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小さな秘密
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アネットは一人、王宮の中庭を歩きながら、頬を撫でた風に目を細めた。王宮からは海が遠いが、風にのって潮の匂いがした。水竜の本能的なものなのか、時々海が恋しくなる。
――――帰らないわけに、いかないよね⋯⋯。
母竜と交わした約束の一つは、『戦が終わったら海に帰る』ことだ。
水竜は人々から神と崇められている上に、陸と海で暮らしている場所が違う事もあってか、非常に誇り高い。むしろ、人間を若干見下しているところもある。族長の娘がいつまでも人間として陸に留まっているなど、母竜からすれば同族に示しがつかないということなのだろう。
分かっていても心は重くなり、とうとう大きな木の下で足が止まった。そのままボンヤリと立っていたアネットは、背後からいきなりジャックスの声がして、飛び上がった。
慌てて振り向くと、彼がすぐ間近にいて、更に驚く。
「何度か声をかけたんだが⋯⋯気づかなかったのか?」
「う、うん。ちょっと、考え事をしていたの」
「⋯⋯隙だらけだぞ。襲われたらどうする」
苦々し気に言った彼に、大丈夫だと見栄を張っていたアネットは羞恥に頬を染め、うつむいた。戦場であれば命取りになりかねない。ジャックスの傍にいる者として、恥ずべきことだ。
宴の場でも他の兵達は浮かれ騒いでいても、彼は笑顔で応じながらも、常に冷静だった。それが上に立つ者のあるべき姿なのだろう。
自分が情けなくなって、アネットの目は潤む。
そんな彼女の姿を、王宮から漏れ出る灯りが全て照らしてしまう。ジャックスは息を呑み、奥歯をぎりと噛み締めると、小さく息を吐いた。
「警護の兵もいるが、酒に酔っている者もいるからな。気をつけろ」
「ありがとう。⋯⋯戦いがやっと終わったんだもの。みんな、ご褒美もほしくなるよね」
自分が誰かと警護の番を代ってあげようか――――そんな事を考えていた時、不意にジャックスが頬に触れた。珍しいと、アネットは思う。いつもは頭を撫でるだけなのに、今日はちょっとばかり下にさがった。
でも、嫌じゃない。むしろ何故か嬉しい。
「⋯⋯アネット。俺もお前から褒美が欲しい」
「え?」
もっと珍しいと、アネットは思った。ジャックスはあまり欲をかかない。兵士たちから崇拝の目で見られようが、王宮に残されていた膨大な財貨を見ようが、顔色一つ変えなかった。そんな彼の眼差しは、言葉に違わず、思いを強く感じる。
「だめか」
「ううん。私ができることであれば、何でも言って!」
身一つで海を飛び出してきたから贈り物をと言われると困ってしまうが、彼のためなら何でもしたいと、アネットは心から思った。
ジャックスは微笑み、頬に触れていた手で今度は彼女の小さな唇に触れた。
「⋯⋯これだ」
「あ⋯⋯キス?」
アネットの口からすんなりとその単語が出てきて、ジャックスは少し驚いた。彼女が人として暮らし始めて、まだ一年だ。戦続きであったから、色恋が絡む話などする余裕もなかった。
兵は男が圧倒的に数を占めていたから、野卑な話が飛び交うこともある。彼女は不思議そうにしていたが、言葉だけではピンとこないのか、全く興味を示していなかった。
「知っていたのか」
「もちろん、全部知っているよ! ずっと不思議に思っていたけど、知らないままではいけない気がして、ちゃんと聞いたの」
アネットは得意げである。
知識の大半はジャックスから吸収してきたが、今回は違う。キスという言葉だけでなく、行為自体も全部知っている。近々彼の傍を離れなくてはいけないから、自分から学べたという経験は、独立への第一歩だと思った。
「そうか。ところで誰から――――」
「だから、難しくないと思う。かがんで!」
敬愛するジャックスは事あるたびに、アネットを戦友と呼んでくれていた。他の兵達に仲間だと強調してくれていたのだろう。
アネットは本当に嬉しかったから、彼に仲間として『親愛の情』を示す手段があったのだと知って、がぜん張り切っていた。アネットは微笑んで、彼の肩に手を伸ばすと、ぽんぽんと叩く。
長身の彼はアネットよりも頭二つほど大きい。道中で木の実を取ろうとしたり、高い所にある物が届かなかったりする時、彼はよく軽々と抱き上げてくれていた。
このままではできないと主張する彼女に、ジャックスは苦笑してその場に座った。驚くアネットに微笑んで、誘うように手を絡めとる。
「どこからでも」
聞いた事のない甘い声に、アネットは目を軽く見張り、同時にかっと身体の奥がなんだか熱くなった。見て、聞いた分には、難しくなさそうな行為だ。実際、あれなら自分でもできると思った。
それなのに、一気に難易度が急上昇してしまった気がしてならない。ジャックスの柔らかな眼差しが、心臓に悪い。
「め、目を閉じて⋯⋯?」
「難しくないんだろう? 必要ない」
にっこりと笑われて、アネットはうっと詰まる。腕を掴まれて引き寄せられ、アネットは力無くその場に跪く。両手で背と腰に腕を回され、逃れるという選択肢は消えた。
優しく名を呼ぶ声に誘われて、膝立ちになったアネットは、見上げてきた彼の唇にそっと重ねた。軽く押しつけて、そのまま離れようとすると、強く抱きしめられた。
「まだだ」
どこか切なそうにねだる声にアネットは頬を赤く染めながら、もう一度重ねる。今度は先程よりも長く触れ合い、何だか離すのが惜しくなる。その思いを見抜いたかのように、離れかけると、ジャックスが追ってきた。
アネットはなんだか力が入らなくなってきて、座り込んでしまった。
ジャックスは構わず抱き寄せると、今度は彼が上から彼女の唇を奪う。
ジャックスとのキスに夢中になっていたアネットだったが、彼の手が抱き寄せるために引き寄せた時。
「⋯⋯っぁ⋯⋯」
びくりと震え、アネットの口から声が漏れた。ジャックスは聞き逃さない。すぐに唇を離すと、すっかり蕩けた顔をしている彼女を見据えた。
「⋯⋯アネット。俺に言わなければいけない事があるな?」
彼の声がぐっと低くなる。アネットは一瞬にして現実に引き戻され、目が泳いだ。
「あ、ありません!」
母竜からは二つの『約束』を人には口外するなと厳命されていた。竜の間で交わされた約定に、人が関わるのを嫌がったのかもしれない。無論、ジャックスに話す訳にはいかなかった。
ただ、彼の目はますます鋭くなる。急に敬語になった時点で、十分あやしい。
「俺に脱がされて、隅々まで確かめられたいのか」
とんでもないことを冷静に言い放った彼に、アネットは半泣きになった。
違った。彼が勘づいたのは、約束ではない。
アネット自身が忘れていたくらいの、小さな秘密だった。
――――帰らないわけに、いかないよね⋯⋯。
母竜と交わした約束の一つは、『戦が終わったら海に帰る』ことだ。
水竜は人々から神と崇められている上に、陸と海で暮らしている場所が違う事もあってか、非常に誇り高い。むしろ、人間を若干見下しているところもある。族長の娘がいつまでも人間として陸に留まっているなど、母竜からすれば同族に示しがつかないということなのだろう。
分かっていても心は重くなり、とうとう大きな木の下で足が止まった。そのままボンヤリと立っていたアネットは、背後からいきなりジャックスの声がして、飛び上がった。
慌てて振り向くと、彼がすぐ間近にいて、更に驚く。
「何度か声をかけたんだが⋯⋯気づかなかったのか?」
「う、うん。ちょっと、考え事をしていたの」
「⋯⋯隙だらけだぞ。襲われたらどうする」
苦々し気に言った彼に、大丈夫だと見栄を張っていたアネットは羞恥に頬を染め、うつむいた。戦場であれば命取りになりかねない。ジャックスの傍にいる者として、恥ずべきことだ。
宴の場でも他の兵達は浮かれ騒いでいても、彼は笑顔で応じながらも、常に冷静だった。それが上に立つ者のあるべき姿なのだろう。
自分が情けなくなって、アネットの目は潤む。
そんな彼女の姿を、王宮から漏れ出る灯りが全て照らしてしまう。ジャックスは息を呑み、奥歯をぎりと噛み締めると、小さく息を吐いた。
「警護の兵もいるが、酒に酔っている者もいるからな。気をつけろ」
「ありがとう。⋯⋯戦いがやっと終わったんだもの。みんな、ご褒美もほしくなるよね」
自分が誰かと警護の番を代ってあげようか――――そんな事を考えていた時、不意にジャックスが頬に触れた。珍しいと、アネットは思う。いつもは頭を撫でるだけなのに、今日はちょっとばかり下にさがった。
でも、嫌じゃない。むしろ何故か嬉しい。
「⋯⋯アネット。俺もお前から褒美が欲しい」
「え?」
もっと珍しいと、アネットは思った。ジャックスはあまり欲をかかない。兵士たちから崇拝の目で見られようが、王宮に残されていた膨大な財貨を見ようが、顔色一つ変えなかった。そんな彼の眼差しは、言葉に違わず、思いを強く感じる。
「だめか」
「ううん。私ができることであれば、何でも言って!」
身一つで海を飛び出してきたから贈り物をと言われると困ってしまうが、彼のためなら何でもしたいと、アネットは心から思った。
ジャックスは微笑み、頬に触れていた手で今度は彼女の小さな唇に触れた。
「⋯⋯これだ」
「あ⋯⋯キス?」
アネットの口からすんなりとその単語が出てきて、ジャックスは少し驚いた。彼女が人として暮らし始めて、まだ一年だ。戦続きであったから、色恋が絡む話などする余裕もなかった。
兵は男が圧倒的に数を占めていたから、野卑な話が飛び交うこともある。彼女は不思議そうにしていたが、言葉だけではピンとこないのか、全く興味を示していなかった。
「知っていたのか」
「もちろん、全部知っているよ! ずっと不思議に思っていたけど、知らないままではいけない気がして、ちゃんと聞いたの」
アネットは得意げである。
知識の大半はジャックスから吸収してきたが、今回は違う。キスという言葉だけでなく、行為自体も全部知っている。近々彼の傍を離れなくてはいけないから、自分から学べたという経験は、独立への第一歩だと思った。
「そうか。ところで誰から――――」
「だから、難しくないと思う。かがんで!」
敬愛するジャックスは事あるたびに、アネットを戦友と呼んでくれていた。他の兵達に仲間だと強調してくれていたのだろう。
アネットは本当に嬉しかったから、彼に仲間として『親愛の情』を示す手段があったのだと知って、がぜん張り切っていた。アネットは微笑んで、彼の肩に手を伸ばすと、ぽんぽんと叩く。
長身の彼はアネットよりも頭二つほど大きい。道中で木の実を取ろうとしたり、高い所にある物が届かなかったりする時、彼はよく軽々と抱き上げてくれていた。
このままではできないと主張する彼女に、ジャックスは苦笑してその場に座った。驚くアネットに微笑んで、誘うように手を絡めとる。
「どこからでも」
聞いた事のない甘い声に、アネットは目を軽く見張り、同時にかっと身体の奥がなんだか熱くなった。見て、聞いた分には、難しくなさそうな行為だ。実際、あれなら自分でもできると思った。
それなのに、一気に難易度が急上昇してしまった気がしてならない。ジャックスの柔らかな眼差しが、心臓に悪い。
「め、目を閉じて⋯⋯?」
「難しくないんだろう? 必要ない」
にっこりと笑われて、アネットはうっと詰まる。腕を掴まれて引き寄せられ、アネットは力無くその場に跪く。両手で背と腰に腕を回され、逃れるという選択肢は消えた。
優しく名を呼ぶ声に誘われて、膝立ちになったアネットは、見上げてきた彼の唇にそっと重ねた。軽く押しつけて、そのまま離れようとすると、強く抱きしめられた。
「まだだ」
どこか切なそうにねだる声にアネットは頬を赤く染めながら、もう一度重ねる。今度は先程よりも長く触れ合い、何だか離すのが惜しくなる。その思いを見抜いたかのように、離れかけると、ジャックスが追ってきた。
アネットはなんだか力が入らなくなってきて、座り込んでしまった。
ジャックスは構わず抱き寄せると、今度は彼が上から彼女の唇を奪う。
ジャックスとのキスに夢中になっていたアネットだったが、彼の手が抱き寄せるために引き寄せた時。
「⋯⋯っぁ⋯⋯」
びくりと震え、アネットの口から声が漏れた。ジャックスは聞き逃さない。すぐに唇を離すと、すっかり蕩けた顔をしている彼女を見据えた。
「⋯⋯アネット。俺に言わなければいけない事があるな?」
彼の声がぐっと低くなる。アネットは一瞬にして現実に引き戻され、目が泳いだ。
「あ、ありません!」
母竜からは二つの『約束』を人には口外するなと厳命されていた。竜の間で交わされた約定に、人が関わるのを嫌がったのかもしれない。無論、ジャックスに話す訳にはいかなかった。
ただ、彼の目はますます鋭くなる。急に敬語になった時点で、十分あやしい。
「俺に脱がされて、隅々まで確かめられたいのか」
とんでもないことを冷静に言い放った彼に、アネットは半泣きになった。
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アネット自身が忘れていたくらいの、小さな秘密だった。
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