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第23話:見えない亀裂
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アッシュフォード領の鉱山は、領民の生活を支える心臓部だ。
その心臓の鼓動に、不整脈が生じ始めたのは、ヴィクトリアが執務室の実権を事実上手放してから数日後のことだった。
昼下がりの屋敷に、ドタドタという荒っぽい足音が響き渡った。
本来なら使用人が取り次ぐはずの手順を飛ばし、執務室の扉を直接叩いたのは、鉱山現場監督のドノバンだった。
彼は炭塵で黒く汚れた作業着のまま、焦燥しきった表情で部屋に入ってきた。
「奥様! ヴィクトリア奥様はいらっしゃいますか!」
ドノバンの大声に、ティータイムを楽しんでいたギルバートとシルヴィアが驚いて顔を上げる。
部屋の隅、書き物机で帳簿整理をしていたヴィクトリアは、静かにペンを置いて立ち上がった。
「どうしましたか、ドノバン。手順を無視して直訴に来るとは、余程のことですね」
「へえ、申し訳ねえ! だが緊急事態なんでさぁ!」
ドノバンは帽子を脱ぎ、ヴィクトリアに駆け寄ろうとした。
だが、その前にギルバートが立ちはだかった。
「おいおい、ドノバン。埃っぽいな。まずは挨拶というものがあるだろう?」
ギルバートは眉をひそめ、ドノバンの汚れた服と、清潔な執務室を見比べた。
シルヴィアは「きゃっ、汚い……」と小声で漏らし、ハンカチで鼻を覆っている。
「す、すんません、旦那様。ですが、第三坑道の排水ポンプから異音がしてるんです。シャフトが焼き付く寸前の音だ。今すぐ予備の部品を発注して交換しねえと、坑道が水没しちまいます!」
ドノバンは必死だった。
第三坑道は現在、最も有望な鉱脈だ。
ここが水没すれば、採掘作業は数週間停止し、莫大な損害が出る。
「交換部品の申請書を持ってきました。大至急、決裁印をください! 商会への発注は今日の夕方の便に乗せねえと間に合わねえ!」
ドノバンはヴィクトリアの方を見た。
これまでなら、ヴィクトリアは即座に状況を理解し、その場で予算を承認し、業者への手配まで済ませていただろう。
彼女の判断の速さと正確さを、現場の男たちは誰よりも信頼していた。
だが、ヴィクトリアは動かなかった。
彼女は完璧な姿勢で立ち尽くし、冷ややかな瞳でギルバートとシルヴィアを見た。
「……ドノバン。決裁権限は現在、当主であるアッシュフォード様と、その補佐であるシルヴィア様にあります」
「は? 奥様、何を言って……」
「私は単なる記録係です。予算の承認は、あちらにお願いしなさい」
ヴィクトリアは淡々と告げ、顎で二人を指した。
ドノバンは呆気にとられた顔をしたが、状況が切迫しているため、渋々ギルバートの方へ向き直った。
「だ、旦那様。そういうわけなんで、ここに判子を……、部品代として金貨五十枚が必要です」
「金貨五十枚!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、シルヴィアだった。
彼女は目を丸くして、ドノバンが差し出した申請書を覗き込んだ。
「そんな高いお金、何に使うんですかぁ? ポンプって、お水を汲み上げる機械ですよね?」
「へえ、そうでさぁ。命綱みたいなもんでして」
「でもぉ、まだ動いてるんですよね? 壊れてないのに、どうして変えちゃうんですか? もったいなくないですか?」
シルヴィアの無邪気な疑問に、ドノバンは言葉を詰まらせた。
予防保全という概念が、この令嬢にはないのだ。
「い、いや、異音がするってことは、もう限界なんでさぁ。壊れてからじゃ遅いんですよ!」
「えー、でもぉ……」
シルヴィアは困ったようにギルバートを見上げた。
「ギルバート様、どう思います? 私、ヴィクトリア様に『経費はなるべく節約するように』って教わったんですけど……」
ギルバートは腕を組み、思案顔を作った。
もちろん、ポーズだけだ。
彼に機械の知識などない。
彼は節約という言葉に反応した。
最近、ヴィクトリアの経営手腕のおかげで金回りは良いが、無駄遣いは良くないと常々思っていたのだ。
「うーん、シルヴィアの言う通りだね。まだ動いているものを捨てるのは、商売として感心しないな」
「だ、旦那様!」
「それに、ドノバン。君たちは少し心配性すぎるんじゃないか? ちょっと音がするくらいで大騒ぎして。もう少し様子を見て、本当に壊れたら修理すればいいだろう」
「そんな! 水が出ちまったら、修理どころじゃねえんです! 人も死ぬかもしれねえ!」
ドノバンは食い下がった。
彼の額には脂汗が滲んでいる。
彼は助けを求めるように、再びヴィクトリアを見た。
その心臓の鼓動に、不整脈が生じ始めたのは、ヴィクトリアが執務室の実権を事実上手放してから数日後のことだった。
昼下がりの屋敷に、ドタドタという荒っぽい足音が響き渡った。
本来なら使用人が取り次ぐはずの手順を飛ばし、執務室の扉を直接叩いたのは、鉱山現場監督のドノバンだった。
彼は炭塵で黒く汚れた作業着のまま、焦燥しきった表情で部屋に入ってきた。
「奥様! ヴィクトリア奥様はいらっしゃいますか!」
ドノバンの大声に、ティータイムを楽しんでいたギルバートとシルヴィアが驚いて顔を上げる。
部屋の隅、書き物机で帳簿整理をしていたヴィクトリアは、静かにペンを置いて立ち上がった。
「どうしましたか、ドノバン。手順を無視して直訴に来るとは、余程のことですね」
「へえ、申し訳ねえ! だが緊急事態なんでさぁ!」
ドノバンは帽子を脱ぎ、ヴィクトリアに駆け寄ろうとした。
だが、その前にギルバートが立ちはだかった。
「おいおい、ドノバン。埃っぽいな。まずは挨拶というものがあるだろう?」
ギルバートは眉をひそめ、ドノバンの汚れた服と、清潔な執務室を見比べた。
シルヴィアは「きゃっ、汚い……」と小声で漏らし、ハンカチで鼻を覆っている。
「す、すんません、旦那様。ですが、第三坑道の排水ポンプから異音がしてるんです。シャフトが焼き付く寸前の音だ。今すぐ予備の部品を発注して交換しねえと、坑道が水没しちまいます!」
ドノバンは必死だった。
第三坑道は現在、最も有望な鉱脈だ。
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「交換部品の申請書を持ってきました。大至急、決裁印をください! 商会への発注は今日の夕方の便に乗せねえと間に合わねえ!」
ドノバンはヴィクトリアの方を見た。
これまでなら、ヴィクトリアは即座に状況を理解し、その場で予算を承認し、業者への手配まで済ませていただろう。
彼女の判断の速さと正確さを、現場の男たちは誰よりも信頼していた。
だが、ヴィクトリアは動かなかった。
彼女は完璧な姿勢で立ち尽くし、冷ややかな瞳でギルバートとシルヴィアを見た。
「……ドノバン。決裁権限は現在、当主であるアッシュフォード様と、その補佐であるシルヴィア様にあります」
「は? 奥様、何を言って……」
「私は単なる記録係です。予算の承認は、あちらにお願いしなさい」
ヴィクトリアは淡々と告げ、顎で二人を指した。
ドノバンは呆気にとられた顔をしたが、状況が切迫しているため、渋々ギルバートの方へ向き直った。
「だ、旦那様。そういうわけなんで、ここに判子を……、部品代として金貨五十枚が必要です」
「金貨五十枚!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、シルヴィアだった。
彼女は目を丸くして、ドノバンが差し出した申請書を覗き込んだ。
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シルヴィアの無邪気な疑問に、ドノバンは言葉を詰まらせた。
予防保全という概念が、この令嬢にはないのだ。
「い、いや、異音がするってことは、もう限界なんでさぁ。壊れてからじゃ遅いんですよ!」
「えー、でもぉ……」
シルヴィアは困ったようにギルバートを見上げた。
「ギルバート様、どう思います? 私、ヴィクトリア様に『経費はなるべく節約するように』って教わったんですけど……」
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もちろん、ポーズだけだ。
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最近、ヴィクトリアの経営手腕のおかげで金回りは良いが、無駄遣いは良くないと常々思っていたのだ。
「うーん、シルヴィアの言う通りだね。まだ動いているものを捨てるのは、商売として感心しないな」
「だ、旦那様!」
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