彼は政略結婚を受け入れた

黒猫子猫

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我慢し続けてきた男

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 王宮に響き渡る歓声に、アネットは目を細め、そびえ立つ白亜の塔を見あげた。天に向かって咆哮をあげる竜が描かれた国旗は、王国の復活を告げている。

 《神の国》と崇められ、人々の敬意を集めてきた神国ザッフィーロは、三年前に滅亡の危機に瀕した。逆臣が国王一家や王族をことごとく弑し、自らが王を名乗ったのだ。国旗は引きずりおろされ、王家の名と共に地に墜ちた。主を失い、屈辱と絶望に苛まれながら生き残った兵達の多くは、海へと逃れた。

 ザッフィーロは大小合わせて百を数える島からなる群島国家だ。他の島へと逃れると、再戦を誓い、息を潜めた。

 仇討ちと国家再建に燃える軍人たちの中で、頭角を現したのがジャックスという男である。卓越した身体能力と剣の腕は誰もが認めるところであり、血気に逸る者をなだめて無駄死にを防ぎ、散り散りになっていた兵をよくまとめた。
 指揮能力も抜群だった。
 元は傭兵として生計を立てていたという男で、海へ逃れる最中に手を貸した事が縁で軍へと入り、三年の間にあっという間に将として軍の中心となるまでに至った。もっと早く男を見いだしていれば王宮も陥落せずにすんだかもしれないと、兵達がこぞって悔しがったほどである。

 王都奪還もジャックスの手腕による。
 反逆の日以降、逆臣の専横に苦しんでいた民衆は、解放に喜びの声をあげながら、彼こそ新たな国王にという期待の声も混じっていた。

 その声もまた、歓声と共にアネットの耳にも届いている。

「……良かった」

 アネットがいる王宮前の広場には、戦勝に沸く兵士たちが集まっていた。王宮の門は解放され、王都から駆けつけた民衆や兵士たちの家族と、喜びを分かち合っている。彼らの英雄であるジャックスも彼らの中心にいたが、戦時中はずっと彼の傍で共に戦ってきたアネットは、輪から離れた所に立っていた。

 すでに先にジャックスや兵士たちと共に祝い、高ぶる気持ちも少し落ち着いてきている。
 それに、長身痩躯でありながら戦人らしく頑強な体格をした彼とは違い、アネットは小柄である。興奮した人々にもみくちゃにされそうだから、ジャックスから少し離れていろと言われたのだ。

 おかげで、周囲を見回すだけの余裕ができたわけだが、群衆を見つめていたアネットは目を丸くした。呆気にとられていると、視線に気づいた男がのんびりと歩み寄って来た。

「こんな所で何をしているんだ? 君も功労者なんだから、ジャックスの傍にいればいいのに」
「潰されてしまいそうだったので、逃げてきました」
「あぁ……なるほど」

 憐れむような目で見てきた男は、ジャックスの副将ラグナである。剣の腕は確かで愛想も良く、明るいムードメーカーだ。

 そして、戦時中ではあまり目立たなかった彼の特技は、戦後の今、最も発揮されていた。

「……ラグナさん。今のは、何をされていたんですか……?」

 アネットは聞かずにはいられない。広場に押し寄せた人々の中には、若い女性も多かった。彼はその中の一人を抱きしめて、唇を合わせていたのだ。

 あれは、なんだろう。

 なにしろ自分達の種は――――水竜は、あんな行為をしないからだ。

 アネットは水竜として生まれ、成長に伴って『人化』する力も手に入れた。紺碧色の髪と瞳は、竜の時の身体や目の色と同じだ。腰ほどまでの長い髪は初め邪魔に感じていたが、結いあげておけば問題なかったので、それはまだ良い。ザッフィーロの人々は青系統の髪や目の色をしている事が多く、そういった意味ではアネットの容姿は奇抜ではなかった。

 ただ、いかんせん手足が細く、体が小柄だ。
 顔も小さく、可愛らしい顔だちをしていたが、アネットが気にするのはその一点である。元は竜であるだけに身体は頑丈で、大人の男よりも腕っぷしも強かったが、人前に出るとどうも侮られる。あえて変化する必要性を感じず、十八年間ほとんど竜のまま生きてきた。

 海に生きる水竜は海でこそ本来の力が発揮される、という事もあった。竜の身体で陸地にあがってしまうと、身動きが取れなくなる。自分が弱体化することが目に見えていて、あえて人となって陸に登ろうとする者はいない。

 それはアネットに限った事ではなく、『水竜』を神と崇めるほど敬意を示しているザッフィーロの弱点にもなった。

 島国であるがゆえに、周辺各国はザッフィーロを攻める際は、まず水竜に挑まなければならない。現存する竜族は空を飛ぶ『飛竜』と、地を駆ける『地竜』、それに水竜の三種だ。しかし、地上では最強の地竜も空は飛べず、泳げないので、地竜を有するルーフス王国はザッフィーロに手を出せない。

 海を容易く超える飛竜ならば直接島を攻められるが、飛竜の国は数年前にルーフスに攻め滅ぼされている。

 脅威となる外敵がいなくなったザッフィーロには、慢心があったのだろう。内なる敵には弱いという事を露呈したのが、今回の内乱である。

 陸地での戦闘に水竜は手出しができず、逆臣の兵から逃げ落ちてくる人々を別の島へ避難させて匿う事くらいしかできなかった。

 そして、アネットの母である水竜の族長は、それ以上の助力を拒んだ。

 一族を人化させて兵にしたところで、海ほどの力は出ない。戦に巻き込まれた飛竜が今や種の存続に関わるほど激減したことも、頭にあったに違いない。だが、島に避難している間に彼らと交流を持っていたアネットは、再び王都のある島へと戻り再戦を試みる兵達を見捨てられなかった。

 母と大喧嘩をした末、二つの約束を守ることを条件に、彼らと共に旅立つ許しを得た。

 たった一人、陸地では取り柄のないアネットを、ジャックスや彼の部下達は歓迎してくれた。彼らの気持ちが嬉しくて、雑用のみならず戦いも覚えた。海を飛び出してから一年。転戦するジャックスの傍で戦い抜いた彼女は、今や彼から戦友と呼ばれるほど信頼も受けている。

 戦場で日々を過ごしてきたアネットの人としての知識は、当然のように思いっきり偏っている。

 だから、ラグナが熱烈な口づけをしていても、あれはなんだ、という次元である。

 実は女にはめっぽう手の早かったラグナは、にっこりと笑った。

「あぁ、キスというんだよ。唇をつける行為のことだ。知らなかったのか?」
「は、はい……不勉強で、恥ずかしいです」

 アネットは頬を染め、うつむく。その時、ちょうど周囲からまた歓声が大きくなり、ラグナがボソッと「そういや、戦に勝つまでは我慢するって言ってたなあ……」と呟いた声はかき消えた。

 ラグナはジャックスに健気に尽くしてきた少女を見て、真剣な顔になった。

「大事な事だよ。せっかく人になれるんだから、今後のためにぜひ覚えておくといい!」
「分かりました! えぇと……何のためにするんでしょうか……」
「目的は色々あるんだよ。目上の者に敬意を示すためとか、友達に親愛の情を伝えるためとか!」

 前者は手の甲、後者は頬に触れるか触れないか程度の軽い口づけだ。
 ただ、軟派な彼が数多の女性に繰り返していたのは唇である。ラグナの場合はそのどちらでもないのだが、真面目な顔で聞き入っているアネットに、真昼間から言っていいものだろうかと、少し悩んでいると。

 アネットは合点がいったようで、大きく頷いた。

「なるほど! だから、ラグナさんは色んな女性にされていたんですね!」

 ラグナはぎくりと身が固まる。戦から解放され、張り切って方々で女性を口説きまくっていたからだ。

「アネット……他も見ていたのかなぁ…?」
「はい! 不思議で!」
「そ、そうか。あー……えっと、そうなんだよ。俺は女性への親愛の情を示していたんだ!」

 弁明には苦しいか、とラグナは思ったが、純粋そのものの水竜族の姫は目を輝かせた。

「女性に優しくて、素晴らしいですね!」
「あー……うん。そうしておこう! あっはっは……!」

 笑って誤魔化したラグナは、それ以上の説明を避けた。なにしろ、さっきから痛いほどの殺気まじりの視線を感じる。彼女を傍から離しても、きっちり様子を見ていたらしい。
 妙な事を教えると、後で絶対にジャックスにドつかれると理解した彼は、そそくさとアネットの傍から離れた。


 夜になると、王都の至る場所で、祝宴が開かれていた。逆臣の一派はことごとく討ち果たしたとはいえ、大きな傷を負った政府の混乱は著しく、戦後処理は膨大だ。制圧した王宮にも厳重な警備体制が敷かれ、警戒を緩める事はない。さりとて、長い戦いから解放された日である。

 ジャックスは手の空いた者の祝宴を許し、警護の番にも十分な料理を運ばせ、時間で他の者たちとも交代するよう命じていた。浮かれ騒ぐ者達が多い中、ジャックスはやはり最も冷静である。
 彼の傍でずっとその手腕を見てきたアネットは、ますます彼を尊敬の念で見て、この先もきっとザッフィーロを良い方向へと導いてくれるだろうと確信した。

 ――――私も……頑張らなきゃ……。

 アネットには、母竜と交わした二つの約束がある。

 いずれも陸へ出る許しを得るために誓ったことで、戦が終わり、物事がすべて落ち着いた時に果たす、というものだ。ジャックスについていくと決めた時、アネットは彼の勝利を信じ、きっと平穏を取り戻してくれると思い、母竜を説得した。

 ジャックスは優秀で、万事落ち着いている。約束を果たす時の訪れは早そうだ。

 祝宴に参加していたアネットは、隣に座っていたジャックスの横顔を見つめた。

 激しい戦をする男とは思えない、端正な顔立ちをした貴公子だ。群青色の短髪と瞳――ザッフィーロの民らしく青系統の色の持ち主だったが、彼の容姿はアネットの目からも見ても美しく思えた。身体の線も細いから、彼よりも頭二つ大きい巨漢を片手で捻り倒す力の持ち主とは到底思えない。
 戦塵を落とし、身綺麗にした彼は益々美貌に磨きがかかり、宴に加わっていた王宮の女官達の目をたちどころに釘づけにしていた。

 母との約束も頭に過り、胸の奥がずきりと疼いたが、すぐに頭を切り替えて、立ち上がる。

「どこに行く?」

 すぐにジャックスが気付いて、すぐに声をかけてきた。

「ちょっと暑くて……夜風にあたってくる」
「待て。俺も行く。襲われるかもしれない」

 腰を浮かせた彼を、アネットは笑顔で止めた。

「一人で大丈夫。貴方がきちんと警護の兵を配置してくれているから、襲ってくる敵なんていないよ」
「いや⋯⋯そういう事じゃなくてな?」
「貴方は主役なんだから、みんなと一緒にいてあげて」

 彼は直属の部下のみならず末端の兵士まで配慮を欠かさない、気配りのできる男だ。アネットが人の生活に慣れない頃から、何かと気にかけてくれていた。今は一人でこなせる事が大半だというのに、それでも優しい。ありがたいと思いながらも、いつまでも彼に甘えていられない。

 足早に立ち去っていくアネットを見つめたジャックスは、戸惑いが隠せなかった。

 彼女の声に、小さな拒絶を感じ取ったからだ。その理由が分からず、初めて不安がこみ上げる中、顔を真っ赤にした酔っ払い――――副将ラグナが、無遠慮に隣に座った。

「おっ、もう振られましたか!」
「……まだ何もしていない。貴様、アネットに妙な事を吹き込んでいないだろうな? 昼間、何か話していたようだが」

 殺気立つ目で見られても、泥酔寸前のラグナはへらへらと笑うだけである。

「何もしてませんよ! 貴方が溺愛してずっと傍に置いてきたアネットにだけは、誰も絶対に手を出しませんっ」
「馴れ馴れしく名を呼ぶな」
「いいじゃないですかー? 彼女は俺達の戦友です! 貴方も事あるたびにそう言っていたじゃないですか。また我慢してください、ね!」
「……断る。俺は今まで散々、耐えてきた」

 にやにやしながら肩を抱こうとしてきたラグナの手を、ジャックスは容赦なく叩き落し、
「後は任せた。頃合いを見計らって散会しろ」
 と告げると、その場を離れた。
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