「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

文字の大きさ
11 / 37

第11話:優しい助手と理解のある夫

しおりを挟む
 アッシュフォード邸の執務室には、張り詰めた空気が漂っていた。

 時刻は午後三時。
 西日が窓から差し込み、部屋の中を琥珀色に染めている。

 ヴィクトリアは、机の上に広げられた羊皮紙と向き合っていた。
 これは単なる書類ではない。

 隣国の貿易商会と交わす、新規の鉄鋼輸出契約書だ。
 条項の一つ一つが、今後のアッシュフォード家の収益を左右する。

 ヴィクトリアはこの三日間、法務知識を総動員して、一言一句の不利もないよう修正を重ねてきた。

(……あと一行。ここの免責条項さえ書き終えれば、完成だわ)

 ペン先が紙の上を滑る。
 極度の集中状態にあるヴィクトリアの耳には、時計の針の音すら届いていない。

「……あの、ヴィクトリア様?」

 不意に、背後から遠慮がちな声がかかった。
 シルヴィアだ。

 彼女は昨日から助手としてこの部屋に居座っているが、実際のところ、彼女ができる仕事など何一つなかった。

 ヴィクトリアが与えた古新聞の整理も早々に飽き、今は部屋の隅で退屈そうにしていたはずだ。

 ヴィクトリアはペンを止めず、視線も動かさずに答えた。

「今、手が離せません。後になさってください」

「でも、ヴィクトリア様、ずっとお座りになったままで……。お疲れかと思って、コーヒーを淹れてきたんです」

 甘ったるい香りが漂ってきた。
 砂糖とミルクをたっぷりと入れた、子供が好むようなコーヒーの香りだ。

「……お気遣いなく」

「そんなこと仰らずに! 私、ヴィクトリア様のお役に立ちたくて……!」

 足音が近づいてくる。
 嫌な予感がした。

 ヴィクトリアが顔を上げ、「来ないで」と言おうとした、その瞬間だった。

「きゃっ!?」

 何もないカーペットの縁に、シルヴィアがつまずいた。
 彼女の手から、なみなみと注がれたコーヒーカップが離れる。

 物理法則に従い、液体は放物線を描いて――

 ヴィクトリアの目の前にある、完成直前の契約書へと降り注いだ。

 バシャッ、という湿った音が響く。
 羊皮紙が、瞬く間に茶色く汚れていく。

 丁寧に書き上げたインクの文字が、コーヒーの熱と水分で滲み、判読不能な黒い染みへと変わっていく。

 時間は止まったようだった。
 ヴィクトリアは、ただ呆然と、三日間の努力の結晶がゴミに変わる様を見つめていた。

「あ……、あ、あ……」

 シルヴィアが床にへたり込み、震える手で口元を覆う。

「ど、どうしよう……。私、私……!」

 ヴィクトリアはゆっくりと立ち上がった。
 怒鳴ることも、嘆くこともなかった。

 ただ静かに、汚れた羊皮紙の端をつまみ上げ、コーヒーが滴るのを避けるように机の脇へ置いた。

「……シルヴィア様」

 呼びかけた声は、自分でも驚くほど低かった。

「……ごめんなさい、ごめんなさいぃっ!」

 シルヴィアが悲鳴のように叫び出し、両手で顔を覆って泣きじゃくり始めた。

「わざとじゃないんです! 私、ただヴィクトリア様に休んでほしくて……、ううっ、ひっ、ぐすっ……!」

 その泣き声は、まるで虐げられた被害者のそれだった。

 ヴィクトリアが何か言う前に、執務室の扉が開いた。
 騒ぎを聞きつけたギルバートが飛び込んでくる。

「何事だ!? シルヴィア!?」

 ギルバートの視界に飛び込んだのは、床にうずくまって泣きじゃくるシルヴィアと、その前で冷然と立ち尽くすヴィクトリアの姿だった。

 彼は一瞬で状況をした。

「ヴィクトリア! 君は一体何をしたんだ!」

 ギルバートは駆け寄り、シルヴィアを抱き起こした。
 シルヴィアは夫の胸にすがりつき、「ギルバート様ぁ……!」とさらに声を上げて泣く。

「ま、待ってください、ギルバート様」

 ヴィクトリアは冷静に説明しようとした。

「彼女が転んで、作成中の重要書類にコーヒーをこぼしたのです。その書類は……」

「書類だと!?」

 ギルバートが叫び、ヴィクトリアの言葉を遮った。

 彼は机の上の、茶色く変色した紙切れを一瞥した。
 そして、信じられないものを見るような目で妻を睨みつけた。

「たかが紙切れ一枚のために、彼女をここまで追い詰めたのか!?」

 その言葉を聞いて、ヴィクトリアの思考が一瞬、停止した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします

鷹 綾
恋愛
「白い結婚」であることを理由に、夫から離縁を突きつけられた公爵夫人エリシア。 だが彼女は泣かなかった。 なぜなら――その結婚は、最初から“成立していなかった”から。 教会法に基づき婚姻無効を申請。持参金を全額回収し、彼女が選んだ新たな居場所は修道院だった。 それは逃避ではない。 男の支配から離れ、国家の外側に立つという戦略的選択。 やがて彼女は修道院長として、教育制度の整備、女性領主の育成、商業と医療の再編に関わり、王と王妃を外から支える存在となる。 王冠を欲さず、しかし王冠に影響を与える――白の領域。 一方、かつての夫は地位を失い、制度の中で静かに贖罪の道を歩む。 これは、愛を巡る物語ではない。 「選ばなかった未来」を守り続けた一人の女性の物語。 白は弱さではない。 白は、均衡を保つ力。 白い結婚から始まる、静かなリーガル・リベンジと国家再編の物語。

公爵令嬢は結婚式当日に死んだ

白雲八鈴
恋愛
 今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。 「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」  突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。 婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。  そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。  その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……  生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。  婚約者とその番という女性に 『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』 そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。 *タグ注意 *不快であれば閉じてください。

【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。 味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。 ――けれど、彼らは知らなかった。 彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。 すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、 復讐ではなく「関わらない」という選択。 だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。

《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから

ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。 彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

【番外編も完結】で、お前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか?

Debby
恋愛
ヴェルトが友人からの手紙を手に辺境伯令嬢であるレィディアンスの元を訪れたのは、その手紙に「詳細は彼女に聞け」と書いてあったからだ。 簡単にいうと、手紙の内容は「学園で問題を起こした平民──エボニーを妻として引き取ってくれ」というものだった。 一方その話を聞いてしまった伯爵令嬢のオリーブは動揺していた。 ヴェルトとは静かに愛を育んできた。そんな自分を差し置いて、言われるがまま平民を妻に迎えてしまうのだろうか。 そんなオリーブの気持ちを知るはずもないエボニーは、辺境伯邸で行儀見習いをすることになる。 オリーブは何とかしてヴェルトを取り戻そうと画策し、そのことを咎められてしまう。もう後は無い。 オリーブが最後の望みをかけてヴェルトに自分を選んで欲しいと懇願する中、レィディアンスが静かに口を開いた。 「で、そろそろお前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか」 「はい?」 ヴェルトは自分が何を言われたのか全く理解が出来なかった。 *--*--* 覗いてくださりありがとうございます。(* ᴗ ᴗ)⁾⁾ ★2/17 番外編を投稿することになりました。→完結しました! ★★「このお話だけ読んでいただいてもOKです!」という前提のもと↓↓↓ このお話は独立した一つのお話ですが、「で。」シリーズのサイドストーリーでもあり、第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」の「エボニーその後」でもあります(あるいは「最終話」のその後)。 第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」 第二弾「で、あなたが私に嫌がらせをする理由を伺っても?」 第三弾「で、あなたが彼に嫌がらせをする理由をお話しいただいても?」 どれも女性向けHOTランキングに入り、特に第二弾はHOT一位になることが出来ました!(*´▽`人)アリガトウ もしよかったら宜しくお願いしますね!

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』

鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」 華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。 王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。 そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。 レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。 「お願いだ……戻ってきてくれ……」 王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。 「もう遅いわ」 愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。 裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。 これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。

処理中です...