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第17話:着々と進む準備
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「私はただの実務屋に過ぎません。それなのに、私が経営権を握り続けているのは、クライスト家の序列として正しくないのではないかと」
「……ふむ」
父の目が、書類のタイトルに吸い寄せられた。
『経営権及び財務管理権限の返還に関する合意書』とある。
「ですので、工房の全権限を、当主であるお父様にお返ししようと思います。私は一職人として、あるいは補佐役として退きますわ」
食卓が静まり返った。
父の目が欲深に光る。
これまで、赤字続きだった頃は「面倒だ」とアデライドに押し付けていた経営権。
だが今は、黒字化し、王都でも評判の優良事業だ。
その権限と、名誉ある工房主の肩書きが手に入る。
「……なるほど。アデライド、お前もようやく殊勝な心がけになったか」
「はい。それに、ソフィアの将来のためにも、利益の分配はお父様が管理されるべきかと」
アデライドは微笑みながら、決定的な毒餌を撒いた。
「私が管理していると、どうしても姉の稼ぎで妹を養っているという形になってしまいます。それではソフィアのプライドが傷つきますでしょう? お父様が管理し、お父様からソフィアにお小遣いを渡す形の方が、健全ですわ」
ソフィアが目を輝かせた。
姉に養われているという事実は、彼女にとっても面白くなかったはずだ。
父から貰うのであれば、それは実家の資産であり、正当な権利だと主張できる。
「お姉様、素晴らしいわ! 私もその方が気が楽よ」
「うむ。確かに、家長である私が財布の紐を握るのは当然のことだ」
父はペンを手に取った。
中身をよく読みもしない。
そこには、「経営に関する一切の負債責任も、現当主に帰属する」「アデライド・フォン・ベルンハルトは、今後一切の資金援助義務を負わない」という条項が、細かな文字で記されているにも関わらず。
「エリアス君、君も証人になってくれるかね?」
「ええ、喜んで。アデライドがこれほど家族思いだとは、僕も鼻が高いですよ」
エリアスは屈託なく笑い、証人欄にサインをした。
彼もまた、読んでいない。
アデライドが家族のために譲歩したという表面的な美談に酔っているだけだ。
最後に、アデライドが署名する。
ペン先が紙の上を滑る音だけが響く。
それは、鎖が解き放たれる音だった。
(……これで、終わり)
アデライドはペンを置いた。
この瞬間、彼女はクライスト家の財布でもサンドバッグでもなくなった。
あとは、この沈みゆく泥船から飛び降りるだけだ。
「ありがとう、アデライド。これで我が家も安泰だ」
父は満足げに書類を懐に入れた。
その書類が、破滅への片道切符だとも知らずに。
経営のノウハウも、職人の掌握術も、複雑な釉薬の配合データも、すべてアデライドの頭の中にしかない。
彼女がいなくなった翌日から、この家は混乱の渦に叩き込まれることになる。
「いいえ、お父様。今まで育てていただいた、ほんのお礼ですわ」
アデライドは優雅に微笑んだ。
その目は、食卓の誰とも合っていなかった。
彼女が見ているのは、もっと遠く、ここではないどこかだった。
帰りの馬車の中。
エリアスは上機嫌でアデライドの手を握った。
「今日のアデライドは本当に素敵だったよ。お義父様もソフィアも喜んでいた。やっぱり家族っていいものだね」
アデライドは、握られた手を振り払いたくなる衝動を抑え、無感情に耐えた。
「ええ。皆様が幸せそうで、私も肩の荷が下りました」
「うんうん。君は強いから、今まで一人で背負いすぎていたんだよ。これからはお義父様が管理してくれるんだ、君はもっと楽をしていいんだよ」
楽をしていい。
その言葉の意味を、彼は数日後に思い知ることになるだろう。
アデライドが楽をするということは、エリアスたちが地獄を見るということなのだから。
アデライドは窓の外を流れる夜景を見つめた。
街灯の光が、滲んで後ろへ飛び去っていく。
実家との縁は切れた。
残る鎖は、あと一つ。
隣で無邪気に笑う、この優しい夫だけだ。
「……エリアス様」
「ん? 何だい?」
「来週の貴方様のお誕生日は、盛大にお祝いしましょうね。……一生、忘れられない日にして差し上げますわ」
「わあ、楽しみだな! 期待しているよ」
エリアスは子供のように目を輝かせた。
アデライドは深く、静かに微笑んだ。
ええ、期待していて。
貴方が強いと信じて疑わなかった妻が、どれほど冷酷に、そして鮮やかに貴方の前から消え去るか。
その瞬間を、楽しみにしていて……。
「……ふむ」
父の目が、書類のタイトルに吸い寄せられた。
『経営権及び財務管理権限の返還に関する合意書』とある。
「ですので、工房の全権限を、当主であるお父様にお返ししようと思います。私は一職人として、あるいは補佐役として退きますわ」
食卓が静まり返った。
父の目が欲深に光る。
これまで、赤字続きだった頃は「面倒だ」とアデライドに押し付けていた経営権。
だが今は、黒字化し、王都でも評判の優良事業だ。
その権限と、名誉ある工房主の肩書きが手に入る。
「……なるほど。アデライド、お前もようやく殊勝な心がけになったか」
「はい。それに、ソフィアの将来のためにも、利益の分配はお父様が管理されるべきかと」
アデライドは微笑みながら、決定的な毒餌を撒いた。
「私が管理していると、どうしても姉の稼ぎで妹を養っているという形になってしまいます。それではソフィアのプライドが傷つきますでしょう? お父様が管理し、お父様からソフィアにお小遣いを渡す形の方が、健全ですわ」
ソフィアが目を輝かせた。
姉に養われているという事実は、彼女にとっても面白くなかったはずだ。
父から貰うのであれば、それは実家の資産であり、正当な権利だと主張できる。
「お姉様、素晴らしいわ! 私もその方が気が楽よ」
「うむ。確かに、家長である私が財布の紐を握るのは当然のことだ」
父はペンを手に取った。
中身をよく読みもしない。
そこには、「経営に関する一切の負債責任も、現当主に帰属する」「アデライド・フォン・ベルンハルトは、今後一切の資金援助義務を負わない」という条項が、細かな文字で記されているにも関わらず。
「エリアス君、君も証人になってくれるかね?」
「ええ、喜んで。アデライドがこれほど家族思いだとは、僕も鼻が高いですよ」
エリアスは屈託なく笑い、証人欄にサインをした。
彼もまた、読んでいない。
アデライドが家族のために譲歩したという表面的な美談に酔っているだけだ。
最後に、アデライドが署名する。
ペン先が紙の上を滑る音だけが響く。
それは、鎖が解き放たれる音だった。
(……これで、終わり)
アデライドはペンを置いた。
この瞬間、彼女はクライスト家の財布でもサンドバッグでもなくなった。
あとは、この沈みゆく泥船から飛び降りるだけだ。
「ありがとう、アデライド。これで我が家も安泰だ」
父は満足げに書類を懐に入れた。
その書類が、破滅への片道切符だとも知らずに。
経営のノウハウも、職人の掌握術も、複雑な釉薬の配合データも、すべてアデライドの頭の中にしかない。
彼女がいなくなった翌日から、この家は混乱の渦に叩き込まれることになる。
「いいえ、お父様。今まで育てていただいた、ほんのお礼ですわ」
アデライドは優雅に微笑んだ。
その目は、食卓の誰とも合っていなかった。
彼女が見ているのは、もっと遠く、ここではないどこかだった。
帰りの馬車の中。
エリアスは上機嫌でアデライドの手を握った。
「今日のアデライドは本当に素敵だったよ。お義父様もソフィアも喜んでいた。やっぱり家族っていいものだね」
アデライドは、握られた手を振り払いたくなる衝動を抑え、無感情に耐えた。
「ええ。皆様が幸せそうで、私も肩の荷が下りました」
「うんうん。君は強いから、今まで一人で背負いすぎていたんだよ。これからはお義父様が管理してくれるんだ、君はもっと楽をしていいんだよ」
楽をしていい。
その言葉の意味を、彼は数日後に思い知ることになるだろう。
アデライドが楽をするということは、エリアスたちが地獄を見るということなのだから。
アデライドは窓の外を流れる夜景を見つめた。
街灯の光が、滲んで後ろへ飛び去っていく。
実家との縁は切れた。
残る鎖は、あと一つ。
隣で無邪気に笑う、この優しい夫だけだ。
「……エリアス様」
「ん? 何だい?」
「来週の貴方様のお誕生日は、盛大にお祝いしましょうね。……一生、忘れられない日にして差し上げますわ」
「わあ、楽しみだな! 期待しているよ」
エリアスは子供のように目を輝かせた。
アデライドは深く、静かに微笑んだ。
ええ、期待していて。
貴方が強いと信じて疑わなかった妻が、どれほど冷酷に、そして鮮やかに貴方の前から消え去るか。
その瞬間を、楽しみにしていて……。
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