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21.再会の赤い月

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「アダン様、アダン様……っ」

うわ言のように呟きながら、ノエルは草木をかき分け、ただ一心に薄暗い森を駆けた。もう目と鼻の先のはずなのに、その短い距離が永遠のように感じて仕方がない。早く、早く─────、あまりに心が逸っていたせいか、枝に髪が引っかかりノエルはべちゃりと転んでしまった。

「う……っ」

魔女のローブが分厚かったおかげで怪我はないけれど、衝撃に思わず呻いてしまう。体が土でどろどろになってしまったけれど、そんなことには構っていられなかった。空を見上げれば、夥しい血を流しながら宙に縛められて、少しも動かない番がいるのだ。ノエルにも、彼みたいな大きな翼があればよかった。そうしたら、すぐにでもアダン様の元へ飛んでいけるのに。震えそうな足を叱咤して、ノエルは立ち上がりまた枝に髪が引っかからないようフードを被ると、再び一心不乱に走り始めた。痛いほどの鼓動も、今にも滲みそうな視界も全て置き去りにして、ただ風を切り裂いて足を動かす。

今ノエルの頭には、愛しい番のことしかなくて─────だから、漸く草木をかき分け、木々のない開けた場所……宙に縛められているアダン様の真下まで来た時に。後先考えずアダン様に駆け寄ろうとして、鋭く引き止められた時に我に返った。

「待ちなさい!……貴女、集められた魔女ではないでしょう。絶望の底に居る我が主に、何の用です。ここは危険だと、見て分からないのですか」

ノエルの行手を遮るように体を割り込ませてきたのは、魔女と同じようにあちこちを赤く染めた、乱れてしまった白混じりの髪を後ろに流す初老の男性だった。その深緑の瞳は鋭い警戒を宿してノエルを射抜いていて、思わずたたらを踏んでしまう。ノエルはアダン様しか目に入っていなかったけれど、周囲を見ればこの男性だけでなく、魔女と似たようなローブを羽織り、同じように竜の血で全身を染めた人たちが何人も寄り集まり、口々に既に掠れた声で呪文を唱えていた。恐らくは、流れ続けるアダン様の血を、留めるための呪文を。ノエルは焦れた気持ちで、一心に上空のアダン様を見つめた。もう、すぐそばに彼がいるのに。こんなところで、時間を取られている場合ではないのに─────……

「わ、私は……っ」

この人は、アダン様の臣下だろうか。一体なんと説明すれば、黒猫が一度死んで獣人に戻ったなんて荒唐無稽な話を信じてもらえるのだろう。そもそもアダン様が黒猫であるノエルのことを、どう近しい人に説明していたかさえも、ノエルは知らないのに─────焦りのあまりうまく言葉が出てこないノエルを不審に思ったのか、なおさら初老の男性の視線は厳しいものになる。

「私は、我が主がどのような道を辿ろうと、臣下として最期まで共にあるためにここにいるのです。何が目的か存じませんが─────それだけの覚悟がないのならば、どうぞお引き取りを」

重々しく放たれたその言葉に、ノエルの胸に湧き上がったのは─────燃えるほどの、激情だった。どちらかと言えば穏やかで臆病な性格のノエルには、今までなら考えられないほどの。……覚悟が、ないのならば?この人は、今そう言ったのか。─────そんなもの。アダン様の為なら、ノエルの全てでも、世界の全てでも。そんな覚悟、ずっと、ずっと前からできている。両親を失って、何も持たなかったノエルの空っぽの心を埋め尽くしたのは、アダン様の優しさと愛情だった。だから、アダン様はノエルの全てなのだ。それは、それだけは、誰にだって否定はさせない。──────────顔を上げたノエルの、フードの隙間から覗く赤い瞳は─────……燻る激情を映して淡い光を帯びていた。焦って言葉が滑っていたのが嘘のように、通る声が赤い月の元で響く。

「──────────私は。アダン様の為に、自分だって、世界だって、捧げる覚悟でここにいます。でも、何よりも。……彼を、幸せにしたい。取り戻したい。─────……だから、そこを退いてください……!」

血の滲むようなその声に、その瞳のルビーのような輝きに。一瞬呑まれた初老の男性─────竜王の忠実な臣下であるジスランは、他の魔女に比べて随分小柄なその少女を数瞬、言葉もなく見つめて─────次の瞬間。悪戯に木々の間を吹き抜けた風がその少女のフードを巻き上げ、黒い柔らかな毛に覆われた耳が姿を現した。見開かれたルビーの瞳に、その裾から揺れる耳と揃いの色の尾。それがかつての記憶と重ならないわけもなく、ジスランは呆然と呟いた。

「黒猫の獣人……?貴女は……いえ、待ってください、……その首飾りは……!」

赤い月の光に晒された少女の首元に輝くのは、ジスランの主の瞳と同じ色をした首飾り。それも、この世でただ一つ、アダン様を示す紋章が刻まれた────……ジスランは、当然それに見覚えがあった。魔女による忌々しい首輪が消えたからと、アダン様が漸く取り戻した番である黒猫のために特別に誂えた、この世にただ一つの────……どうして、それをこの少女が。しかも、黒猫の獣人なんて────────これでは、まるで。

「───────そういうこと。この子は、あの竜王の番よ。だから言ったじゃない、諦めるには早いって。魔女は嘘を吐かないっていうのに……貴方、聞く耳も持たないんだもの」

ジスランの疑問に応えるように、飄々とした声でそう言いながらどこからか姿を現した魔女に、二人は振り返り目を見開いた。髪を払いながら軽い足取りでこちらへ近づいてきた魔女は、胡乱げな瞳でノエルに視線を投げる。

「全く、突然飛び出していくんじゃないわよ。何事もなく辿り着いたからいいものを……うっかり何かあってみなさい、流石にもうどうにもならないわよ」

「す、すいません……」

アダン様を見て完全に頭に血が昇っていたけれど、言われてみれば返す言葉もない。しなしなと黒い耳と尻尾をへたらせたノエルは、でも、ともう一度アダン様を見上げた。最初見た時からずっと変わらず、ぐったりと動かず血を流すその姿を。ぎゅう、と心臓が切り裂かれたかのように痛んで、未だ呆然とした様子のジスランを余所にノエルは魔女に向き直った。

「魔女さん、どうか私をアダン様の傍に───────」

焦燥を帯びたノエルの声は、突如響いた轟音にかき消された。弾かれたように顔を上げた三人が見たのは───────多くの魔女によって何重にも魔術で拘束されているにも関わらず、それを鋭い鉤爪で徐々に引きちぎる、獣人の王の姿だった。竜王を拘束していた魔女達は、俄に焦りを帯びた声を上げ始める。

「あーもー、この失血でまだ動けるっていうの……!?竜王って本当に化け物なんじゃない!?」

「っ、一旦撤退を」

「馬鹿、輸血の魔術を止めてアレがおっ死んだら、古代魔術が発動して全員まとめてお陀仏だっての!」

「だぁあ最悪、ほんとに最悪!最高に面倒くさいことに巻き込んでくれちゃってさぁ……!」

十人十色の声を上げながらも、魔女なだけあってか魔術を操るその指先には迷いがない。それでもその甲斐なく、黄金の竜は拘束を何度でも、いっそ煩わしそうな仕草で引きちぎり───────それから。天を破るほどの、空気を震わせる咆哮を上げた。一瞬、その場に居る全員の息が止まる、それほどの威圧に満ちた竜の咆哮。そして───────拘束を振り切り、ゆらりと身を起こした黄金の竜は、何も映さない虚ろな瞳で、苛ついたように軽く、腕を一振りして───────それだけで、周辺の木々が真っ直ぐ刈り取られ、爆風に吹き飛んでいく。上がる悲鳴と砂埃に魔女やジスランは腕で顔を庇ったけれど、ノエルは……ノエルだけは。まるで釘付けになってしまったように、咆哮をあげて空を飛ぶ番に、目を奪われていた。

「ああもう間の悪い……っ一旦離れるわよ、あの様子じゃ今は貴女すら分からないかも─────」

「魔女さん」

嫌に落ち着いたその声に、魔女は眉を寄せて少女の方を向いた。交錯した赤い瞳には、よく見る怯えた光や、臆病な色はどこにもなくて─────ただ、覚悟と決意だけが、爛々と強い輝きを放っている。傲岸不遜な魔女が、状況も忘れて一瞬息を呑むほどには、その赤の瞳は美しくて。だから魔女は、黒猫の少女の放った言葉に反応するのが、一瞬だけ遅れた。

「私を、アダン様の元に。お願いします」

「──────────は、貴女何を……暴れてるアレが見えないってわけ?」

「呼ばれてるの。──────アダン様が、泣いてる。行かなきゃ」

躊躇いなく返された、確信を持った声。そこには恐れも、怯えも、何一つ無くて─────ただ。泣き叫ぶような咆哮が、ずっとノエルの脳裏を反響していた。今すぐに、彼の元に行かないといけない。でもノエルは猫の獣人だから、都合の良い翼なんて持ってない。大きな黄金の翼を持つ彼に追いつくには、魔女の助けが必要だった。言葉もなく薄紫と赤の瞳が僅かに交錯して─────そうして先に折れたのは、魔女の方だった。地の果てまで届きそうなため息を吐いたあと、魔女は砂埃を手で払いながら、未だ騒がしい魔女の集団へとよく通る声で呼びかける。

「ちょっと、あの程度なら生きてるわよね?まあ最悪魔力だけあれば命はいいわ、一旦そっちの魔術は止めていいわよ。この娘をアレのとこまで飛ばすから、その残りカスみたいな魔力貸してちょうだい」

あまりの言いようにノエルとジスランが目を剥くのと同時、砂埃の向こうから喧々囂々な声が返ってくる。やれ誰のせいだと思ってるだの、もし生き残ったら覚えてろだの不穏なものばかりだけれど、魔女は涼しい顔でそれを受け流し、促すようにノエルの背を押した。やがて砂埃も晴れ、そこから姿を現したの少女に、未だ魔術を組み上げていた魔女達は、その色とりどりの瞳を見開く。─────竜王アダンの番。音に聞いていた通りの見事な赤目の黒猫獣人の少女。その反応を愉快そうに眺めながら、ノエルを引き連れた魔女はにやりと口角を上げた。

「──────────気が変わったかしら?最終兵器のご到着よ」





とん、とノエルの背中に、魔女の嫋やかな指先が当てられる。そこからじわりと温かな何かが染み込んでいくような気がして、ノエルは不思議なその感覚に思わず身じろぎしたけれど、動くなと怒られてしまったので必死にじっと耐えていた。やがて、魔女の滔々とした詠唱が始まる。他の魔女達から魔力を借りているとはいえ、それは今行うには多少堪える魔術だったけれど、そんなことはおくびにも出さずに魔女は完璧に魔術を編み上げた。

「『我は尊き魔女。一切を手にする者。──────この者に、一時星の海を泳ぐ形なき鰭を』」

詠唱が終わった瞬間、まるで重力が無くなってしまったかのように体が軽くなって、ノエルはそのルビーの瞳を見開いた。試さなくても、確信があった。ふわりと、体が浮き上がるような感覚──────今なら、アダン様の元へ行くことができる。ノエルは振り向くと、魔女の薄紫の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「……魔女さん、本当にありがとうございます」

「そう思うなら、さっさとあの傍迷惑な生き物をどうにかしてちょうだい」

鬱陶しそうに手を振られるも、ノエルは真剣な表情で首を縦に振った。アダン様を絶望に突き落としたのは、ノエルだ。その結果、多くの人に被害を被らせてしまった。だから、絶対に、この手でアダン様を掬い上げないといけない。──────何よりも。ただの黒猫ではないノエルの声で、姿で。伝えないといけない気持ちが、数えきれないほどにある。もう、ノエルの華奢な身体に収まらずに溢れてしまいそうなほどに。赤い月を見上げ、ノエルは背筋をピンと伸ばしてから振り向くと、その場に居る人たちに向かって一度、深々と頭を下げた。

「……私の軽率な行動で、たくさんの……本当に、たくさんの人に、ご迷惑をお掛けしました。謝って、どうにかなることではないけれど──────アダン様のことは、絶対に、私が掬い上げます。何があっても」

深い決意を込めて言い切り、そうして顔を上げたとき、深緑の瞳と視線がかち合って、ノエルは思わず目を瞬いた。そういえば、それどころではなかったせいで、アダン様の臣下であるらしい彼はまだまともな説明も受けていないようだった。きっとノエルがアダン様の番であるということすら、まだ飲み込みきれていないに違いない。彼の忠義心は、まともに言葉を交わしていないノエルですら、最初のやりとりでわかる程には深いものだった。きっと、今まで誰よりもアダン様を支えていたのは彼なのだろう。すぐに詳細を説明できないことがとても申し訳ないけれど、今はアダン様の元へ向かうのが先決だ。微かに眉を下げつつ、赤い月が輝く空を振り仰ぎ、足に力を込めた時──────後ろから。

「……どうか。アダン様のことを、よろしくお願い申し上げます。……番様」

確かに、そう背中を押す声が聞こえて──────ノエルは、思わず喉の奥が熱くなるのを感じた。けれど思わず振り向いた時には、ノエルの体は踏み込んだ足の勢いのまま、宙へと浮き上がっていて。ノエルを見送った人たちの影は、遥か眼下に遠のいていた。もう瞳の色すらもう分からないほどに遠いけれど、それでも────ノエルを見送るその視線が、暖かなものであるという確信が不思議と湧いて、ノエルは滲みそうな視界を瞬きで散らした。……彼の傍に長く仕え、最期まで彼の忠臣として傍にあろうとした人に、アダン様のことを託された。それは、ノエルの心に酷く熱い炎を灯した。もう振り返ることはせず、ただ真っ直ぐに前を─────気まぐれに木々を薙ぎ倒し砂埃を巻き上げながら、だらだらと血を流し続けている痛ましい番の姿を射抜く。

人の姿の時と同じ、そのエメラルドの色をした瞳はけれど酷く虚で、最早なにも映してはいない。まるで早くなくなってしまえばいいとばかりに、だらだらと血を流して、時折気まぐれにその腕を振るい大地を抉る。それは彼のことをよく知らない者が見れば、感情なく破滅をもたらす厄災に見えるのかもしれないけれど──────ノエルは巻き起こる風に足を取られそうになりながらも、瞼の奥が熱くなるのを感じていた。だって、大地を揺らすその声に、仕草のひとつに──────……とても言葉では言い表せないような絶望を、感じ取ってしまったから。どれだけ、アダン様が苦しんでいるのか、その一端を飲み込んでしまえば……恐れなんて、少しだって湧いてこない。

赤い雫も、気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな強い風も、大地を割るほどの咆哮も。全部を受け流して、ノエルは空に足を踏み出した。文字通り地に足のつかない歩みは遅々としていて、側から見れば危ういものだったけれど────ノエルのルビーのような瞳には不安などどこを探しても見当たらず、ただ一心に黄金の竜だけを捉えていた。一歩、一歩、逸る気持ちを動力にして、小さな黒猫の少女は夜空を泳ぎ、黄金の竜へと近づいていく。漸く、騒音の中にあっても声が届くような距離まで来て、ノエルは耐えきれず、絞り出すようにして叫んだ。

「────────────────……アダン、様……っ」

精一杯に張り上げた声でも、劈く風の音、黄金の竜の翼の音の中では、どうしたってかき消されてしまうような声。それでも、確かに─────一瞬、そのエメラルドの瞳が、弾かれたようにこちらを見た、気がして。赤い月が浮かぶ夜空の中、ほんの一瞬だけ、混じり合った視線は─────けれど、ふと黄金の竜が、ぐらりとその巨躯をふらつかせたことで断ち切られた。ノエルが息を飲むのと同時、血を失いすぎた竜はゆらりと傾ぎ、どんどんとその高度を落としていく。

「……いや、アダン様……っ!!」

叫んだノエルが、足を踏み出して追いかけようとした瞬間─────……ぶわ、と轟音と共に巻き上がった強風に、ノエルは思わず両腕を交差させて顔を庇った。それと同時、ずっと遠い地面で、それでも届くほどの悲鳴が上がる。何とか目を開けてみれば、黄金の竜はグルル、と威嚇するような低い唸り声を上げて、まるで最後の力を振り絞るように腕を振り上げ、大地を幾度も抉っていた。もう飛び続けるのも辛い様子だったのに、そんなことはお構いなしに。それを見て、かっとノエルの頭に血が上った。──────────アダン様は、ここで自分の命を終わらせようとしているのだ。そう悟ってしまったら、ノエルの心に湧き上がるのは、怒りにも似た激情だった。どの口がとか、誰のせいだとか、そんなことは全部、どこかに吹き飛んでしまって、ただ。

───────許せない。出会っておいて、私の心の隙間、全て埋め尽くしておいて。……それなのに、居なくなるなんて。幸せにならないなんて、絶対に、許さない。

湧き上がるその想いのままに───────ノエルは、走るなんてものじゃない。文字通り、星の海へと勢いよく、飛び込んだ。遠い地面で、竜の猛攻の中でもノエルのことを見守っていた人たちが思わず悲鳴を上げたけれど、今のノエルの耳には入らない。大体、獣人の姿になっていたからって、すぐに気がついてくれないアダン様がいけないのだ。あんなに、ノエルのことを愛してるだの、愛してほしいだのと言っていたくせに。今なら、それが叶うのだから───────……今更、受け取らないなんて、そんなの、絶対に認めない!

鋭い風が、巻き上がった木の破片が、落ちていくノエルの身体を掠めていく。でも、そんなものどうだっていい。自分のことがどうだとか、そんなことは一切頭になかった。全ての音が遠くなって、意識がただひとつに集中する。他に目をやることもなく────……ノエルは、細くて白い腕をただ、一心に伸ばして。そうして、漸く。────……その指先が微かに、堕ちていく黄金に届いた。

指先に触れる、酷く温度を失った愛しい人の身体。ノエルの何倍も大きいそれには、どんなに腕を伸ばしたって回すことさえできないけれど、それでも。体温が移るようにと必死に願って、ノエルはきつく、きつく、しがみつくようにしてそのおおきな黄金の身体を抱きしめた。そうしてもう一度、他の何にも負けないよう、声を張り上げて叫ぶ───────────……ノエルの全て。この世の何よりも、愛しいひとの名を。

「お願い────……戻ってきて、アダン、様……ッ!!」






──────悲鳴。絶叫。鉄錆の臭い。痛み。……全部、全部、煩わしくて、どうでもいいものだった、はずなのに。もう、終わりたくて。ぜんぶ、ぜんぶ、壊して、壊したら、もう眠りにつきたくて。なのに────────濃い鉄錆の臭いの中に、酷く愛しくて、焦がれた匂いを、感じた気がしたから。だから、そんなものに繋ぎ止められて、アダンは未だに息をしている。

もう、視界も酷く霞んでいて、ほとんど何も見えやしない。それでも─────その視界にもう二度と、あの小さな、愛しい黒猫が映ることがないのだけは鮮明に理解していて、だからいっそ何も見えなくなったって構わなかった、のに。なのに─────どうして。

声が、聞こえる。少女の声が。聞いたことのない声の、はずなのに─────どうして、こんなにも、心地よく耳に響くのだろう。いつまでも聞いていたいなんて、馬鹿なことを思うのだろう。そんな風に思ったのは、アダンの愛しい、もうこの世にはいない小さな黒猫のことだけだったはず、なのに。もう、何かに心を動かすのは辛い。期待して、取り上げられるのは怖い。だから、もう、何も見ずに、何も聞かずに、何も与えられずに、終わってしまいたいのに──────……ぼやけた視界の中、誰かの姿が映る。ふわりとアダンの身体を包む、その温度と、愛しい匂い。ぼやけていてもわかる、愛しい番と、同じいろ。

──────その姿を見たい、と思った時点で、アダンの負けだったのかもしれない。


赤い月が輝く夜空の中を、大きな黄金の竜と、それにしがみつくようにきつく抱きついた黒猫の少女が二人揃って堕ちていく。けれど悲鳴も、風を切る音も、二人には聞こえていなかった。間近で、今度こそ確かに、いつかのようにルビーとエメラルドの瞳が交錯する。今だけは、それが世界の全てだった。──────まるで、アダンの視界に入れたことを喜ぶみたいに。花が綻ぶようにふわりと、赤い瞳を持つ少女が微笑んで。それを目にしたアダンは、何を考える暇もなく、何を理解する暇もなく──────馬鹿みたいに、ほろりと、涙が溢れたのを感じた。

「──────────────────ノ、エ……」

「はい。ここに」

声にもならないような、掠れた音。それでも、芯の通った声が返ってきて。─────────黄金の軌跡を描きながら地へと堕ちていく竜は、ただ一心に、純粋に、祈っていた。

これが、今際の際に見る夢でも構わない。ただ、どうか、永遠に醒めないでほしいと─────────
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