彼は政略結婚を受け入れた

黒猫子猫

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離別

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 アネットの荷造りはあっという間に終わった。そもそも身一つで飛び出し、必要な品はジャックスが買い揃えてくれていた。だが、海に帰るにあたって不要になる。必要最低限の品以外は返すつもりで、整理整頓をした。その後、じっとしていると気分が沈むばかりだったので、王宮の人々に今までの礼を言って回り一日を終えている。

 ジャックスと顔を合わせるのが辛く、戦後ずっと一緒に食事を取っていたのも断ってしまった。ただ、別れの時が近づくにつれて、こんな終わり方は嫌だと意を決する。
 すっかり夜になっていたが、唯一さよならが言えなかったジャックスに会うため私室に向かった。警護の兵に不在と言われ、重い足取りで自室へと戻ろうとした時だ。

 通りがかった庭先に彼の姿を見つけ、アネットの足が止まる。彼もまた立ち尽くしているアネットに視線を向けると、来いとばかりに軽く手招きした。アネットは勇気を出して庭へと出ると、彼の前に立った。

「⋯⋯あの⋯⋯」
「あの後、お前の部屋を何度か訪ねてみたんだが、いつ行っても侍女にいないと言われた。迷子にでもなったか?」

 くすりと笑われて、その軽口にアネットは少し気が楽になる。

「そうじゃないよ。皆にお別れを言って来たの。今、貴方にも⋯⋯と思ったら、いないって言われて」
「別れ、か」

「⋯⋯⋯⋯」

「今更だな。お前は戦が終わったら、故郷に帰ると前々から言っていたし、俺もそのつもりでいた。護衛と馬車も用意させておいた。いつでも好きな時に発つと良い」
「うん。色々⋯⋯ありがとう」

 こみ上げそうになる涙を懸命に堪えながら、アネットは目に焼き付けるように彼を見つめて、笑顔で続けた。

「朝には⋯⋯行くね。ぐずぐずしていると寂しくなるから、早く出るよ」
「そうか」

 アネットはこくりと頷く。もう、言葉が出てこなかった。そして、ジャックスもそれ以上求めなかった。優しく微笑んで、大きな手で髪を撫でてくれた。

「息災でいろ。気が向いたら、また俺に会いに来い」
「⋯⋯⋯⋯」

「お前が少しでもいたいと思えるような場所にしておく」

 彼は王になる男だ。そして自分は水竜の一族の者としての責務がある。

 人と竜。本来は住む世界が異なる者同士だ。地竜や飛竜は共同生活をおくる事もあるが、水竜は海で生きる分、種の壁は高いように思える。

 アネットは最後まで温かい言葉をかけてくれたジャックスに、辛うじて微笑んだ。

「ありがとう」

 そう言って、彼の脇をすり抜けた。背を向けると同時に涙があふれた。そして、後ろから腕を掴まれて気づけば彼の胸の中で泣いていた。痛いほどに抱き締められたが、アネットも彼にしがみついてしまった。

「⋯⋯故郷には帰してやる。お前にそう約束した」

 唸るように、何かを懸命に堪えるような低い声で、ジャックスは続ける。

「だが、今はまだ―――俺の腕の中にいろ」

 そう言って、彼は身を屈め、アネットにキスをした。



 別れのキスは優しくも激しくて、海に帰って一ヵ月経っても、アネットは彼が忘れられずにいた。水竜の姿へと変わり、海の中をあてもなく漂いながら、考えるのはジャックスの事ばかりだ。

 母竜との約束通り、アネットは海に帰った。嫌で嫌で仕方がなかったが、見合いもした。

 それはもう立派な大きな若い竜だったが――――全くうまくいかなかった。

 触れられるどころか近寄られるのも嫌だと、アネットは思ってしまったからだ。相手の竜も、アネットが一族の姫だから応じた、という態度をありありと出してきた。

 そもそも水竜は夫婦の情というものが薄い。雌の発情期に合わせて交尾し、受精できれば雌はやがて卵を産むが、雄は子育てには加わらない。
 交尾の時間も短くすんでしまうから、どうしても関係性は希薄になる。アネットの母竜とて父親と、さっさと別れてしまっていた。

 母竜は『発情すればどんな雄でも良くなるはずだ』と、見合いを終えたアネットに言ったが、どうにも娘が塞ぎこむ。少し我慢すればいいだけだと言っても、変わらなかった。

『約束だから、従います』

 そう言いながら、アネットは暇さえあれば海を放浪ばかりして、一族の群れに加わろうとしなかった。人間の戦友たちと過ごした日々が、心を捕えて離さないのだ。

 発情期がくるのが怖いとアネットが密かに泣いているのも、警護のために付き従っていた他の竜は気づいている。姫様があまりに可哀想だという声が日増しに高まり、母竜はとうとう折れた。

 すっかり元気をなくした娘を呼び出して、母竜は告げた。

「そなた、今一度、陸にあがれ」
「え⋯⋯?」

われの用意した見合い相手にちっとも靡かぬところを見るに、何か未練でもあるのだろう」
「そ、そんな事は⋯⋯」

 アネットはうろたえたが、ジャックスの事を正直に告げる訳にはいかなかった。見合いの邪魔になると、母竜が彼を敵視するとも限らないからだ。

 だが、一族を率い、百戦錬磨の母竜と、まだ十数年しか生きていない正直者の小娘とでは、最初から勝負にならない。娘に想う男がいるのだろうと母竜は見抜き、冷ややかに見た。

「ならば、今すぐ我が選んだ雄と交尾してこい。雄はいつでもできるからな、発情期の練習になる」
「嫌です!」

「そらみたことか。これでは五分も持たんぞ」
「⋯⋯⋯⋯」

「お前が海に帰って一ヵ月ほど経つ。人間たちの方は完全に縁が切れたと思っているだろう。お前の事など、なんとも思っていないやもしれぬ。それならそれで、そなたも諦めもつくだろう」
「もしも⋯⋯まだ思っていてくれたら?」

 ずっと暗い眼差しをしていたアネットの目が、かつての元気を取り戻してきているのを見て、母竜は苦々し気に告げた。

「そなたの気が済むまで、留まればよい」

「ありがとうございます、母様!」

 アネットは歓喜の声を上げたが、母竜はぴしゃりと言った。

「ところで人間が竜より先に死ぬことを、忘れた訳ではあるまいな?」
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