彼は政略結婚を受け入れた

黒猫子猫

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非常手段

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 やがて、彼の政略結婚の話は、アネットの耳にも届いた。

 元が竜であることもあって、身体能力が高く、目も良ければ耳も良い。だから、一人のんびりと廊下を歩いていた時も、侍女たちの他愛のない雑談がどうしても聞えてくるのだ。

「ジャックス様は面倒見の良い方だから、ずっとお傍にいたアネット様が負傷されて、心配されているのは分かるけど⋯⋯いつ王宮から出すおつもりかしら」

「そうねぇ⋯⋯。水竜様とはいえ女性の姿をされているから、クローディア様も気分は良くないわよね。ジャックス様に早くお会いしたいと、何度も使者を送ってきているそうだけど⋯⋯このままだと顔を合わせてしまうわ」

「姫様からしたら、王妃になる好機ですものね⋯⋯。気がはやるのも当然よ。ジャックス様はどうするおつもりかしら? 悩ましいわね」

 そんな話を、アネットはもう何度聞いたか分からない。
 唯一の救いは、ジャックスが彼女をどう思っているのか、という事が一切伝わってこない点だ。

 将来が関わってくるだけに、彼も慎重になっているのかもしれない。

 アネットは、侍女たちと鉢合わせにならないよう、方向を変えた。自分は良くても、彼女たちは気まずいだろうと思ったからだ。最近、王宮の人々が少し余所余所しい。王都が平和になればなるほど、王座への関心が高まっているからだろう。

 ――――みんな、私の事は気にしなくていいのに⋯⋯。

 ジャックスにとって自分は戦友だ。海から出て、彼と共に戦うと名乗り出た時に、アネットは最初から彼にこうも言っていた。

『戦が終わって、ザッフィーロに平和が訪れたら⋯⋯私は海に帰るから』

 アネットが望んだ訳ではない。母竜との約束があったからだ。そして、もう一つの約束は結婚・・だった。

『海に帰ってきたらお前には見合いをして、子を産んでもらう。人間などにまたほだされても困るからな。良い雄を見つけておく』

 そう母竜からは釘を刺された。受け入れたのは、ジャックスへの想いは敬愛の念だからだと思っていたからだ。しかし、戦後になって、彼と触れ合うたびに、キスをされるたびに、優しく微笑まれ甘い声を聴くたびに。

 アネットの心はとろけそうになった。

 傷を負ったのは不覚だったし、よもや日々キスをされる事になるとは思ってもいなかったが、お陰でジャックスとゆっくり過ごせた。

 アネットにとって僥倖ぎょうこうといえたが、母との約束をたがえる訳にはいかない。ジャックスの元に留まりたいと願ったら、母は水竜の加護を今後一切与えないと言い放つだろう。戦禍に傷ついた国にとって大打撃になる。

 ――――このまま私が帰るのが⋯⋯お互いに一番いいこと⋯⋯。

 胸のうずきを感じながら、アネットは重い足取りで進んだ。その歩みも、曲がり角にさしかかった時に止まった。庭先で、宰相とジャックスの話し声が聞こえてきたからだ。

「――――クローディア様の事、早く公表された方が良いかと思いますよ。相当れていらっしゃるようで、今日も王宮に来たいから許可が欲しいと、使者が言ってきました」
「⋯⋯待てと言っておけ。アネットの傷の方が心配だ」

「もう治っているそうじゃありませんか」
「まだだ」

 頑として言い張る彼に、宰相は苦々し気な顔をしたし、ジャックスもいささか気まずげに目を逸らす。今は王宮に止めるための口実に使っていると、とっくに見抜かれているからだ。

 短い沈黙の後、彼は根負けしたように呟いた。

「⋯⋯なんて、俺は望んじゃいない」

「承知しておりますが、ザッフィーロのためです。貴方はそれを一番よくお分かりのはずかと思います。手段を選んでいる場合ではないでしょう」
「⋯⋯⋯⋯」

「アネット様も、きっと分かってくださるはずです。戦友だとおっしゃったではありませんか」
「⋯⋯そうだな。戦前に、俺は彼女を無事に故郷に帰すと約束した。それが果たせるだけでも⋯⋯まずは良しとするか」

 ジャックスも、最初に交わした約束を覚えていたと、アネットは思った。政略結婚も受け入れて、彼も伴侶を迎え入れ、新たな人生を歩み始めようとしている。

 ――――私たちの時間は⋯⋯終わったんだ。

 アネットは胸の中で小さく呟いて、頬を伝った涙を無造作に拭った。未練たらしく泣くのなんて恥ずかしい。ジャックスは王に相応ふさわしい男性だ。彼の立身出世を、自分は喜ぶべきだ。

 繰り返しそう戒めて、アネットは顔に笑顔を張りつけると、再び歩き出した。真っ先に彼女に気づいたのは、ジャックスだ。
 二人はアネットを見て話を切り上げたが、宰相もまた例にもれず気まずそうな顔をしていた。アネットは気づかない振りをして、彼に歩み寄った。

「アネット、傷は――――」
「もう平気。だから、私、そろそろ故郷に帰るね!」

 アネットは精いっぱいの虚勢を張る。泣きたくなるのを堪え、この時を待っていたとばかりに明るい声で告げた。ジャックスは息を呑み、一瞬顔を強張らせたが、短い沈黙の後に頷いてみせた。

「⋯⋯あぁ⋯⋯そうか」
「戦が終わったら、帰るって前に言ったでしょう?」

「⋯⋯覚えている。しかし、急だな?」

 ジャックスは冷静さを保っていた。前から彼女が言っていたことだから、いつかは切り出されると覚悟していたからだ。アネットは真面目である。彼女と交わした約束を反故にして、失望されたくもない。

 腕の中で自分に見惚れる彼女があまりに可愛くて、一日でも傍から離したくないと思うようになっていても、約束は約束だ。

 だから、彼は落ち着きを払っていたのだが――――アネットは無自覚にジャックスを振り回す天才だった。

「一族の竜と結婚して、子供を産むことにしたの!」

 強制的に見合いをさせられる、というのは、母の口止めがあるから言えない。さりとて、あまりに唐突であるという自覚もある。彼の結婚を邪魔したくないからという理由を、口にしたくもない。気を使われて、嫌な思いをさせるだけだからだ。

 だから、なるべく笑顔で告げた。ジャックスは、しばらく何も言わなかった。呆気にとられた顔をしてまじまじと彼女を見つめ、どこをどう見ても本気だと理解した瞬間、唸るように呟いた。

「⋯⋯⋯⋯もう一度言ってみろ?」
「け⋯⋯結婚するの! そして、子供を産むの!」

「繰り返すな!」
「待って! 言えって言ったの、貴方だよ!?」

 アネットだって何度も口にしたくはない。哀しくて仕方がないのだ。

 それなのに言えといった張本人が激怒してくるなんて、おかしい。

 ジャックスは自分でも矛盾したことを言ったと理解したのか、ギリっと唇を噛み締める。行き場を失った感情がどうにも抑えきれず、苛立ったように髪をくしゃりと掻き上げた。

 彼が黙ったのを、アネットは好機と受け取った。

「これから荷造りするから。じゃあ!」

 忙しなく駆け去っていく彼女を、ジャックスは呆然と見返すしかない。そして、とんでもない事態を目撃してしまった宰相は、さんざん視線をさ迷わせた挙句、そっとジャックスに声をかけた。

「アネット様は何故、急にあのようなことを⋯⋯。あの⋯⋯?」
「⋯⋯また一つ、思い出した」

「今度はなにを?」
「非常手段だ」

 そう呟いて、ジャックスは「使者に会う」と言って踵を返した。
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