33 / 37
第33話:再会
しおりを挟む
スターリング領にある第二製鉄所は、大地から湧き上がるような熱気と、リズミカルな金属音に包まれていた。
空には管理された白い蒸気が立ち昇り、活気のある職人たちの声が飛び交う。
ヴィクトリアは、その中心にいた。
彼女が身につけているのは、かつてアッシュフォード邸で着ていた窮屈なドレスではない。
耐熱加工が施された厚手の作業着と、目を保護するゴーグル、そして腰には工具袋を提げている。
プラチナブロンドの髪は高い位置でまとめられ、煤で少し汚れた頬は、汗で光っていた。
「所長! 冷却水の循環速度、設定通り安定しました!」
「排気ダクトのフィルター交換、完了です!」
次々と上がる報告に、ヴィクトリアは的確な指示を返す。
「よし。第三区画の温度をあと二度上げて。炭素の拡散を促進させるわ」
「了解!」
彼女の声は、轟音の中でもよく通った。
ここには、曖昧な感情や、誰かの機嫌を伺う空気はない。
あるのは鉄を造るという明確な目的と、互いの技術への信頼だけだ。
ヴィクトリアはこの一週間、かつてないほどの充実感の中にいた。
彼女の知識は正しく機能し、成果を生み出し、そして尊敬を持って受け入れられている。
「……ヴィクトリア様」
ふと、背後から声をかけられた。
振り返ると、アッシュフォード邸から連れてきたマーサが立っていた。
彼女は今、この研究所の事務を一手に引き受けている。
その表情は硬く、少しだけ嫌悪の色を含んでいた。
「来客です。……門のところで、アッシュフォード伯爵が騒いでおります」
ヴィクトリアの手が、図面の上でピタリと止まった。
周囲の音が、一瞬だけ遠のいたように感じる。
「……ギルバート様が?」
「はい。『妻に会わせろ』『ここは僕の実家のようなものだ』と。……追い返しますか?」
マーサの問いに、ヴィクトリアは数秒考えた後、ゴーグルを首元に下ろした。
その瞳は、溶鉱炉の火よりも冷たく静まり返っていた。
「いいえ、通して。……ちょうど、炉の不純物除去について考えていたところだったの」
ギルバート・アッシュフォードは、製鉄所の正門前で苛立ちを隠せずにいた。
彼の上質なコートは皺だらけで、泥跳ねの跡がある。
かつて陽の光を浴びたようと称された栗色の髪は脂っぽく乱れ、目の下には濃い隈が刻まれていた。
あの日、ヴィクトリアが去ってからの数日間は、彼にとって悪夢そのものだった。
運送ギルドとの交渉決裂、銀行からの融資凍結、そして坑道の水没事故。
矢継ぎ早に襲いかかるトラブルに対し、彼は無力だった。
シルヴィアに泣きつかれても、マニュアルを投げつけても、事態は悪化する一方だ。
食事は喉を通らず、眠ることもできない。
(ヴィクトリア……。ヴィクトリアがいれば、こんなことには……!)
彼は確信していた。
彼女が戻れば全て解決する。
彼女は少し拗ねているだけだ。
自分が迎えに行けば、きっと涙を流して喜ぶはずだ。
(だって僕たちは愛し合っていたのだから……)
「……どうぞ、こちらへ」
不愛想な守衛に案内され、ギルバートは研究所の敷地内へと足を踏み入れた。
鼻をつく鉄錆の匂い。
暑苦しい空気。
彼は顔をしかめた。
こんな野蛮な場所に、美しい妻がいるなんて信じられない。
案内されたのは、応接室ではなく、巨大な溶鉱炉が見下ろせる管理デッキだった。
そこには、一人の女性が立っていた。
「……ヴィクトリア?」
ギルバートは目を疑った。
彼女は作業着姿で、腕組みをして彼を見下ろしている。
ドレスを着ていない彼女を見るのは初めてだったが、その姿は奇妙なほど堂々としていて、そして神々しいほど美しかった。
アッシュフォード邸で見ていた姿とは、まるで別人のようだ。
「……ごきげんよう、アッシュフォード様。随分とお早いご到着ですね」
ヴィクトリアの声は、冷涼な風のように彼の熱った頭を冷やした。
ギルバートは我に返り、駆け寄ろうとした。
「ヴィクトリア! やっと会えた! 心配したんだぞ!」
彼は手を伸ばし、彼女を抱きしめようとする。
だが、ヴィクトリアは半歩下がり、その手を避けた。
ギルバートの手が空を切る。
「……え?」
「汚れますわ。ここは鉄粉が舞っておりますので」
ヴィクトリアは淡々と言った。
拒絶されたという事実が飲み込めず、ギルバートは呆然と立ち尽くしていた。
空には管理された白い蒸気が立ち昇り、活気のある職人たちの声が飛び交う。
ヴィクトリアは、その中心にいた。
彼女が身につけているのは、かつてアッシュフォード邸で着ていた窮屈なドレスではない。
耐熱加工が施された厚手の作業着と、目を保護するゴーグル、そして腰には工具袋を提げている。
プラチナブロンドの髪は高い位置でまとめられ、煤で少し汚れた頬は、汗で光っていた。
「所長! 冷却水の循環速度、設定通り安定しました!」
「排気ダクトのフィルター交換、完了です!」
次々と上がる報告に、ヴィクトリアは的確な指示を返す。
「よし。第三区画の温度をあと二度上げて。炭素の拡散を促進させるわ」
「了解!」
彼女の声は、轟音の中でもよく通った。
ここには、曖昧な感情や、誰かの機嫌を伺う空気はない。
あるのは鉄を造るという明確な目的と、互いの技術への信頼だけだ。
ヴィクトリアはこの一週間、かつてないほどの充実感の中にいた。
彼女の知識は正しく機能し、成果を生み出し、そして尊敬を持って受け入れられている。
「……ヴィクトリア様」
ふと、背後から声をかけられた。
振り返ると、アッシュフォード邸から連れてきたマーサが立っていた。
彼女は今、この研究所の事務を一手に引き受けている。
その表情は硬く、少しだけ嫌悪の色を含んでいた。
「来客です。……門のところで、アッシュフォード伯爵が騒いでおります」
ヴィクトリアの手が、図面の上でピタリと止まった。
周囲の音が、一瞬だけ遠のいたように感じる。
「……ギルバート様が?」
「はい。『妻に会わせろ』『ここは僕の実家のようなものだ』と。……追い返しますか?」
マーサの問いに、ヴィクトリアは数秒考えた後、ゴーグルを首元に下ろした。
その瞳は、溶鉱炉の火よりも冷たく静まり返っていた。
「いいえ、通して。……ちょうど、炉の不純物除去について考えていたところだったの」
ギルバート・アッシュフォードは、製鉄所の正門前で苛立ちを隠せずにいた。
彼の上質なコートは皺だらけで、泥跳ねの跡がある。
かつて陽の光を浴びたようと称された栗色の髪は脂っぽく乱れ、目の下には濃い隈が刻まれていた。
あの日、ヴィクトリアが去ってからの数日間は、彼にとって悪夢そのものだった。
運送ギルドとの交渉決裂、銀行からの融資凍結、そして坑道の水没事故。
矢継ぎ早に襲いかかるトラブルに対し、彼は無力だった。
シルヴィアに泣きつかれても、マニュアルを投げつけても、事態は悪化する一方だ。
食事は喉を通らず、眠ることもできない。
(ヴィクトリア……。ヴィクトリアがいれば、こんなことには……!)
彼は確信していた。
彼女が戻れば全て解決する。
彼女は少し拗ねているだけだ。
自分が迎えに行けば、きっと涙を流して喜ぶはずだ。
(だって僕たちは愛し合っていたのだから……)
「……どうぞ、こちらへ」
不愛想な守衛に案内され、ギルバートは研究所の敷地内へと足を踏み入れた。
鼻をつく鉄錆の匂い。
暑苦しい空気。
彼は顔をしかめた。
こんな野蛮な場所に、美しい妻がいるなんて信じられない。
案内されたのは、応接室ではなく、巨大な溶鉱炉が見下ろせる管理デッキだった。
そこには、一人の女性が立っていた。
「……ヴィクトリア?」
ギルバートは目を疑った。
彼女は作業着姿で、腕組みをして彼を見下ろしている。
ドレスを着ていない彼女を見るのは初めてだったが、その姿は奇妙なほど堂々としていて、そして神々しいほど美しかった。
アッシュフォード邸で見ていた姿とは、まるで別人のようだ。
「……ごきげんよう、アッシュフォード様。随分とお早いご到着ですね」
ヴィクトリアの声は、冷涼な風のように彼の熱った頭を冷やした。
ギルバートは我に返り、駆け寄ろうとした。
「ヴィクトリア! やっと会えた! 心配したんだぞ!」
彼は手を伸ばし、彼女を抱きしめようとする。
だが、ヴィクトリアは半歩下がり、その手を避けた。
ギルバートの手が空を切る。
「……え?」
「汚れますわ。ここは鉄粉が舞っておりますので」
ヴィクトリアは淡々と言った。
拒絶されたという事実が飲み込めず、ギルバートは呆然と立ち尽くしていた。
1,460
あなたにおすすめの小説
白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします
鷹 綾
恋愛
「白い結婚」であることを理由に、夫から離縁を突きつけられた公爵夫人エリシア。
だが彼女は泣かなかった。
なぜなら――その結婚は、最初から“成立していなかった”から。
教会法に基づき婚姻無効を申請。持参金を全額回収し、彼女が選んだ新たな居場所は修道院だった。
それは逃避ではない。
男の支配から離れ、国家の外側に立つという戦略的選択。
やがて彼女は修道院長として、教育制度の整備、女性領主の育成、商業と医療の再編に関わり、王と王妃を外から支える存在となる。
王冠を欲さず、しかし王冠に影響を与える――白の領域。
一方、かつての夫は地位を失い、制度の中で静かに贖罪の道を歩む。
これは、愛を巡る物語ではない。
「選ばなかった未来」を守り続けた一人の女性の物語。
白は弱さではない。
白は、均衡を保つ力。
白い結婚から始まる、静かなリーガル・リベンジと国家再編の物語。
《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから
ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。
彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。
【番外編も完結】で、お前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか?
Debby
恋愛
ヴェルトが友人からの手紙を手に辺境伯令嬢であるレィディアンスの元を訪れたのは、その手紙に「詳細は彼女に聞け」と書いてあったからだ。
簡単にいうと、手紙の内容は「学園で問題を起こした平民──エボニーを妻として引き取ってくれ」というものだった。
一方その話を聞いてしまった伯爵令嬢のオリーブは動揺していた。
ヴェルトとは静かに愛を育んできた。そんな自分を差し置いて、言われるがまま平民を妻に迎えてしまうのだろうか。
そんなオリーブの気持ちを知るはずもないエボニーは、辺境伯邸で行儀見習いをすることになる。
オリーブは何とかしてヴェルトを取り戻そうと画策し、そのことを咎められてしまう。もう後は無い。
オリーブが最後の望みをかけてヴェルトに自分を選んで欲しいと懇願する中、レィディアンスが静かに口を開いた。
「で、そろそろお前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか」
「はい?」
ヴェルトは自分が何を言われたのか全く理解が出来なかった。
*--*--*
覗いてくださりありがとうございます。(* ᴗ ᴗ)⁾⁾
★2/17 番外編を投稿することになりました。→完結しました!
★★「このお話だけ読んでいただいてもOKです!」という前提のもと↓↓↓
このお話は独立した一つのお話ですが、「で。」シリーズのサイドストーリーでもあり、第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」の「エボニーその後」でもあります(あるいは「最終話」のその後)。
第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」
第二弾「で、あなたが私に嫌がらせをする理由を伺っても?」
第三弾「で、あなたが彼に嫌がらせをする理由をお話しいただいても?」
どれも女性向けHOTランキングに入り、特に第二弾はHOT一位になることが出来ました!(*´▽`人)アリガトウ
もしよかったら宜しくお願いしますね!
出て行けと言ったものの、本当に出て行かれるとは思っていなかった旦那様
睡蓮
恋愛
ジーク伯爵は、溺愛する自身の妹レイアと共謀する形で、婚約者であるユフィーナの事を追放することを決めた。ただその理由は、ユフィーナが婚約破棄を素直に受け入れることはないであろうと油断していたためだった。しかしユフィーナは二人の予想を裏切り、婚約破棄を受け入れるそぶりを見せる。予想外の行動をとられたことで焦りの色を隠せない二人は、ユフィーナを呼び戻すべく様々な手段を講じるのであったが…。
白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』
鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」
公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。
だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。
――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの?
何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。
しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。
それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。
そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。
温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。
そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。
「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」
「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」
離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。
そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
〈完結〉八年間、音沙汰のなかった貴方はどちら様ですか?
詩海猫(8/29書籍発売)
恋愛
私の家は子爵家だった。
高位貴族ではなかったけれど、ちゃんと裕福な貴族としての暮らしは約束されていた。
泣き虫だった私に「リーアを守りたいんだ」と婚約してくれた侯爵家の彼は、私に黙って戦争に言ってしまい、いなくなった。
私も泣き虫の子爵令嬢をやめた。
八年後帰国した彼は、もういない私を探してるらしい。
*文字数的に「短編か?」という量になりましたが10万文字以下なので短編です。この後各自のアフターストーリーとか書けたら書きます。そしたら10万文字超えちゃうかもしれないけど短編です。こんなにかかると思わず、「転生王子〜」が大幅に滞ってしまいましたが、次はあちらに集中予定(あくまで予定)です、あちらもよろしくお願いします*
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる