「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第12話:インクの染みよりも深くて暗い絶望

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 たかが、紙切れ。

「……ギルバート様。これは、たかが紙切れではありません。隣国との契約書です。作成には法的な確認も含めて三日を要しました。書き直しには、今から徹夜してもギリギリです」

 ヴィクトリアは淡々と事実を述べた。
 しかし、ギルバートにはその言葉の重みが全く伝わっていないようだった。

 彼はシルヴィアの頭を撫でながら、心底軽蔑したように吐き捨てた。

「また書き直せばいいだろう! 君は優秀なんだから、それくらいすぐにできるはずだ! だが、彼女の心はどうなる? 彼女は君のために、良かれと思ってコーヒーを持ってきてくれたんだぞ!」

「……良かれと思ってしたことなら、結果がどうであれ免罪されると?」

「当たり前だ! 彼女の善意を踏みにじって、書類の心配をするなんて……、君には血も涙もないのか!」

 ヴィクトリアは、口を閉じた。
 反論が無意味であることを悟ったからだ。

 この男にとって、仕事の成果や責任など、目に見えない無価値なものなのだ。

 目の前で泣いている可哀想な女の子の涙の方が、ヴィクトリアの苦労の末に完成間近だった契約書よりも重いのだ。

(ああ、そう……)

 ヴィクトリアの胸の奥で、燻っていた最後の期待の灯火が、ふっと消えた。

 怒りはなかった。
 あるのは、底なしの失望と、急速な冷却だけだ。

「……申し訳ございません」

 ヴィクトリアは、能面のような顔で頭を下げた。

「私が狭量でした。シルヴィア様のお心遣いを無にしてしまい、深く反省いたします」

「分かればいいんだ。……さあ、シルヴィア。部屋に戻って休もう。怖かったね、もう大丈夫だよ」

 ギルバートは勝ち誇ったような顔で頷き、シルヴィアを支えて部屋を出て行こうとした。

 シルヴィアは去り際に、涙に濡れた瞳でチラリとヴィクトリアを見た。
 そこには、助かったという安堵と、微かな優越感が滲んでいたように見えた。

 扉が閉まる。
 部屋に静寂が戻った。

 ヴィクトリアは一人、残された。
 床にはコーヒーの染み。机の上には無惨な書類の残骸。

 彼女は深く息を吐き出し、ベルを鳴らしてメイドを呼んだ。

「床を拭いていただけますか。それと、新しい羊皮紙とインクを」

 メイドが怯えたように用件を済ませて去ると、ヴィクトリアは再び机に向かった。

 時刻は既に夕方。
 契約書の提出期限は動かせない。

 今から全て書き直さなければならない。

(泣いている暇などないわ)

 ヴィクトリアは新しいペンを手に取った。
 手元が狂わないよう、感情のスイッチを完全に切る。

 夜が更けても、彼女は書き続けた。

 屋敷の他の部屋からは、夕食を楽しむ夫とシルヴィアの笑い声が聞こえてきたが、ヴィクトリアは一度もペンを止めなかった。

 空腹も、眠気も、指の痛みも、全て無視した。

 窓の外が白み始めた頃。
 最後の一行を書き終え、ヴィクトリアはペンを置いた。

 完璧な仕上がりだった。
 以前のものよりも、さらに精度の高い契約書が出来上がっていた。

「……終わった」

 椅子にもたれかかり、天井を見上げる。

 達成感はなかった。
 ただ、虚無感だけが胸に広がっていた。

 書類にこぼれたコーヒーの染みは消えた。

 だが、ヴィクトリアの心についた、夫への不信という名のどす黒い染みは、もう二度と消えることはないだろう。

 ガチャリ、と扉が開いた。
 朝の光と共に、ギルバートが顔を出した。

 寝起きの爽やかな顔で、あくびを噛み殺している。

「やあ、ヴィクトリア。まだ起きていたのかい?」

 彼は机の上の完成した書類を見て、感心したように言った。

「ほら、やっぱり君ならすぐに書き直せるじゃないか。昨日はあんなに大騒ぎして……、シルヴィアが気に病んでいたよ。後で彼女に謝っておいてくれ」

 ヴィクトリアは、ゆっくりと夫の方を向いた。
 徹夜明けの青白い顔に、完璧な淑女の微笑みを貼り付けて。

「……ええ。承知いたしました」

 その声には、一切の感情がこもっていなかった。
 ギルバートはそれに気づかず、「じゃあ、朝食に行こう」と背を向けた。

 ヴィクトリアは、書類を封筒に入れた。
 封蝋を垂らし、家紋の印を押す。

 その動作は、まるで夫への愛情を棺に納め、蓋をする儀式のようだった。

 インクの染みよりも深く、暗い絶望が、彼女の瞳の奥で静かに固まっていた。
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