「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第6話:無邪気という名の毒

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 嵐が去った後のアッシュフォード邸は、奇妙な静けさに包まれていた。
 空は突き抜けるような青さだったが、屋敷の中だけ空気が淀んでいる。
  
 それは、湿度だけの問題ではなかった。

 ヴィクトリアはいつものように、朝の六時には起床し、身支度を整えていた。
 髪の一筋も乱れぬよう結い上げ、襟の詰まったダークブルーのドレスに身を包む。

 鏡に映る自分は、どこからどう見ても完璧な伯爵夫人だ。
 だが、その瞳の奥には、消えない疲労の色が沈殿していた。

(……予定通りに進めなければ)

 今日は領内の製材所との契約更新がある。
 午後は会計監査。

 私的な感情で業務を停滞させるわけにはいかない。
 ヴィクトリアは自分にそう言い聞かせ、食堂へと向かった。

 アッシュフォード家の朝食は七時と決まっている。
 ヴィクトリアが食堂の扉を開けると、そこには既に先客がいた。

「あ、おはようございます……。ヴィクトリア様」

 シルヴィア・ローズベリーだ。
 彼女は白に淡いピンクのリボンがあしらわれた、可愛らしいドレスを着ていた。

 それは昨日、ギルバートが「着替えがないのは不憫だ」と、街のブティックから大急ぎで取り寄せた既製品だった。

 ヴィクトリアの趣味とは対極にある、少女趣味なデザインだ。

 問題は、彼女の服装ではなかった。
 彼女が座っている場所だ。

 長テーブルの端。
 そこは女主人の席である。

 主であるギルバートの対面に位置し、屋敷を取り仕切る者が座るべき聖域。 

 シルヴィアはそこにちょこんと座り、あろうことかヴィクトリアが愛用しているマイセンのティーカップ――彼女が実家から持参した、唯一の私物――を両手で包み込んでいた。

「おはよう、ヴィクトリア! 今日のパンは焼き立てで美味しいよ」

 ギルバートが満面の笑みで迎えた。

 彼はシルヴィアの隣ではなく、いつもの席に座っているが、その空気感はまるで、若夫婦と、その家に間借りしている姉のような構図に見えた。

 ヴィクトリアの足が止まる。
 その後ろに控えていたメイド長、マーサの顔色がさっと変わった。

「……シルヴィア様」

 マーサが一歩進み出る。

 彼女は屋敷に仕える古株で、ヴィクトリアの規律正しい管理能力を誰よりも尊敬していた。

「大変失礼ながら、其方の席は奥様のお席でございます。また、そのティーカップも奥様が大切になさっているもので……」

「えっ?」

 シルヴィアが、きょとんとした顔でカップを見つめる。

 そして、自分の座っている椅子と、立ち尽くすヴィクトリアを交互に見た瞬間、その顔がみるみるうちに赤くなり、次いで青ざめた。

「ご、ごめんなさい! 私、知らなくて……! 一番日当たりが良かったから、つい……!」

 ガチャン、と音を立ててカップをソーサーに戻す。
 その手つきが乱暴で、紅茶がソーサーにこぼれた。

「私、なんて馬鹿なの……! 人様の家で、奥様の席を奪うなんて、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 シルヴィアの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
 彼女は椅子から飛び退き、小さく震え出した。

 まるで、恐ろしい猛獣に叱責された小動物のように。

「も、申し訳ありません、そのようなつもりでは……」

 マーサが慌てて頭を下げるが、それより早く、ギルバートが立ち上がった。

 そして、彼が力強くテーブルを叩く音が響いた。
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