5 / 6
第5話:腐敗と発酵は紙一重
しおりを挟む
スラムの浄化と疫病の鎮圧により私の領内での評価は、領主様の隣にいる地味な女から、頼れる賢者様(ただし言動は少し変)へと順調に上方修正されていました。
しかし、領地経営には避けて通れない現実的な問題があります。
「……金がない」
執務室で帳簿を睨みつけていたクラウス様が、重々しく呻きました。
ヴァルム辺境伯領は広大ですが、その大半は未開の森と荒地。
主要な産業がなく、収入が乏しいため、商人が寄り付かないのです。
「何か高く売れる特産品があればいいのだが……。獣の毛皮は相場が不安定でな」
「でしたら、森そのものを畑にしてはいかがでしょう?」
私は持参した森の生態系調査レポートを机に置きました。
「この森の湿潤な気候と広葉樹の植生は、高級食材である黒王茸の生育に最適です。現在は天然物を採取しているだけですが、私が考案した原木栽培システムを導入すれば、安定して大量生産が可能です」
「……あの、王都のレストランで金貨一枚はする幻のキノコか? それを栽培だと?」
「はい。菌糸を植え付けた原木を適切な湿度で管理するだけです。初期投資は木材と私の技術指導のみ。利益率は極めて高いですよ」
クラウス様の目が、獲物を見つけた肉食獣のように鋭く光りました。
「採用だ。即座に取り掛かる」
さらに私たちは、領内の酒造組合を訪れました。
ここで造られる北のエールは、安酒の代名詞として知られています。
「へい、おまち!」
醸造所の親方が自信満々に出してくれたエールを、クラウス様が一口飲み……、眉間に深い皺を刻みました。
私も少し舐めてみます。
「……酸っぱいですね」
「ああ。酸味と雑味が酷い。これがうちの味だと親父たちは言うが、王都の商人には見向きもされん」
「当然です。これはエール本来の味ではありません」
私は醸造樽の中を覗き込み、鼻をひくつかせました。
ツンとする刺激臭。
「管理が杜撰すぎます。樽の洗浄が不十分なため、野生の乳酸菌や酢酸菌が混入し、アルコール発酵を阻害して酸を出しています。これではお酒というより、腐りかけの麦汁です」
私の容赦ない指摘に、親方たちが「な、なんだと小娘!」と色めき立ちました。
しかし、私は懐から小さなガラス瓶を取り出しました。
中には、私が培養した純白のクリーム状の液体が入っています。
「これは、私が選別し、純粋培養した最強の酵母です。雑菌に負けず、芳醇な香りと高いアルコールを生み出すエリート菌です」
「酵母……?」
「この樽を熱湯で徹底的に殺菌した後、この酵母だけを使って醸造してください。温度管理は私がマニュアル化します」
親方たちは渋々といった様子でしたが、クラウス様の「やれ」という一言には逆らえません。
それから数ヶ月後。
領主館には、これまでにないほど多くの商人が押し寄せていました。
「辺境伯様! 今年の黒王茸、あるだけ全て買い取らせてください!」
「いやいや、うちが先だ! 王都の料亭が喉から手が出るほど欲しがっているんです!」
「それよりヴァルム・エールの予約を! あのフルーティな香りとクリアな喉越し、革命的ですよ!」
商工会から届いた感謝状の山を見ながら、クラウス様は満足げに頷きました。
地元のお酒は北の宝石と呼ばれるようになり、キノコ栽培と合わせて莫大な収入をもたらしました。
かつて閑散としていた市場は活気に溢れ、領民たちの懐も温まっています。
その夜。
私たちはバルコニーで、完成したばかりの特製ワイン(私がブドウの皮に付く天然酵母を選抜して作った試作品)を開けました。
グラスに注がれたルビー色の液体が、月光を受けて輝きます。
「……まさか、捨てられていた傷んだ果物と、お前のカビで、こんな特産品ができるとはな」
クラウス様がグラスを傾け、香りを楽しみながら呟きました。
かつては見向きもされなかった森の恵みと、嫌われ者だった菌類。
それが今、多くの人を喜ばせている。
「ふふ、腐敗と発酵は紙一重ですから」
私は自分のグラスを見つめ、静かに答えました。
「同じ微生物の働きでも、人間に害や不快感を与えれば腐敗と呼ばれ、益をもたらせば発酵と呼ばれます。菌自体は変わらないのに、置かれた環境と周囲の評価軸で、その呼び名は変わるのです」
王都での私は、まさに腐敗扱いでした。
カビ臭い、陰気だ、役に立たないと捨てられました。
けれど、この場所では。
「世間から見捨てられた人間も同じです。条件さえ整えれば、王都の方たちがひれ伏すような芳醇な価値を生み出せるのです」
私がそう言うと、クラウス様はグラスを置き、バルコニーの手すりに寄りかかって私を見下ろしました。
「……王太子は、最高のヴィンテージワインになる前のブドウを、腐っていると勘違いして捨てた大馬鹿者だな」
「あら。私はまだ熟成途中ですよ?」
「ふ、違いない。だが、俺はこの味を気に入っている」
ぶっきらぼうな物言いですが、その瞳には確かな信頼と、熱の篭った色が宿っていました。
私は頬が熱くなるのを誤魔化すように、ワインを一気に飲み干しました。
「……酔いが回ってしまいそうです」
「酔えばいい。ここは俺の城で、お前は俺の……、最高のパートナーだ」
夜風が心地よく、私たちの新たな門出を祝福しているようでした。
王都では今頃、私が管理していた産業がどうなっているのか。
ふとそんなことが頭をよぎりましたが、今のこの充実感の前では、些細なことに思えました。
しかし、領地経営には避けて通れない現実的な問題があります。
「……金がない」
執務室で帳簿を睨みつけていたクラウス様が、重々しく呻きました。
ヴァルム辺境伯領は広大ですが、その大半は未開の森と荒地。
主要な産業がなく、収入が乏しいため、商人が寄り付かないのです。
「何か高く売れる特産品があればいいのだが……。獣の毛皮は相場が不安定でな」
「でしたら、森そのものを畑にしてはいかがでしょう?」
私は持参した森の生態系調査レポートを机に置きました。
「この森の湿潤な気候と広葉樹の植生は、高級食材である黒王茸の生育に最適です。現在は天然物を採取しているだけですが、私が考案した原木栽培システムを導入すれば、安定して大量生産が可能です」
「……あの、王都のレストランで金貨一枚はする幻のキノコか? それを栽培だと?」
「はい。菌糸を植え付けた原木を適切な湿度で管理するだけです。初期投資は木材と私の技術指導のみ。利益率は極めて高いですよ」
クラウス様の目が、獲物を見つけた肉食獣のように鋭く光りました。
「採用だ。即座に取り掛かる」
さらに私たちは、領内の酒造組合を訪れました。
ここで造られる北のエールは、安酒の代名詞として知られています。
「へい、おまち!」
醸造所の親方が自信満々に出してくれたエールを、クラウス様が一口飲み……、眉間に深い皺を刻みました。
私も少し舐めてみます。
「……酸っぱいですね」
「ああ。酸味と雑味が酷い。これがうちの味だと親父たちは言うが、王都の商人には見向きもされん」
「当然です。これはエール本来の味ではありません」
私は醸造樽の中を覗き込み、鼻をひくつかせました。
ツンとする刺激臭。
「管理が杜撰すぎます。樽の洗浄が不十分なため、野生の乳酸菌や酢酸菌が混入し、アルコール発酵を阻害して酸を出しています。これではお酒というより、腐りかけの麦汁です」
私の容赦ない指摘に、親方たちが「な、なんだと小娘!」と色めき立ちました。
しかし、私は懐から小さなガラス瓶を取り出しました。
中には、私が培養した純白のクリーム状の液体が入っています。
「これは、私が選別し、純粋培養した最強の酵母です。雑菌に負けず、芳醇な香りと高いアルコールを生み出すエリート菌です」
「酵母……?」
「この樽を熱湯で徹底的に殺菌した後、この酵母だけを使って醸造してください。温度管理は私がマニュアル化します」
親方たちは渋々といった様子でしたが、クラウス様の「やれ」という一言には逆らえません。
それから数ヶ月後。
領主館には、これまでにないほど多くの商人が押し寄せていました。
「辺境伯様! 今年の黒王茸、あるだけ全て買い取らせてください!」
「いやいや、うちが先だ! 王都の料亭が喉から手が出るほど欲しがっているんです!」
「それよりヴァルム・エールの予約を! あのフルーティな香りとクリアな喉越し、革命的ですよ!」
商工会から届いた感謝状の山を見ながら、クラウス様は満足げに頷きました。
地元のお酒は北の宝石と呼ばれるようになり、キノコ栽培と合わせて莫大な収入をもたらしました。
かつて閑散としていた市場は活気に溢れ、領民たちの懐も温まっています。
その夜。
私たちはバルコニーで、完成したばかりの特製ワイン(私がブドウの皮に付く天然酵母を選抜して作った試作品)を開けました。
グラスに注がれたルビー色の液体が、月光を受けて輝きます。
「……まさか、捨てられていた傷んだ果物と、お前のカビで、こんな特産品ができるとはな」
クラウス様がグラスを傾け、香りを楽しみながら呟きました。
かつては見向きもされなかった森の恵みと、嫌われ者だった菌類。
それが今、多くの人を喜ばせている。
「ふふ、腐敗と発酵は紙一重ですから」
私は自分のグラスを見つめ、静かに答えました。
「同じ微生物の働きでも、人間に害や不快感を与えれば腐敗と呼ばれ、益をもたらせば発酵と呼ばれます。菌自体は変わらないのに、置かれた環境と周囲の評価軸で、その呼び名は変わるのです」
王都での私は、まさに腐敗扱いでした。
カビ臭い、陰気だ、役に立たないと捨てられました。
けれど、この場所では。
「世間から見捨てられた人間も同じです。条件さえ整えれば、王都の方たちがひれ伏すような芳醇な価値を生み出せるのです」
私がそう言うと、クラウス様はグラスを置き、バルコニーの手すりに寄りかかって私を見下ろしました。
「……王太子は、最高のヴィンテージワインになる前のブドウを、腐っていると勘違いして捨てた大馬鹿者だな」
「あら。私はまだ熟成途中ですよ?」
「ふ、違いない。だが、俺はこの味を気に入っている」
ぶっきらぼうな物言いですが、その瞳には確かな信頼と、熱の篭った色が宿っていました。
私は頬が熱くなるのを誤魔化すように、ワインを一気に飲み干しました。
「……酔いが回ってしまいそうです」
「酔えばいい。ここは俺の城で、お前は俺の……、最高のパートナーだ」
夜風が心地よく、私たちの新たな門出を祝福しているようでした。
王都では今頃、私が管理していた産業がどうなっているのか。
ふとそんなことが頭をよぎりましたが、今のこの充実感の前では、些細なことに思えました。
31
あなたにおすすめの小説
【完結】 ご存知なかったのですね。聖女は愛されて力を発揮するのです
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
本当の聖女だと知っているのにも関わらずリンリーとの婚約を破棄し、リンリーの妹のリンナールと婚約すると言い出した王太子のヘルーラド。陛下が承諾したのなら仕方がないと身を引いたリンリー。
リンナールとヘルーラドの婚約発表の時、リンリーにとって追放ととれる発表までされて……。
侯爵様に婚約破棄されたのですが、どうやら私と王太子が幼馴染だったことは知らなかったようですね?
ルイス
恋愛
オルカスト王国の伯爵令嬢であるレオーネは、侯爵閣下であるビクティムに婚約破棄を言い渡された。
信頼していたビクティムに裏切られたレオーネは悲しみに暮れる……。
しかも、破棄理由が他国の王女との婚約だから猶更だ。
だが、ビクティムは知らなかった……レオーネは自国の第一王子殿下と幼馴染の関係にあることを。
レオーネの幼馴染であるフューリ王太子殿下は、彼女の婚約破棄を知り怒りに打ち震えた。
「さて……レオーネを悲しませた罪、どのように償ってもらおうか」
ビクティム侯爵閣下はとてつもない虎の尾を踏んでしまっていたのだった……。
【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?
ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。
卒業3か月前の事です。
卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。
もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。
カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。
でも大丈夫ですか?
婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。
※ゆるゆる設定です
※軽い感じで読み流して下さい
追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する
3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
婚約者である王太子からの突然の断罪!
それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。
しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。
味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。
「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」
エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。
そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。
「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」
義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
砕けた愛
篠月珪霞
恋愛
新婚初夜に男に襲われた公爵令嬢エヴリーヌは、不義密通の罪を被せられた。反逆罪に問われた彼女の一族は処刑されるが、気付くと時間が巻き戻っていた。
あなたへの愛? そんなものとうに、砕け散ってしまいました。
魔の森に捨てられた伯爵令嬢は、幸福になって復讐を果たす
三谷朱花
恋愛
ルーナ・メソフィスは、あの冷たく悲しい日のことを忘れはしない。
ルーナの信じてきた世界そのものが否定された日。
伯爵令嬢としての身分も、温かい我が家も奪われた。そして信じていた人たちも、それが幻想だったのだと知った。
そして、告げられた両親の死の真相。
家督を継ぐために父の異母弟である叔父が、両親の死に関わっていた。そして、メソフィス家の財産を独占するために、ルーナの存在を不要とした。
絶望しかなかった。
涙すら出なかった。人間は本当の絶望の前では涙がでないのだとルーナは初めて知った。
雪が積もる冷たい森の中で、この命が果ててしまった方がよほど幸福だとすら感じていた。
そもそも魔の森と呼ばれ恐れられている森だ。誰の助けも期待はできないし、ここに放置した人間たちは、見たこともない魔獣にルーナが食い殺されるのを期待していた。
ルーナは死を待つしか他になかった。
途切れそうになる意識の中で、ルーナは温かい温もりに包まれた夢を見ていた。
そして、ルーナがその温もりを感じた日。
ルーナ・メソフィス伯爵令嬢は亡くなったと公式に発表された。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる