら、俺から離れていこうとしないで。─────俺がこの世で恐れるのは、ただそれだけなんだ」

震える声で紡がれたそれに、ノエルは性懲りもなく視界が滲むのを感じて、そろりとアダン様の背中に腕を回した。掠れてしまったはい、という返事は、彼に届いただろうか────ノエルのそんな微かな不安は、腕の力が強められたことで解消された。考えないといけないこと、やらなければならないこと、きっと目眩がするほどにあるけれど、それはアダン様とのこれからがあるからだ。そう思うとどうやったって、胸の底から湧き上がる喜びを、止めることなんてできなくて。決して逃げたりしない、これからノエルを襲う苦難も非難も、正面から受け止めると誓うから。それでもどうか今だけは、もう少しだけ、と誰ともなく言い訳をして、ノエルは酷く暖かいその胸に、そっと頭を寄せて目を閉じたのだった。
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