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両手に花
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一ヵ月後。戦後処理が進み、平穏が訪れた王宮で、半眼になっているラグナがいる。その隣では、戦禍を逃れていた宰相が苦笑していた。
「いやぁ⋯⋯本当に分かりやすくなりました」
と、ラグナが呟くと、宰相は大きく頷く。
「ご自分のために故郷を飛び出して、共に戦ってくれた方となれば⋯⋯まあ、惹かれますよね⋯⋯」
「俺、この間ちょっと彼女に悪戯しようとしただけで、酷い目に遭わされましたよ⋯⋯?」
「今度は殺されるのでは?」
のんびりと恐ろしいことを言う宰相に、ラグナは身震いをする。
ジャックスは渡り廊下にいた彼らから少し離れた場所にある、王宮の庭の東屋にいた。長椅子に座り、自分の隣に背を向けて座らせたアネットへ、いつものようにキスをしていた。
「ジャックス⋯⋯もう、治ったって⋯⋯っ」
「まだだ。赤い」
アネットはここの所ずっと、背中が大きく開いたドレスを着ている。侍女が用意してくれたものを素直に着ていただけだが、それが彼の指示だと最近気づいた。だからといって、拒否権はない。
普段はその上にボレロを着ているし、長い髪を流しているので誰の目にも触れないが、ジャックスに捕まると、背中を見せろと言われるのだ。
――――傷は治ったのに⋯⋯。
戦の最中、アネットはジャックスに頼まれて、兵を率いて苦戦している部隊の救援に向かった。
その時、流れ矢が防具の間をすり抜けて肩の下に当たってしまった。痛みは少なかったから、傷は浅いように思えた。アネットは矢を自分で引き抜いて戦いへと身を投じ、激戦に痛みなど忘れる程だった。
終わってひと心地ついても、そういえば痛い、と思う程度だ。甲冑の下の傷であるだけに、周囲の者は誰も気づかなかった。勘の良いジャックスも、出血が最小限であった上、戦場には血の匂いも充満していたから、分からなかったのだ。
そもそも水竜は、止血に要する時間が短い。海では命取りになりかねないからだろう。
戦後、アネットは風呂に入って身ぎれいにした時、洗面所の鏡に背を写してみて、思いのほか傷が大きいと驚いた。元は竜の身体であるだけに頑丈であり、痛みも少なかったので、「まぁいいか!」とそのまま服を着て、ジャックスに触れられるまで、すっかり忘れていた。
黙っていた上、放置していたことをジャックスにものすごく怒られ。
しかも適当に矢を抜いたものだから、鏃が残っていて、切開が必要になり。
色んな意味で泣いた後――――アネットは今、溺れるような愛情に晒されている。
ジャックスは毎日のように傷の具合を確かめ、傷が癒えても痕が残るんじゃないかと心配し、術後の痕跡が消えるまでに回復しても、まだ背中を見たがった。
今もアネットは、彼にかつて傷跡のあった場所に触れられ、口づけられて、愛撫される。もう傷跡は何も残っていないはずなのに、わずかに赤いらしい。鏡に写してもはっきり分からないが、彼には見えるという。
実に不思議だ。
ただ、彼が王宮の東屋でゆっくりと過ごせる時間が持てるようになるほど、国は落ち着きを取り戻しつつあった。それは何よりも喜ぶべき事のはずだ。傷を負ったからと理由を付けて海に帰らずにいるが、そろそろ限界だろう。
「ジャックス⋯⋯。止め⋯⋯」
口づけは友への敬愛の証しだ。背中へのキスも戦友への労わりだろうと理解しながらも、いつしか喜びに変わっていた。
そして、彼は背中への愛撫を終えると、いつものように後ろから腕を回して、アネットの手を取って持ち上げ、手の甲に口づけをする。その手を降ろすと、今度はもう一方の手で、アネットの顎を軽く引き上げた。
なにをされるか、アネットはもう分かっていた。彼の胸に背を預け、唇にキスを受ける。今や当たり前のように彼はキスをしてきた。
ジャックスは目を細め、唇を離すと、耳にも軽く口づけた。
「⋯⋯俺とのキスは好きか?」
耳元で囁く甘い声は、体の芯まで溶けてしまいそうなほどで、アネットは殆ど無意識的に頷いてしまう。
ジャックスは笑みを深めた。
ザッフィーロにおいて、手の甲へのキスは敬意を示し、頬は親愛の情を伝えるもの。そして、唇を重ねることは、相手への深い愛情を示す行為だ。
アネットは全て理解した上で、受け止めているという。
彼女への留まる事のない愛おしさがこみ上げて、再び唇を重ねにいった。
「俺も――お前になら、いくらでもできる」
二人だけの世界を形成する姿を遠目に見たラグナと宰相は早々に退散していたが、廊下を歩きながら、宰相の口からため息が出た。
「⋯⋯我らザッフィーロの民にとって、水竜様は神に等しい存在だ。ジャックス様と仲睦まじいのは、大変喜ばしい事ではあるが⋯⋯」
「いいんじゃないですか? アネットに、このままお后様になってもらえば。あの子は頑張って色々と勉強すると思いますよ?」
「簡単に言うな。それでは、ザッフィーロ王室の血が途絶えてしまう」
反乱により国王を含め、直系の王族は皆殺しの憂き目にあった。海に逃れたり、身を隠して難を逃れたりした王族もいた事が唯一の救いだ。しかし、高齢であったり、悪名高く追放処分にされていた者であったりと、王位を継ぐに値する者が誰もいない。
王都を制したジャックスは、後継が見つかるまではと今も実権を持ち続けている。彼は政治的な手腕にも秀でており、戦後の王都の混乱もあっという間に鎮めてしまった。
頼りにならない王家は見限られ、民衆や軍部から彼を新たな王にという声は日増しに大きくなり、今や既定路線である。ならば、彼を王に据え、ザッフィーロの王族を王妃に据えるのが最適だと臣下達は考えていた。
いわゆる、政略結婚である。
生き残った王族の中で、たった一人だけ条件に適合している、クローディアという姫がいた事も大きい。
未婚で年も二十四歳と若く、王家の血筋も最も濃い。王都が逆臣の手に落ちた時、たまたま海沿いの街で暮らしていたために、難を逃れた女性だった。大人しく、清楚な美人と評判で、出しゃばりはしないだろう。
沈着冷静なジャックスの相手としては、最適と思われた。
だが、肝心のジャックスは――――水竜の姫に夢中である。
「じゃ、両手に花ということで!」
ラグナは羨ましくて顔がにやついたが、宰相はそんなお気楽な男を恨みがましい目で見た。
「水竜様が、お許しになると思うか?」
「絶対に無理ですね。今後一切、ザッフィーロに助力はしないとか言ってきそうです」
誇り高い水竜は、たとえ王族とはいっても人間の姫と自族の姫を同格とされるのを、決して良しとしないだろう。戦時下では頼もしい彼の戦友であったアネットの存在は今、ザッフィーロの人々にとって悩ましい存在になっていた。
「いやぁ⋯⋯本当に分かりやすくなりました」
と、ラグナが呟くと、宰相は大きく頷く。
「ご自分のために故郷を飛び出して、共に戦ってくれた方となれば⋯⋯まあ、惹かれますよね⋯⋯」
「俺、この間ちょっと彼女に悪戯しようとしただけで、酷い目に遭わされましたよ⋯⋯?」
「今度は殺されるのでは?」
のんびりと恐ろしいことを言う宰相に、ラグナは身震いをする。
ジャックスは渡り廊下にいた彼らから少し離れた場所にある、王宮の庭の東屋にいた。長椅子に座り、自分の隣に背を向けて座らせたアネットへ、いつものようにキスをしていた。
「ジャックス⋯⋯もう、治ったって⋯⋯っ」
「まだだ。赤い」
アネットはここの所ずっと、背中が大きく開いたドレスを着ている。侍女が用意してくれたものを素直に着ていただけだが、それが彼の指示だと最近気づいた。だからといって、拒否権はない。
普段はその上にボレロを着ているし、長い髪を流しているので誰の目にも触れないが、ジャックスに捕まると、背中を見せろと言われるのだ。
――――傷は治ったのに⋯⋯。
戦の最中、アネットはジャックスに頼まれて、兵を率いて苦戦している部隊の救援に向かった。
その時、流れ矢が防具の間をすり抜けて肩の下に当たってしまった。痛みは少なかったから、傷は浅いように思えた。アネットは矢を自分で引き抜いて戦いへと身を投じ、激戦に痛みなど忘れる程だった。
終わってひと心地ついても、そういえば痛い、と思う程度だ。甲冑の下の傷であるだけに、周囲の者は誰も気づかなかった。勘の良いジャックスも、出血が最小限であった上、戦場には血の匂いも充満していたから、分からなかったのだ。
そもそも水竜は、止血に要する時間が短い。海では命取りになりかねないからだろう。
戦後、アネットは風呂に入って身ぎれいにした時、洗面所の鏡に背を写してみて、思いのほか傷が大きいと驚いた。元は竜の身体であるだけに頑丈であり、痛みも少なかったので、「まぁいいか!」とそのまま服を着て、ジャックスに触れられるまで、すっかり忘れていた。
黙っていた上、放置していたことをジャックスにものすごく怒られ。
しかも適当に矢を抜いたものだから、鏃が残っていて、切開が必要になり。
色んな意味で泣いた後――――アネットは今、溺れるような愛情に晒されている。
ジャックスは毎日のように傷の具合を確かめ、傷が癒えても痕が残るんじゃないかと心配し、術後の痕跡が消えるまでに回復しても、まだ背中を見たがった。
今もアネットは、彼にかつて傷跡のあった場所に触れられ、口づけられて、愛撫される。もう傷跡は何も残っていないはずなのに、わずかに赤いらしい。鏡に写してもはっきり分からないが、彼には見えるという。
実に不思議だ。
ただ、彼が王宮の東屋でゆっくりと過ごせる時間が持てるようになるほど、国は落ち着きを取り戻しつつあった。それは何よりも喜ぶべき事のはずだ。傷を負ったからと理由を付けて海に帰らずにいるが、そろそろ限界だろう。
「ジャックス⋯⋯。止め⋯⋯」
口づけは友への敬愛の証しだ。背中へのキスも戦友への労わりだろうと理解しながらも、いつしか喜びに変わっていた。
そして、彼は背中への愛撫を終えると、いつものように後ろから腕を回して、アネットの手を取って持ち上げ、手の甲に口づけをする。その手を降ろすと、今度はもう一方の手で、アネットの顎を軽く引き上げた。
なにをされるか、アネットはもう分かっていた。彼の胸に背を預け、唇にキスを受ける。今や当たり前のように彼はキスをしてきた。
ジャックスは目を細め、唇を離すと、耳にも軽く口づけた。
「⋯⋯俺とのキスは好きか?」
耳元で囁く甘い声は、体の芯まで溶けてしまいそうなほどで、アネットは殆ど無意識的に頷いてしまう。
ジャックスは笑みを深めた。
ザッフィーロにおいて、手の甲へのキスは敬意を示し、頬は親愛の情を伝えるもの。そして、唇を重ねることは、相手への深い愛情を示す行為だ。
アネットは全て理解した上で、受け止めているという。
彼女への留まる事のない愛おしさがこみ上げて、再び唇を重ねにいった。
「俺も――お前になら、いくらでもできる」
二人だけの世界を形成する姿を遠目に見たラグナと宰相は早々に退散していたが、廊下を歩きながら、宰相の口からため息が出た。
「⋯⋯我らザッフィーロの民にとって、水竜様は神に等しい存在だ。ジャックス様と仲睦まじいのは、大変喜ばしい事ではあるが⋯⋯」
「いいんじゃないですか? アネットに、このままお后様になってもらえば。あの子は頑張って色々と勉強すると思いますよ?」
「簡単に言うな。それでは、ザッフィーロ王室の血が途絶えてしまう」
反乱により国王を含め、直系の王族は皆殺しの憂き目にあった。海に逃れたり、身を隠して難を逃れたりした王族もいた事が唯一の救いだ。しかし、高齢であったり、悪名高く追放処分にされていた者であったりと、王位を継ぐに値する者が誰もいない。
王都を制したジャックスは、後継が見つかるまではと今も実権を持ち続けている。彼は政治的な手腕にも秀でており、戦後の王都の混乱もあっという間に鎮めてしまった。
頼りにならない王家は見限られ、民衆や軍部から彼を新たな王にという声は日増しに大きくなり、今や既定路線である。ならば、彼を王に据え、ザッフィーロの王族を王妃に据えるのが最適だと臣下達は考えていた。
いわゆる、政略結婚である。
生き残った王族の中で、たった一人だけ条件に適合している、クローディアという姫がいた事も大きい。
未婚で年も二十四歳と若く、王家の血筋も最も濃い。王都が逆臣の手に落ちた時、たまたま海沿いの街で暮らしていたために、難を逃れた女性だった。大人しく、清楚な美人と評判で、出しゃばりはしないだろう。
沈着冷静なジャックスの相手としては、最適と思われた。
だが、肝心のジャックスは――――水竜の姫に夢中である。
「じゃ、両手に花ということで!」
ラグナは羨ましくて顔がにやついたが、宰相はそんなお気楽な男を恨みがましい目で見た。
「水竜様が、お許しになると思うか?」
「絶対に無理ですね。今後一切、ザッフィーロに助力はしないとか言ってきそうです」
誇り高い水竜は、たとえ王族とはいっても人間の姫と自族の姫を同格とされるのを、決して良しとしないだろう。戦時下では頼もしい彼の戦友であったアネットの存在は今、ザッフィーロの人々にとって悩ましい存在になっていた。
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